涼風文庫堂の「文庫おでっせい」97 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<ビートルズ、

ヴェルレーヌ、

ドストエフスキー>

 
 

312「ビートルズ詩集 (1)」

ジョン・レノン  
ポール・マッカートニー
片岡義男:訳  角川文庫
 
 
 

313「ビートルズ詩集 (2)」

ジョン・レノン  
ポール・マッカートニー
片岡義男:訳  角川文庫
 

ビートルズは、ぼくたちの時代全てを、ロックンロール音楽に再構成して聴かせてくれた。

 

その音楽のどれもが――どの詩の断片も、どのリフレインも――

いまだにぼくたちの感性の中で音を発し、生き続けている。

 

BEATLESとアルファベットを綴る時、

旧世代にはかいま見ることすらできなかったあの新しい時代が、そこに蘇る。

 

ぼくたちの心と体になりきってしまったビートルズの音楽、そしてイマジネイションの世界。

どこの誰にも、さっくりと見事な深手をおわせて消えたビートルズ。

 

 

そのビートルズの中核を形作るジョン・レノン、ポール・マッカートニー共作の全曲に、

初めて日本語で出会い直せる。

 

第二、第三のビートルズをぼくたち自身の中に作っていくために、

ビートルズの歌をいつまでも聴き続けるために、

もう一度、じかに彼らの詩の世界へ踏みこむのだ。

 

                                     <ウラスジ>

 

 

本来なら気に入った詩をいくつか載せるのですが、

ここはお気に入りの曲優先で選出しました。

初めに<メロディ>ありき。です。

 

 

          ノルウエーの森 <鳥は飛んだ>

 

          かつてぼくには恋人がいた

          というよりも

          かつて彼女がぼくを恋人にしてくれていた

          彼女はぼくに自分の部屋を見せてくれた

          素敵じゃないか

          ノルウエ―の森

 

          ここにいてよ、 と彼女は言い

          どこにでも坐っていいのよと言っていた

          ぼくはあたりを見わたしたけれど

          椅子はひとつもなかった

 

          ぼくは絨毯に坐り

          時を待ちつつ  彼女のワインを飲んだ

          午前二時まで語りあい

          「帰る時間だわ」と彼女は言った

 

           朝は仕事なのよと彼女は言い

          笑いはじめた

          ぼくは仕事はないからとこたえ

          浴室で寝ようと這っていった

 

           そして目が覚めたらぼくはひとりで

          あの鳥は飛んでいってしまっていた

          だからぼくは火をおこした

          素敵じゃないか

          ノルウエーの森

 

 

最近になって、『ノルウェーの森』は誤訳で、

正しくは、『ノルウェーの家具』と訳すべきだった、と言われています。

いわゆる、”北欧家具” ですね。

なるほど、そうするとすっきり歌詞に馴染みます。

 

 

               マーサ・マイ・ディア

 

     マーサ・マイ・ディア

     私はいま世間話に日々をすごしているけれど

     どうか私をおぼえておいてほしい

     マーサ・マイ・ラヴ

     私を忘れないでほしい

     マーサ・マイ・ディア

 

     胸をのばして

     SILLY GIRL

     こんなことになってしまった

     どうにもならなくなったときには

     自分のまわりにあるものに

     すこし手をのばしてごらんよ

     SILLY GIRL

 

     自分のまわりをよく見てごらん

     よく見たらかならずわかるはず

     私ときみとはおたがいのためにあるのだということが

     SILLY GIRL

 

     手をのばしてごらん

     SILLY GIRL

     こんなことになってしまった

     どうにもならなくなったときには

     自分のまわりにあるものに

     すこし手をのばしてごらんよ

     SILLY GIRL

 

     マーサ・マイ・ディア

     きみはいつもずっと

     私にとってのインスピレーション

     どうか私によくしてほしい

     マーサ・マイ・ラヴ

     私を忘れないでほしい

     マーサ・マイ・ディア

 

ポールがペットのワンちゃんを歌った曲です。

『ジェット』もそうでした。

 

 

しかし、隔世の感というか何というか。

 

70年代前半までは、

 

レノン&マッカートニー = 

            ジョン・レノン:作詞

             ポール・マッカートニー:作曲

と、ごく普通に言われてました。

 

私が聴いていたFMラジオでも、”ジョン・レノンは作詞担当だから……” 

とDJの女性二人が話していた事を憶えています。

 

今じゃそれぞれの曲の分析が進んで、

どの曲がどっちの作品かまで判明しているっていうのに。

 

 

 

 
 
 

314「ヴェルレーヌ詩集」

ポール・ヴェルレーヌ
堀口大学:訳  新潮文庫

目次

 

土星の子の歌

艶かしきうたげ

やさしい歌

無言の恋歌

知恵

昔と今

平行して

奉献

幸福

彼女を讃える頌歌

罵詈

 

 

典型的なデカダンスの詩人ヴェルレーヌは、市民意識の高揚する激動のパリに生き、

霊肉の相克に苦しみ敗残の姿をさらしながら、

独特の音楽的手法を駆使した斬新な詩的世界を確立した。

 

本書には、

明快な表現と優雅な感覚に富む第一詩集 『土星の子の歌』、

短かった幸福な日の形見草 『やさしい歌』 

ほか 『艶かしきうたげ」『無言の恋歌』

など、詩人の永遠の魂の歌を網羅した。

 

                                     <ウラスジ>

 

ランボーとのゴタゴタはありましたが――。

 

ヴェルレーヌと言えば、上田敏の『海潮音』。

――秋の日の ヴィオロンの――。

 

そういうのも含めて、選出します。

また、詩の一節が色々と使われている事が多いので、その詩全体も挙げてみたいと思います。

 

 

                    秋の歌

 

     秋風の

     ヴィオロンの

      節ながき啜り泣き

     もの憂きかなしみに

     わがこころ

      傷つくる。

 

     時の鐘

     鳴りも出づれば、

      せつなくも胸せまり、

     思いぞ出づる

     来し方に

      涙は湧く。

 

     落葉ならぬ

     身をばやる

      われも、

     かなたこなた

     吹きまくれ

      逆風よ

 

 

                    わびしい対話

 

     うら枯れて人気なき廃園のうち

     かげ二つあらわれてまた消え去りぬ。

 

     かげの人眼死に、唇ゆがみ、

     ささやくもとぎれとぎれや。

 

     うら枯れて人気なき廃園のうち

     妖つ影ふたりして昔をしのぶ。

 

     ――過ぎし日の恋心地君はなお思いたもうや?

     ――よし思い出づるとも今はせんなきことにあらずや?

 

     ――わが名きくのみにて、君が心は今もなおときめくや?

     今もなお夢にわが魂見るや?――否よ。

 

     ――果てしなき幸にいて、われらかたみに口吸いし、

     かつての日美しかりき!――さもありつるか。

 

     ――その日頃、空いかに碧かりし、行く末の望みゆゆしく!

     ――望みとや?今はむなしく暗き空へと消えて無し!

 

     かくて影、燕麦しげるが中を分けて消え

     その言葉ききたるはただに夜のみ。

 

 

 

* 最後の一行はこうも訳されています。

 

夜よりほかに聴くものはなし

 

山田風太郎のミステリーの題名になっています。

 

 

 

                    知恵  

               巻の二 4  その八

 

     ――ああ、主よ、われいかにしてけん?あわれ、見そなわせ、わが主、

     われいま不思議なるよろこびの涙に濡れてあり、

     御身が声は同時にわれをよろこばせ、われを苦します、

     その喜びも苦しみも同じくわれに嬉しきかな。

 

     われ笑い、われ泣く、盾に立ちて

     運ばれ行く青白の天使の姿ある戦場へ

     征けと鳴るラッパを聞くと似たるかな、

     その音ほがらかにわれを導く男男しき心へと。

 

     選ばれて在ることの恍惚と不安とふたつわれにあり、

     われにその価なし、されどわれまた御身が寛容を知れり、

     ああ! こは何たる努力ぞ! されどまたなんたる熱意ぞ!

 

     見そなわせ、われここにあり、御身が声われに現わせし望みに眼くらみつつ、

     なおしかも心つつましき祈りにみちて、

     おののきて、呼吸したり……

 

 

* 選ばれて在ることの

        恍惚と不安とふたつわれにあり

 

太宰治の 『晩年』 の巻頭に引用されています。

 

 

 

 

 
 
 
 

315「罪と罰」  (上)

フョードル・ミハイロヴィッチ・
ドストエフスキー
長編   米川正夫:訳  新潮文庫
 

鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、

一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、

強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが

偶然その場に来合わせたその妹まで殺してしまう。

 

この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、

彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。

 

                                     <ウラスジ>

 

 
 
 

316「罪と罰」 (下)

フョードル・ミハイロヴィッチ・
ドストエフスキー

 

長編   米川正夫:訳  新潮文庫
 

不安と恐怖に駆られ、良心の呵責にたえきれぬラスコーリニコフは、

偶然知り合った娼婦ソーニャの自己犠牲に徹した生き方に打たれ、

ついに自らを法の手にゆだねる。

 

――ロシア思想史にインテリゲンチャの出現が特筆された1860年代、

急激な価値転換が行われる中での青年層の思想の昏迷を予言し、

強烈な人間回復への願望を訴えたヒューマニズムの書として

不滅の価値に輝く作品である。

 

                                     <ウラスジ>

 

 

ラスコーリニコフとソーニャの物語……。

 

ああ。

こんな風に単純にまとめてしまうのがいけないんだ。

 

……にしても、

ロシア文学はなぜか敷居が高い。

熱烈な支持者、愛読者との

相性が悪いんでしょうね。

 

この『罪と罰』もそうなんですが、

ドストエフスキーの小説には、

本流のほかに支流がいくつかあって、

その本流と支流だけでなく、

支流同士も感応しあって進んで行く……。

 

まるで、アマゾン川のように――とたとえたら、

『なんでロシア文学の話に

南米の川が出て来るんだ?」

 

 

かつて木々高太郎が、

<推理小説>という呼称を提案した時、

その中には芥川の『藪の中』や

ドストエフスキーの『罪と罰』も含まれていたが……。

範囲を拡げすぎて、一旦は立ち消えになった――と話したら、

『なんでドストエフスキーと

推理小説(ごとき)が結びつくんだ?』

 

 

で、最終的には、

『そんな感想では、

読んだってことにはならない』

……ちゃんと最後まで読んだのに。

 

 

ええと。

そんなこんな、やりとりがあってから、

私はこの手の読書グループから離れていくことになりました。

で、その後もドストエフスキーはじめ、

ロシア文学は読んでいくのですが、

人前ではあまり言わなくなったのです。

 

まあ、この頃は、まだまだ狭い人間関係もあっての事だと思います。

それは解かっています。

 

たまたま、”特殊” な例に遭遇してしまったのでしょう。

 

ただ――。

ロシア文学好きの人たちが、すべからくこんな風だとは思えないものの、

ちょっとしたトラウマになっています。

 

今でも苦手です。

大上段から振りかぶられて、

哲学的・神学的な喩えを、ド真ん中に投げ込まれると、

マネキン状態に陥ってしまいます。

 

ロシア文学愛読者の方々、申し訳ありません。

皆さんもそんな感じですか?

そうじゃないですよね?

 

私の<ロシア文学>読書歴は、

当分続きますので……。