涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  248.【番外編】 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

​[日本の小説] Vol.6

 
前回はここまで。
 

19.「限りなく透明に近いブルー」

芥川賞・群像新人賞受賞作
村上龍
長編   講談社
 
麻薬とセックスに明け暮れるスキャンダラスな青春を題材に、
陶酔と幻覚の裏の孤独を描く詩的情感と清潔な感受性。
 
二十四歳のきらめく才質が創る衝撃の ”青春文学”。
                                <帯スジ>
 
 
村上龍『限りなく透明に近いブルー』は
ひとつの「出現」であるといわねばならない。
 
この作品が
≪ロックとファックの時代≫を鮮烈に代表する
一つの透視画ふうな立方体として
はじめて現われた作品であることは疑いをいれない。
 
この作者の発想が鮮明で、
しかもつぎつぎととぎれもなく奔出してくるその持続性と、
なんらのいや味も誇張もなくセックスを描く平静性は、
恐らく、生得の資質であると思われるけれども、
また、この作品の全体の構成が
十分に考え抜かれたものであることを思いあわすとき、
この若さですでにこの作者に冷静な反省力も構成力も
備えられていることを知らされる。
 
これは感覚と思索が或る根元的な場で緊密に
つながっていることにほかならぬのであって、
まさに「驚き」である。
 
                <埴谷雄高:群像新人賞選評より>
 
ちょっ。
ふむ。
殆んど、『初めまして』になる埴谷雄高氏の論評。
さすが、としか言いようがありません。
特に『構成力』の部分、
のちのちのエンタメ系とも張り合える作品で、
充分に発揮されているようです。
 
『コインロッカー・ベイビーズ』
『愛と幻想のファシズム』
『半島を出よ』
 
面白かったし、人に薦めもしたなあ――。
 
ただ、1976年(昭和51年)の発表当時、
この作品や著者に関して、なんやかんやと喧しかったこと。
 
私が憶えているのは、
<オールナイトニッポン>のCMのなかで、
龍さん自身が、江藤淳氏に対しての反論めいたことを
語っておられたことかな。
マリファナ経験に関することだったと思うけど。
 
そして、村上龍批判の最たるものをここに挙げて、
この時代の周辺事情を締めくくっておきます。
(どっかで引用したかも知れないけど……)
 
 
<透明族出現>
二十四歳の武蔵野美術大生
村上龍の小説「限りなく透明に近いブルー」が
『群像新人賞』に選ばれたのは昭和五十一年六月である。
 
麻薬と乱交の現代の青年の退廃を生々しく描いて、
「太陽の季節」以来のスキャンダラスなブームを呼び、
翌年第七十五回芥川賞を受賞するや、
爆発的な売行きを示してたちまち一二〇万部を売り尽した。
 
「透明族」という流行語が
これを批判否定した色川大吉の論評から生まれ、
菅野昭正は積極的にこれを評価したが、
村上自身は文壇よりもマス・コミにより強い関心を示し、
芸能週刊誌にモデル問題、座談会、ジャズ論、結婚事件等、
格好の話題を供し、受賞第一作も不発のまま、
一回性の最も生命短い受賞作家として
沈黙してしまった。
 
      <小川和佑:『時代と文学』 ”昭和文学作家史” より>
 
今読んでも――。
すげっ。
ここまで言うか、って感じ。
 
<裏事情>
その ”不発となった” 受賞第一作が、
文庫の方でそろそろ来るので、
時系列的に単行本紹介にシフトしたわけです。
 
 
<本題>
まあ、話題性とは別のところで、
私はこの小説を味わっていました。
 
何はさておき、その<文体>です。
 
ねえ、マニキュア落してよ、ベタベタして気持ち悪いの、抱き起こすと
確かそういう事を言った。背中の大きくあいたドレスを着ていて、真珠のネックレスがヌルヌルする程全身に汗を掻いていた。除光液なんか
なかったのでシンナーで手と足の爪を拭き取ってやると、ごめんね、店でちょっとイヤな事があったのよ、と小さな声で言った。
 
 
……流れるような、<地の文>。
 
このへんの<文体>については、こちらで少し触れています。
やっぱり、サルトル。
要するに、地の文のなかに会話が入り込んで来て、混然となっているところです。
 
 
この文体は、『テニスボーイの憂鬱』 ぐらいまでかな……。
どちらかと言えば、<エンタメ>風な作品にはそぐわないだろうから。
 
<追記>
……にしても、ハードカバー製本で、
690円って、
今じゃ考えられない値段ですね。
 
 
 
 

20.「悲しき生の果て」 わが人生観

石川啄木
短編集   尾崎秀樹:解説  大和出版
 
<目次>
・ 人間について
   人間の悲哀/人と人との深い信頼/真理追求への長い道/
   ひとり、自己を見つめる時
・ 人生について
   人生、この広大な器/空しさの中から/生き甲斐はどこに/
   燃えあがる青春の夢
・ 死について
   死/悲しき思い出/絶望とのたたかい/生きようとする力
・ 人と自然
   目覚めゆく魂/矛盾の中に息づく田園思慕/求めつづけるこころ
・ 詩・歌といのち
   一利己主義者と友人との対話/心にのこる言葉/
   自己を語る真実の姿/食うべき詩/真実、未来に求める唯一の道
・ 生活雑感
   嗜好/きれぎれに心に浮んだ感じと回想/
   心をかすめる生活のにがさ/信念をもつということ
 
 
解らない。
なんでこの本を買ったんだろう?
 
同じ、大和出版の『わが人生観』でも、
すでに読んでいた織田作之助や太宰治と
同系統の坂口安吾なら解る。
 
なぜ啄木なのか。
 
で。
……そんな個人的感想は、ともかく。
 
ここの目次にあるものは、
石川啄木の随筆のオリジナル題名ではありません。
 
たとえば、
『人と人との深い信頼』 は、原題 「わが最近の興味」 であり、
『真理追求への長い道』 は、原題 「一握の砂」 であります。
 
この変更に何の意味があるかと言えば、
”人生の指南書” よろしく、
判りやすい道しるべとして改変されたものと思われます。
 
女性書・教育書と言えば大和出版。
 
で、なんだかんだ言ってますが、
あちこちに線が引いてありました。
 
・ 人間の悲哀とは、自己の範囲を知ることである。
 
・ 今を捉えよ。
  しからずんば『永遠』は汝の手より逃げ去らん。
 
・ 一切を疑いつくして、しかもついに疑う能わざるもの一あり。
  自己の存在すなわちこれなり。
 
・ 道徳とは、弱者の卑怯なる自衛的制約のみ、
  しからずば、
  堕落せる凡人社会にのみ必要なる防腐剤のみ、
  自ら思想し自ら司配する独立の個性にありては
   何の要かあらん。
 
・ 「天才」という言葉は毒薬――よほど質の悪い毒薬である。
  一度それを服んだ少年は、一生骨が硬まらない。
 
 
さすが、
”いっぺんでも俺に頭を下げさせた奴は、みんな死ね” 
歌を詠んだ御仁です。
 
 
<ふと……>
石川啄木の写真を見てると、
サッカーの久保健英選手に似てると思ってしまう……。
 
 
 
 
 
 
 

21.「個人的な体験」 新潮社文学賞受賞

大江健三郎
長編   新潮社
 
死とセックスの鮮烈なイメージに、
信じるものを失った現代青年の苦渋と背徳の日々を描く
書き下ろし問題作。
                                 <帯スジ>
奇形に生れたわが子の死を願う青年の魂の遍歴と、
絶望と背徳の日々。
狂気の淵に瀕した現代人に再生の希望はあるのか?
力作長編。
                    <1986年新潮文庫解説目録>
 
 
主人公は ”鳥 (バード)”。
”イボイノシシ” も名前が挙がったっけ。
 
 
<個人的な興味>
ダイヤル電話のレトリックで面白かったところに線が引いてありました。
エボナイトの受話器にあけられた数十の蟻穴
今の若い人には判りにくいだろうな……。
 
 
<内容>
箱の裏側に、≪新潮社文学賞・選評≫が、
びっしりと書き連ねてありました。
それを書き写して、この項を終わらせていただきます。
 
 
大江健三郎は、
またしても世間の禁止に大胆な挑戦をこころみた。
 
従来、無邪気さの象徴として、
しばしば天使もその姿をとってあらわれる、
人間の誕生の姿に、彼はあえて悪魔の形相を刻みこんだのだ。
 
しかも作者は、安全地帯から、
この残酷をもてあそんでいるのではない。
 
あくまでも人間回復のために、
自己の全存在を賭けたものであり、
その生々し苦闘の汗しぶきに、
思わず額をぬらされる思いをするにちがいない。
 
だが、その汗しぶきも、
やがては読者自身の汗しぶきに変ることだろう。
セックスと、死と、誕生から無関係でいられる人間は
ありえないのだから。
 
目をそむけずに、
この嬰児殺しの残酷に耐ええたものにだけ、
悪魔でも天使でもない、
人間誕生そのものに立会える資格が与えられるのである。
 
人間の誕生とは、むろん、
世界のなかにまかれた明日の種子のことである。
                             <安部公房>
 
 
「個人的な体験」という題のこの小説は、
二十七歳の父と、
脳ヘルニアという奇病の赤子と、
火見子という愛人と、
三点の間に組み上げられた不思議な物語である。
 
それは小説らしい文章を感じさせず
読者を生活の触感の中に放置するような特殊な文体で書かれている。
 
また道徳というものの存在を感じさせずに、
読者を道徳の出発する以前の場所に連れて行くような
無関心の装いによって、それの連続によって構成されている。
 
鳥(バード)という仇名の幼い父なる主人公は、
無性格に、しかし実在そのものとして存在している。
                               <伊藤整>
 
 
どんなに個人的とみえる体験にも、
その特殊な体験をさらに掘りすすんでゆけば、
やがて人間一般にかかわる真実という
地表につきぬけることが可能だ、
という予定調和的な保証なしに、
私どもの個人生活は存立し得ない。
 
ところが、
ここに自分だけの、
そこからは人間的な意味のひとかけらも生まれてこない、
不毛でいやらしい穴ぼこにおちこんだ男と、
そういう男の運命に
われから巻きこまれようとするデスペレートな女がいる。
 
その一組の男女を追及する作者の眼は
比類なく透徹していて、
私どもは作者の繊鋭な筆さばきに、
最後までひっぱられてゆくしかない。
 
これが作者最高の秀作であるばかりでなく、
最近の現代文学全体の輝かしい傑作なることを、
私はひそかに確信している。
                               <平野謙>
 
 
大江氏の近作はわが文壇で画期的なものであると信じる。
 
ある異常な人生体験の一こまを日常性の上に植えつけて、
見事に根を下すのに成功している。
 
それは一見病弱な感受性に見えて、
しかも生の必然性をしっかり握っている。
 
たしかに現代世界文学の中でも誇り得る一才能である。
                           <河上徹太郎>
 
 
 
ここには高度の文学性がある。
 
私は久しぶりにすぐれた小説を読んだあとの昻奮を感じた。
 
大江君はこの作品で、人間存在の根源について鋭く問いつめている。
 
人間の誕生という厳粛な事実に読者を直面させることによって、
私たちの個人的体験の再吟味を要求し、
私たちの安易な精神を強くゆすぶっている。
                             <河盛好蔵>
 
ああ、しんど。