涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  113.【番外編】 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

[海外の小説] Vol.5

 
 

13.「母なる夜」

カート・ヴォネガット・ジュニア
長編   池澤夏樹:訳  白水社
 
戦時中もっとも優秀なスパイだった男の
平穏な戦後をゆるがす陰謀の渦。
帰属先を失った現代人の悲哀を描く新しいモラルの文学。
                                 <白水社>
 
第二次大戦中、ヒトラーの擁護者として、
対米宣伝に携ったハワード・キャンベル・ジュニア――
はたして彼は、本当に母国アメリカの裏切り者だったのか?
鬼才ヴォネガットが、たくまざるユーモアとシニカルなアイロニーに
満ちたまなざしで自伝の名を借りて描く、時代の趨勢に弄ばれた
一人の知識人の内なる肖像。
                          <早川文庫:ウラスジ>
 
ドイツで育ったばっかりに……。
国籍はあっても、アイデンティティがない。
自分を認識してくれる人物の存在さえあやふやで、
主人公は『ナチ信奉者』、『反ユダヤ主義主義者』として、
イスラエルの刑務所で処刑されることを待ち望んでいる――。
 
国内に様々な問題を抱えながらも、<戦争>となると、表面上は
一致団結する多民族国家・アメリカ。
スパイ・売国奴など許されようがない。
 
今も、この小説が書かれた1960年代初頭と全く変わっていません。
 
――ヴォネガットの技術について少しだけつけ加えれば、
彼はバースやピンチョンのような高等技術は持っていないし、
その方面に耽溺するつもりもないが、
それとはまた別の意味で実に筆達者である。
 
この『母なる夜』にしても短い章構成とフラッシュ・バックを徹底的に
利用して読者を先へと連れてゆく技法はやはり一級のものだろう。
                         <池澤夏樹:解説より>
 
随分な評価という感じがするなあ……。
誉めてんのか、けなしてんのか。
 
ヴォネガットの著作歴を繙くと、
最初の『プレイヤー・ピアノ』と次の『タイタンの妖女』がSF,
三作目のこの『母なる夜』が一般(?)小説、
『猫のゆりかご』でまたSFになって、
次がまた”一般小説” の『ローズウォーターさん、――』
で、やっと、『スローターハウス5』。
 
個人的なザックリとした感想を言うと、
『この辺までは、一応話のある、ちゃんとした小説を
書いていたんだなあ』
というものです。
 
『スローターハウス5』以降、話を作るというよりも、
”書きたい文章に合わせて話を付け足している”、
という感じになって来ます。
 
章の構成がますます細分化され、わずか一行二行で終わる章が
出現します。
こうなると、『話』も『流れ』も入りこむ隙間が無くなってきます。
フラッシュバック、カットバックの使用も相変わらずですが、
およそ映像向きとは言えません。
 
ええと。
この続きは次の作品の中でも言及します。
 
 
 
 
 

14.「ローズウォーターさん、

あなたに神のお恵みを」

カート・ヴォネガット・ジュニア

長編   浅倉久志:訳  早川書房

 
聞きたまえ!
億万長者にして浮浪者、財団総裁にしてユートピア夢想家、
慈善実業家にしてアル中である、エリオット・ローズウォーター氏の
愚かしくも美しい魂の声を。
隣人愛に憑かれた一人の大富豪があなたに贈る、暖かくもほろ苦い
愛のメッセージ……
現代最高の寓話作家が描く、黒い笑いに満ちた感動の名作。
                       <早川文庫:ウラスジより>
 
 
本書はカート・ヴォネガット・ジュニアが世界に宛てた
一冊の怒りのラブ・レターである。
 
……無類に心の優しいニヒリストによって書かれた、人間愛を求める
痛切な訴えであり、あまりにも多くの苛烈さと同情、ウィットと温かみ、酸と薔薇香水に溢れているので、どんなにクールな現代人だろうと
この本を読んで気高い感傷にほだされない人がいたら、
お目にかかりたいぐらいのものだ。
 
……作者は厳格で、おそろしいほど透徹した目を持ち、
そして愛情深い。
 
腹黒い弁護士、尊大な上院議員、金持のレズビアン、老処女のメイド、
そして誇り高い漁夫までがひとりずつ、なんの容赦もない照明のもとにさらされる。
 
そして彼らのひとりひとりが――愚かしくて、貪欲で、好色で、醜悪で、
意地悪で、嘘つきでありながら――どういうわけか、現代作家の中でも
とりわけ非凡なこの才能の手にかかると、愛の対象にかわってしまうのだ。
 
それも作者だけでなく、あなたがたの愛の対象に。
                          <ジュディス・メリル>
 
 
SF評論家で、アンソロジストととしても名高い
ジュディス・メリルの ”一般小説” の推薦文。
珍しく感じたので載せてみました。
 
 
SF・『猫のゆりかご』についで出された”一般小説” 。
 
ねじの外れた富豪をめぐる人間模様。
――とか言うありふれた表現は置いといて。
 
ああ、ヴォネガットの読者にはお馴染みの、キルゴア・トラウトが
この作品で初登場します。
村上春樹さんの、デレク・ハートフィールドみたいな存在です。
 
 
ええと。
ここから前回の『母なる夜』とひっくるめて、
自分なりのヴォネガットを語らせていただきます。
これは次のブローティガンも含まれます。
 
 
ビートニクの後に出て来た、1960年前後の作家は、
最初、”ブラック・ユーモア派” というくくりで語られていました。
『キャッチ=22』のジョゼフ・ヘラー、
『カッコーの巣』のケン・キージー、
そしてカート・ヴォネガット・ジュニア。
 
彼らはやがて、”ポスト・モダニズム” の範疇に組み入れられ、
同時に、”メタフィクション派” の作家へと横滑りしていきます。
 
 
『母なる夜』の解説で、池澤夏樹さんがヴォネガットをジョン・バースや
トマス・ピンチョンと比較されたのはこのあたりの事情から来ていると
思います。
 
 
しかし、文学史の中の、<派>というか<主義>というか、
時代に沿って名づけたものもあるし、『作風』で大きく時代を跨ぐ
くくりも並存しています。
 
たとえば、ヘミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルドは、
時代から言うと<ロスト・ジェネレーション>と呼ばれていますが、
作風はまるで違います。
 
フォークナーなんか、ガルシア=マルケスのおかげか、
”マジック・リアリズム” 
の中興の祖と目され、何度目かの再評価を受けています。
 
そこでヴォネガットの立ち位置です。
池澤さんに限らず、バース、ピンチョン、バーセルミなどと 
”メタフィクション派” に数えられる事がままあります。
 
 
そもそも”メタフィクション”の基本は、
読者に 『これはフィクションです』 と小説の中で
言ってしまう事だ、
と物の本に記してあります。
……なんか判ったような判らないような。
 
なんか文芸評論家が考えた、<後付け>の匂いが
プンプンしますが……。
 
こうなるとヴォネガットの書くものも、そこに入っておかしくない。
 
……っていうか、世に知られる小説の半分以上が
そうじゃないのか?
 
まあ、いいか。
前段の意味付けは受け入れるとして。
 
メタフィクションの定義として……。
スターンの『トリストラム・シャンディ』(18世紀)を嚆矢とするようです。
なるほど、あれは三島由紀夫の『仮面の告白』の冒頭、
<生まれた時を憶えている>を凌ぐ、
<生まれる前からの自伝>であるからして、
どうしたってフィクションでしかありません。
 
ただ、そうこうしている内、現代風に段々と輪郭や法則性が
出来上がってきます
不文律のところもあるでしょうが、外壁は整えられたような感じです。
 
で、私の考えるメタフィクションの表象的な特徴。
1.長い。
2.一章も長い。
3.時系列で書かれている。
 
(例)
『V』  トマス・ピンチョン
『やぎ少年ジャイルズ』  ジョン・バース
『アーダ』  ウラジミール・ナボコフ
 
(3)が、”マジック・リアリズム” と大きく異なる点。
 
”マジック・リアリズム” は、章や段落が変わるごとに、場所はもちろん、時間軸を狂わせる事が多い。
 
ただ二つとも、一章や一段落を力業で書き綴っていく。
 
これが結構な難物で、章が変わる事で打開できたりする、
危うい読込みや誤った解釈が、中々訂正されずに
引きずっていくことになりかねません。
 
『やぎ少年ジャイルズ』なんて、途中で何を『EAT』したのか
判らなくなって、次の章でようやく判明する事が多々ありました。
こうなると、『早く来い来い次の章』の心境と
なります。
 
で、ヴォネガットの作品にはこんな感じのものが、
段々と少なくなって来ています。
というか、最初からそれを目指していない。
 
 
<結論>
ゆえに、ヴォネガットはメタフィクションの要素を
使いつつも、
メタフィクション派に分類されるべきではない。
 
ああ、面倒くせえ。
 
最後に、再び『母なる夜』の池澤夏樹さんの解説から。
 
――この『母なる夜』」を書いた頃のヴォネガットは読んでおわかりの
とおり、まだ腕の良い物語作家としての面を多分に持っていたが、
六十年代の末に書いた『屠殺場五号』あたりからむしろ予言者風の
姿勢が目立つようになり、その後の『チャンピオンたちの朝食』や
最新作『スラップ・スティック』ではその傾向はいよいよ強く、
小説とエッセイの中間を突破してストーリーのない寓話とでもいうような不思議な地点に向かって疾走しているように思われる。
 
文体は次第に乾いて一見なにげないお話風になり、
この『母なる夜』で試みられた短い章のつみかさねという技法は
極限まで押しすすめられて各章は一行から三、四十行までの
短い節に分解される。
 
この先どこへ行くのか、やはり大変に気になる作家である。
                 <池澤夏樹:『母なる夜』の解説より>
 
 
で、わたくしごと。
”マジック・リアリズム” じゃないけど、完全に時系列
おかしくなっている。
時間軸が狂ってる。
それは次のブローティガンを含めて。
 
 
 
 
 
 

15.「アメリカの鱒釣り」

リチャード・ブローティガン
短編集   藤本和子:訳  晶文社
 
鱒はどこにもいて、どこにもいない。
サンフランシスコのワシントン広場から、アメリカの都市に、自然に、
そして歴史のただなかに、失われた<アメリカの鱒釣り>の夢を
求めて、男たちの果てのない旅がはじまろうとしている――
これは、ぼくらがこれまで一度も味わったことのないほどに
魅惑的な笑いと、神話のように深い静かさにみたされた、
この上なく現実的で幻想的な物語である。
                                <ウラスジ>
 
1967年発行ではありますが、収められた作品は、
大半が60年代初頭に書かれたものだそうです。
しかし、その頃から、『アメリカの鱒釣り』というイメージを念頭に置いて書かれたものである事は明白です。
 
全47章。
 
ヴォネガットを上回る章分けの多さです。
 
何か、コラージュ映像を文字に起こしたような作品です。
エルンストが言う『意想外の組み合わせ』ではなく、
『予定通りの組み合わせ』ではありますが。
全部が全部、『アメリカの鱒釣り』に関連する――。
 
 
ポップ・アートの文章版、という感じもします。
あの頃ぐらいから、アンディ・ウォーホールが日本でも認知され出した
ような。
 
ここで脱線。
アンディ・ウォーホールと言えば、あのCM.
カラーバーが写っている態の小型テレビを肩にかついで、
「あか、みろり、あお、ぐんじょーいろ……きでい」
と、つぶやくやつ。
江口寿史さんが『ストップ ‼ ひばりくん !』のコミックでパロってた。
 
あと、ウォーホールの気色の悪い二本の映画、
『悪魔のはらわた』と『処女の生血』に出演したウド・キアー。
 
余程の映画ファンじゃないと知らないはずのこの怪優が、
20年ほど前に、日本のCMに出てた。
何気に歯ブラシの宣伝してた。
マスコミじゃ殆ど何の話題にもならなかったけど。
 
本線復帰。
 
ええー?
ブローティガンってビートニクに分類されてんの?
んなアホな。
 
新潮文庫版の柴田元幸さんの解説によると、
藤本和子さんのこの翻訳がなかったら、
翻訳者・作家としての村上春樹も考えにくいだろうと
評しておられるそうです。
 
藤本和子さんと言えばブローティガン。
ほかにロス・トーマスの『女刑事の死』と『八番目の小人』も
読んだっけ。
 
 
村上春樹さんとヴォネガット、ブローティガンとの
関係性はいずれまた。
丸谷才一さんの、そこに触れた<群像新人賞>の選評もまるまる
書き写すつもりです。
 
 
リチャード・ブローティガンは、1984年に
ピストル自殺しました。
新聞の三面に、中ぐらい以下のスペースで紹介されていたのを、
憶えています。
 
 
 
 
 
最初に読んだヴォネガットは、
『スローターハウス5』。
 
最初に読んだブローティガンは、
『愛の行方』。
 
 
あああ。順番が滅茶苦茶になっちゃった。
でも文庫とは別に、読み順通りの目録を作っているから
仕方がないか。
こういうズレはこれからも起こりうるので、ご容赦ください。