[海外の小説]Vol.10
<ピンチョン、
サルトル>
28.「 V.」 *
トマス・ピンチョン
長編 三宅 卓雄+伊藤貞基+
中川ゆきこ+広瀬英一+中村紘一:訳
国書刊行会
1960年代のアメリカ文学は、
50年代の文化状況に対抗する
一連の≪カウンター・カルチュア≫の中から
生み出されたとも言える。
この激しい変貌の時節の最も顕著な現われは、バース、バーセルミを中心とする≪ニューフィクション≫派に代表される。
1963年 『V.』 によって、年間最良処女小説賞である
ウィリアム・フォークナー賞を受賞した
トマス・ピンチョン(1937年―)は、
この新しい流れを受容しつつ、
同時に特異なゴシック性と今日的問題意識によって、
現代アメリカ文学界における最も重要な存在の一人と目されている。
本書はピンチョンのデビュー作であると同時に、
60年代アメリカ文学を象徴する代表的一冊とも言うべきものである。
(本邦初訳)
物語は1955年、
クリスマス・イブのニューヨークに始まる。
ダメ男ベニー・プロフェインは塔上艦≪処刑台号≫の仲間と共に、
夜の巷のバカ騒ぎに精出していた……。
猥雑と聖性、平板さと技巧、言葉と事物、時間と構造……。
20世紀文学の最も尖鋭な問題意識の持主にして、
巧妙なプロットの人でもあるピンチョンが、
その力量の総てを傾けて描き出した巨大な混沌の縮図 『V.』。
V.とは誰か?
V.とは何か?
<ウラスジ>
29.「 V.」 **
トマス・ピンチョン
長編 三宅卓雄+伊藤貞基+
中川ゆきこ+広瀬英一+中村紘一:訳
歴史の変動の影に常に暗躍する謎の女 V.、
巨大な欲望と錯綜した意識の総体である V.、
母であり妻であり情婦であり超母性でもある V.、
実像であり、
虚像であり、
≪奇妙な混沌≫である V.、
一人の女であり、
同時に複数の人格でもあるレディ V.……。
1898年ファショダ危機の前夜、
暗雲立ちこめるカイロの街角に、
あでやかに登場する十八娘 V.。
1934年、
ニューヨークの地下水道≪フェアリング教区≫にくり広げられる、
神父と聖鼠 V.の白熱の教儀問答。
1943年マルタ、
≪神父/シスター=V.≫の死と解体、
ガラスの義眼を持ち去る夢占い師 V.。
1913年、
革命の予感におののくパリ社交界、
少女ダンサーメラニーと恋する V.。
そして1946年、
ステンシルの意識の中に広がってゆく巨大な母 V.……。
現代アメリカ文学界きっての鬼才、
トマス・ピンチョンが、
巧妙な時間構造と錯綜した構成のうちに浮び上がらせる
今日的混沌の縮図 『V.』。
1963年、
年間最良処女小説に与えられる
ウィリアム・フォークナー賞を受賞した、
ピンチョン26才衝撃のデビュー作!
<ウラスジ>
”メタフィクション”
に関しては、さんざん言って来たので、
ここは<リンク>先にすべてを委ねて、
この作品の梗概と構成についての
個人的嗜好を述べさせていただこうと思います。
さて、<ウラスジ>にもある、
V.とは誰か?
V.とは何か?
ここに探求心を持っていかれてしまいました。
時代や場所を超越して現われる、”V.”の女。
これを年齢や物理的要素なんかで、
矛盾なく整理することが出来れば、
アンブラ―風のスパイ小説にもなりえるでしょう。
たとえば――
ワイダとともにポーランドを代表する映画監督
カワレロウィッチの映画 『影』 がそんな感じでした。
いくつかの異なる時代のエピソードが連なり、
その中で殺人や破壊工作が扱われているのですが、
その事件の『影』にいるのは、
すべて同じ人物であった、
と最後に判明する――
アンブラ―の 『ディミトリオスの棺』 も
同じような香りがする……。
でも、この作品が、
SFや幻想文学として紹介される事が多い所以は、
「V.」の混沌を促すような在り様が、
時間的・地域的に矛盾を孕んでいる部分があるからでしょう。
年齢的に<不老不死>が垣間見える点は、
ウルフの 『オーランドー』 に近いかもしれません。
ではこの作品を知るきっかけになった
<世界のSF文学総解説>の文章を――。
『V』 (1963)
”V” とは何か――
ステンシルは、ある日、スパイ活動をしていた父が、
V の文字で示される、謎の女と関っていた事を知る。
彼は、そのVの正体を追って、過去の記録を探っていく。
それは、無数の要素を表わしているようだった。
謎の国ヴェイシュー、
イギリスの女ヴィクトリア・レン、
名画「ヴィーナスの誕生」、
マルタ島ヴァレッタ、
ヴェラ・メロビング……。
政治的混乱の間に、
さまざまな ”V” があった。
”V” とは何か――
Vの女は、歴史の現場に現われる。
その度に、体の一部を人工物にかえながら。
義歯、義眼、義足と……。
もうひとりの人物プロフェインは、
ニューヨークで、職業を、下水道のワニ狩り、研究所の夜警など、
転々とかわり、ただ怠惰に生きていく。
しかし、彼の生活には、
”V” のありようそのものが関わっているのだ。
やがて、プロフェインとステンシルはマルタ島へ、
”Vの女” 最期の地へと、共に旅立っていった。
<岡本俊弥:世界のSF文学総解説より>
なんと魅力的なプロットでしょう。
文学青年には眼の毒となるようなシノプシス。
『V』 と言う文字を使った<頭韻法>。
実のところ、
この 『V.』 に対して、
とりわけ思い入れがあるのは、
私が20代前半に、この作品に影響を受けて、
長~い小説を書いてしまったからです。
『V』 ならぬ 『A・I』 という女性を巡っての、
様々な短編を寄せ集めたもので、
いろんな文体を駆使して書き上げてみました。
『A・I』 は、女性のイニシャルを表わすだけでなく、
『あい(愛)』 にも通じると考えたので……。
で、
結果、
出来の悪い『パスティーシュ小説』の
羅列のようになってしまい、
のちに登場する
清水義範さんの作品なんかを読むにつけ、
<ユーモア抜きの文体模倣>は
そぐわないと思うようになりました。
そして、スピルバーグの全く違うロボット映画、
『A・I』 が、とどめをさしました。
『A・I』 といったら 『愛』 ではなく、
『人工知能』 が当たり前。
その前に、ドラクエⅣでも大々的に宣伝されていたっけ。
まあ、とにかく直接的にも間接的にも、
書き続けることに対する躊躇要素が起こり続け、
「や~めた」
とあらためて区切りをつけるでもなく、
何となく著述願望は立ち消えになってしまいました。
ここに私の作品は封印され、
二度と陽の目を見る事がなくなりました。
この時から私にとって、
小説は書くものではなく、
読むものだという事に相成りました。
以上、文学青年の挫折についての考察――。
ご清聴ありがとうございました。
30.「 嘔 吐 」
ジャン=ポール・サルトル
長編 白井浩司:訳 人文書院
作品は日記体で書かれています。
主人公・アントワーヌ・ロカンタンの
書類から発見されたものだと、
刊行者は説明しています。
日記
なにかが私の裡に起った。
もはや疑う余地がない。
それは、
ありきたりの確信とか明白な証拠とかいったものとしてではなく、
病気みたいにやってきたのである。
そいつは少しずつ、
陰険に私の裡に根を下した。
私は自分がちょっと変で、
なんだか居心地が悪いのを感じた。
ただそれだけのことである。
気持が悪い。
すっかりいやになった。
私はあれを感じている。
不潔さを、<嘔気>を感じている。
そしてこんどのは新しい経験なのである。
……この時点で<嘔吐>が始まります。
ある時、突然悟りを開いたかなにかで、
それまで自分が携わっていたものが、人物含め、
<吐気>をもよおす対象となる。
この<吐気>は、
実存主義のキーワードの一つである、
”不安”
に連なるものなのか。
また、<吐気>が消える――
ロカンタンが<嘔気の中のささやかな幸福>
というジャズの鑑賞。
それが象徴するもの――。
ここにはメロディがなく、
音そのものの連続であり、
無数の小さい振動の反復である。
ここで取り上げられているのは初期のジャズだろうけど、
のちのモダン・ジャズをあらわす
即興演奏についての感じ方のようです。
これも実存主義でよく使われる言葉、
”不可逆性”
を良しとする<モダン・ジャズ>。
時間とともに、元に戻らない音楽。
ここら辺に共通項を見出したのかも。
ジャズ嫌いの奴からは、
『何枚でもレコードが出せちゃう』
と言われていました。
私らの学生時代は、キース・ジャレットがその代名詞でした。
一回しか聴いたことないけど。
私は、<ロックの子>なんで。
<余談>
さて、
サルトルの著作をさほど読んでいるわではないし、
こんなこと言うと、
生粋のサルトル・ファンから怒られそうだけど、
彼の小説って、
”こういうことが言いたいんだよね”
と解りすぎるところがあるような気がします。
だからこそ、とっつきにくいわりに、
ついつい読んでしまうのだと思います。
まあ、
『お前なんかサルトルを分かっちゃいない』
と言われれば、
『その通りですけど、何か?』
と答えるようにしています。
こうでもしなきゃ、色んな本が読めないもんね。
とにかく、実存主義っていうと、
例の、”ハイデガー” が登場してくるので、
それだけは避けたいと思って、
なるべく触れずにおきました。
ご了承下さい。
*これにて、普通の書籍は一旦休憩に入ります。
次回からは、再び文庫の旅を続けます。