涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  290. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<川口松太郎、

藤本義一、

ボーヴォワール>

 

880.「鶴八鶴次郎」 直木賞受賞作

川口松太郎
短編集   尾崎秀樹:解説  中公文庫
収録作品
 
1.鶴八鶴次郎  (直木賞受賞作)
2.風流深川唄
3.明治一代女
 
 
下町の抒情は急速に失われてゆく。
 
江戸はもちろん、明治の面影も、
今ではほとんどみられなくなったが、
川口松太郎は下町に生まれ育った者の一人として、
失われたその面影や人情を書きとめておきたいと願ったのであろう。
 
語りべとしての、意識もまたそこから生まれたものと思われる。
 
……この三作( 『鶴八鶴次郎』 『風流深川唄』 『明治一代女』 )は
いずれも川口松太郎のその後の作品世界を典型的にしめしており、
その意味でも初期の代表作とみなすことができる。
 
いわゆる芸道ものに新風をもたらし、
世話物のうまみを現代によみがえらせた功績は、
高く評価されるべきだろう。(「解説」より)
                                 <ウラスジ>
 
 
記念すべき、第一回の直木賞受賞作品。
 
というか、
この文庫に納められた三つの作品は言うに及ばず、
ある程度の年齢層より上の人たちは、
少なからず川口松太郎の作品を耳にしたことがあるはずです。
 
たとえば、『愛染かつら』。
 
映画化され、
主題歌となった 『旅の夜風』 は
超スタンダード曲。
 
♫ 花も嵐も踏み越えて ♫
 
 
たとえば、『新吾十番勝負』。
 
”○○十番勝負” と表されるものの大元となった作品。
 
 
で、”元祖・メディアミックス” とも言える、
小説、映画、舞台、を横断する作品群。
それに連なる ”華麗なる” 役者一家。
 
妻・三益愛子。
”日本の母” と言われた名女優。
 
私は彼女がドラマの中で歌っていた、
<『ブルー・シャトウ』 の替え歌>を耳にして、
”全国普及版” の歌詞を知りました。
 
年輩の方なら御存知の ”例の替え歌です。
 
♫ 森とんかつ   泉にんにく
  かこんにゃく   まれ天ぷら
  静かにんじん   眠ルンペン
  ボロー ボローシャツ  ♫
  
息子・川口浩。
言わずもがなの冒険家であり、
もともとは大映の二枚目俳優。
 
また、
一連の麻薬事件で姿を消しましたが、
その他の子供たち、
川口恒
川口晶
も、1960年代後半から70年代半ばまで、
映画やテレビに登場していました。
 
この兄妹、『犬神家の一族』 で共演してたっけ。
 
そして、
再び 『川口浩』 !
 
これもある年代から上の人には忘れられない、
『水曜スペシャル・川口浩探検隊』。
田中信夫さんのナレーションと共に――。
 
個人的には、『キイハンター』 なんだけどな……。
東映俳優陣の中にあって、唯一の大映出身というのが異色でしたし。
 
あと、奥さんの野添ひとみさん。
死ぬほど可愛かった。
 
 
で、このひとみさんの姉妹、もしくは姪御さんが、
ポール・ロジャーズの奥さんだった、
マチ・ロジャーズ。
 
そのポール・ロジャーズが、
野添姉妹つながりで歌った アノ曲――。
 
生ギター一本 (だったと思う)での、
Yoake No Keiji (夜明けの刑事)』 は渋くてカッコ良かった。
 
あのシンプルさは<Free>時代の代表曲、
”All Right Now”
に通じるものがありました。
 
もうバッド・カンパニーになってるよね?
 
て、いうか、
ギター弾いてたの、ニール・ショーンなの?
サンタナんとこ辞めて、ジャーニー作る前ぐらい?
 
 
<追記>
この華やかな一族は、
筒井康隆さんの問題作、
『大いなる助走』
で、大いに茶化されています。
 
 
それでは、本編を一つ……。
 
『鶴八鶴次郎』
 
鶴八は先代鶴八の一人娘で二代目をついでいるところから、
一口に二代目と呼ばれている。
鶴次郎はその初代鶴八の弟子だった。
 
 
一度は芸事をやめた鶴八こと、お豊が高座に再び上がろうとした時、
かつての相方・鶴次郎が放った言葉の裏には……。
 
結構、グッとくるお話です。
 
 
<余談>
にしても、
<新内節>に限らず、
<義太夫節><常磐津節>
とか、
いわゆる ”浄瑠璃” には
八つの流派が存在するそうです。
 
私にとっての浄瑠璃は、
近松の ”人形浄瑠璃” で、
それとて聞きかじり以下の知識レベルですので、
あまりに区分けされると
ますます訳が解らなくなります。
 
とにもかくにも、三味線の伴奏があり、ということで。
 
ベンベン。
 
 
 
 
 
 
 
 

881.「鬼の詩」 直木賞受賞

藤本義一
短編集   小松伸六:解説  講談社文庫
収録作品
 
1.鬼の詩  (直木賞受賞作)
2.泣尼
3.浪花笑草
4.浪花珍草紙
5.下座地獄
6.浪花怨芸譚
 
 
芸にかける妖気みなぎる執念――
 
高座で馬糞をくらい、
電球をかじり、
あばた面の窪みの煙管を釣り下げて
”鬼” の咄を語る桂馬喬の凄惨な滅びを描いた
直木賞受賞作「鬼の詩」。
 
他に
「泣尼」 「浪花笑草」
など、
芸の修羅場をのたうちまわり、
果ては破滅して散っていった上方寄席芸人の
鬼気迫る生きざまを描いた5編を収録。
                                 <ウラスジ>
 
 
”東の井上ひさし、西の藤本義一” 。
 
11PMに出ていたことで、
なかなか直木賞が取れずにいた藤本義一の真骨頂。
上方の寄席芸人の世界を書くことでは人後に落ちない、という矜持。
 
堂々の力技による受賞と相成りました。
 
 
<余談 その1>
 
1883年に、岡千秋・都はるみのデュエットでヒットした、
『浪花恋しぐれ』。
 
♫ 芸のためなら 女房も泣かす
  それがどうした 文句があるか ♫
 
これは、『鬼の詩』 の桂馬喬のことではなく、
初代・桂春団治のことを歌にしたものです。
しかし、
一時はこの 『鬼の詩』 からヒントを得たものだと思っていました。
 
だよな。
 
いくら何でも、”桂馬喬” は創作だよなあ、
と思っていたら、
なんとモデルになった人物がいるらしい、と。
 
その名も、”桂米喬(二代目)”。
 
ほんまに高座であんなことやったんかいな?
 
ついでに、
初代・春団治については、
『浪花笑草』
に登場いたします。
 
<余談 その2>
大阪に住んでいた頃は、ようけ落語を見てました。
時は、
松鶴・米朝・春団治・小文枝の ”四天王” 時代。
 
上方落語独特の、
<見台・小拍子・膝隠>
の三点セットとともに、
『お笑いネットワーク』 なんかで、
演っておりました。
 
いやあ、なつかしい。
 
ほかに、
艶っぽい噺の露乃五郎、
とにかくオモロかった笑福亭松之助
小米時代の桂枝雀、
いろんな師匠がいてはりました。
 
ほんまになつかしい。
 
 
 
 
 
 

882.「第二の性 (三)」

自由な女 

シモーヌ・ド・ボーヴォワール
生島遼一:訳  新潮文庫
目次
 
第一章  永遠の女性とは?
第二章  ナルシスムの女
第三章  恋する女
第四章  神秘家の女
第五章  自由な女
結論
 
 
ボーヴォワールの言う「自由な女」とは、
「自立した女」を意味する。
彼女達は自分を取り囲む数々の困難によって
苦しい生き方を強いられているが、
自ら選択した道の前途は希望に輝いている。
著者自身は無論のこと、
あらゆる階層の幾多の女性たちの告白、証言に裏づけられて、
隠された女の悩みを大胆に暴き、
社会通念の一切の偽瞞の皮を剥ぐ
「第二の性――体験篇」の完結部。
                                 <ウラスジ>
 
 
女性の解放は結局は集団的にしか実現されえない。
しかし、
世にはこういう女の現実の状況内にありながら
閉じこめられた牢獄をそのまま栄光の天に、
隷属を崇高な自由に変えようとする
必死の女の努力が多く見られる。
 
ナルシスム、はげしい恋愛、神秘主義、
この三つはそれぞれせっぱつまった女の生き方で、
場合によると滑稽なかたちをとるが、
しばしば感動的でもある。
 
女の苦悩が具体的にはっきり見られるからだ。
                           <生島遼一:解説より>
 
前回、
何気に予告開いた通り、
私が憶えている大なり小なりの<女性運動>を
書いていきたいと思います。
 
まずは1960年代後半から起こった
アメリカの<ウーマン・リブ>。
公民権運動やベトナム戦争反対の気風に乗って、
日本にも伝えられるようになりました。
 
当時は中学になるかならないかの時期、
日本のマスコミは、半ば揶揄するような感じで、
運動の意義よりも、
 
”ブラジャーをしない”
”ブラジャーを焼こう”
 
といったムーブメントから波及した末梢的なスローガンを
大々的に喧伝していたような気がします。
 
こちとら小学校から中学に上がって、
前の席の女生徒の夏服、
白いシャツから浮き出て見える
ブラジャーのバックショットに、
むらむらし始めた時代でしたから、
このスローガンは、
何かしらに突き刺さりました。
 
で、運動はその後、下火となりましたが、
その精神は確実に後世に受け継がれていったようです。
 
ただ……。
 
この女性運動、
いくつか目の当たりにして来ましたが、
最期は内部分裂からの雲散霧消、
という形をとってしまうのは、
一定のパターンに沿ってしまうからだと思います。
 
ムーブメントと呼べるほどの影響力を持つと、
それに賛同して集まってくる人数が増えてくる。
 
”数は力なり”
というのは、政治以外でも自明の理です。
 
で、数が増してくると、
何故か、跳ねっかえりや過激派系の人間が出てくる。
 
彼らはより行動的なので、
本来の趣旨とは違うことをやっても、
看板は一緒だから、
段々運動そのものに疑問符がつき、
批判が表面化してくることになる。
 
そうなると、
外側からは運動にシンパシーを感じていた人たちが距離を置き始め、
内側からは自粛を叫ぶ声が生まれてくる。
 
そして、内部崩壊。
 
今度の、<Mee Too>運動も。
まさしくそれに当てはまってしまったような気がします。
 
それにもうひとつ。
 
フランスのボーヴォワールを差し置いて何おかいわんや、
という感じでもあるんですが……。
 
どうもアメリカ発祥の様々なムーブメント 
——女性運動に限らず――
を、欧州勢は意に介していないような気もします。
 
”またヤンキーがなんか言ってる”
みたいな感じ。
 
フランス人はおちょくり、
イタリア人は話半分に聞き、
スペイン人はハナから無視している。
ドイツ人に至っては理詰めで避ける始末。
 
<Mee Too>運動にしても、
カトリーヌ・ドヌーヴに始まって、
アラン・ドロンで終わったという印象を持っています。
 
『ガープの世界』に出て来た、
”ムーブメント・テロリスト”
の出現とともに、運動は一旦、沈静化するようです。
 
しかし、
アラン・ドロンの<勲章授与>に関する、
言いがかりとも言える言動は、
アホ丸出しでしたね。
 
人数が増えると、アホが入ってくる。
 
日本の<中ピ連>に関しては、
またいずれ。