涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  133. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<梶井基次郎、

三浦哲郎、

北條民雄>

 
 

418.「檸檬」

梶井基次郎
短編集   淀野隆三:解説  新潮文庫
収録作品
 
1.檸檬
2.城のある町にて
3.泥濘
4.路上
5.橡の花
6.過古
7.雪後
8.ある心の風景
9.Kの昇天
10.冬の日
11.桜の樹の下には
12.器楽的幻覚
13.蒼穹
14.筧の話
15.冬の蠅
16.ある崖上の感情
17.愛撫
18.闇の絵巻
19.交尾
20.のんきな患者
 
31歳の若さで夭逝した著者の残した作品は、
昭和文学史上の奇蹟として、その声価はいよいよ高い。
 
果実の異常な美しさに魅惑され、
買い求めた一顆のレモンを洋書店の書棚に残して立ち去る 『檸檬』、
人間の苦悩を見つめて凄絶な 『冬の日』、
生きものの不思議を象徴化する 『愛撫』 ほか
 
『城のある町にて』 『闇の絵巻』 など、
特異な感覚と内面凝視で青春の不安、
焦燥を浄化する作品20編を収録。
                                <ウラスジ>
 
 
 
【 『檸檬』に関しての解説者・淀野隆三の評価 】
 
――実際梶井は頽廃を描いて清澄、衰弱を描いて健康、
焦燥を描いて自若、まことに闊達にして重厚な作風である。
そうして特に私はこの一編に現われた西欧的な風格を指摘したい。
そこには批判も、それより生れるところの諧謔さえもがある。
日本的自然主義とも耽美頽唐派とも、心境小説、私小説とも
異なる独自の小説である。
 
 
 
実際、梶井基次郎を紹介するのには難儀します。
 
短編というより掌編に近い作品の数々、
それらが夭逝したこともあって、一冊の文庫に納まってしまいます。
 
このあと私はちくま文庫の『梶井基次郎全集・全一巻』を
読む事になりますが、あきらかに再読したのにも関わらず、
「どんな話ですか?」
と、聞かれても答えるすべがありません。
 
 
『檸檬』
なら、魅入られたその果実を丸善(書店)に置いて出る話とか、
『Kの昇天』
なら、ドッペルゲンガーに憑かれた男が死ぬ話とか、
『冬の蠅』
なら、部屋から出ようとしない蠅を観察する話とか。
 
そんなもんでいいのでしょうか。
 
 
私は梶井基次郎の作品に、”詩” を感じます。
それも叙事詩ではなく叙情詩を。
ですから、ストーリーや内容をつまびらかにすることが困難なのです。
 
 
梶井基次郎の使うレトリックには
独特なものがあります。
けっして洗練されてはいませんが、読む者の感覚に最短距離で
訴えてきます。
それは、どこか無骨で土着性の匂いさえ感じさせます。
 
 
城のある町にて』
――食ってしまいたくなるような風景
に対する愛着と、幼い時の回顧や新らしい生活の想像とで
彼の時どきの瞬間が燃えた。
また時どき寝られない夜が来た。
 
『冬の蠅』
私は残酷な調子で自分を鞭打った。
歩け。
歩け。
歩き殺してしまえ。
 
まさに一編の詩です。
 
梶井基次郎に関しては、
「いちど読んでみて下さい」
というのが正解だと思っています。
 
 
 
 
 
 

419.「忍ぶ川」  芥川賞受賞作

三浦哲郎
短編集   奥野健男:解説  新潮文庫
収録作品
 
1.忍ぶ川
2.初夜
3.帰郷
4.團欒
5.恥の譜
6.幻燈畫集
7.驢馬
 
 
兄姉は自殺・失踪し、暗い血の流れに戦きながらも、
強いてたくましく生き抜こうとする大学生の ”私” が、
小料理屋につとめる哀しい宿命の娘志乃にめぐり遭い、
いたましい過去を労りあって結ばれる純愛の譜 『忍ぶ川』。
 
読むたびに心の中を清冽な水が流れるような
甘美な流露感をたたえた名作である。
 
他に続編ともいうべき 『初夜』 『帰郷』 『團欒』 など6編を収める。
                                <ウラスジ>
 
 
それぞれに家系の問題、家計の問題を抱えた
男女が、めでたく結ばれるというお話。
 
う~ん。
こんなふざけた洒落で逃げるしかないような感じですね。
 
読んだ時期が悪かったのか。
 
三浦哲郎さんの他の作品、『拳銃と十五の短篇』とか『結婚』とか、
常に次の読書候補に挙がっていたにも関わらず、
ついに今まで手にすることがありませんでした。
 
よって、印象が薄れていきます。
 
「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。
 生まれたときのまんまで寝るんだ。
 その方が、寝巻なんかよりずっとあたたかいんだよ」
 
この部分だけはしっかり覚えています。
 
観てはいませんが、この作品が映画化された時、
このシーンがクローズアップされたこともあって、
読んでる最中も早くそのシーンに到達しないかと、
そればかり考えていた気がします。
 
そのことがこの作品を、しいてはこの作品集全体を
ぼやかしてしまったのかもしれません。
 
なんせ、志乃を演じていたのが栗原小巻さんだったので、
”あの清純派が” と、あらぬ妄想も加わって――。
 
多感な時期はとっくに過ぎていたはずなんですが。
 
 
 
 
 
 

420.「いのちの初夜」

北條民雄
短編集   
あとがき:川端康成
光岡良二:解説  角川文庫
収録作品
 
1.いのちの初夜
2.眼帯記
3.癩院受胎
4.癩院記録
5.続癩院記録
6.癩家族
7.望郷歌
8.吹雪の産声
 
 
東京東村山の全生病院で、24歳の生涯を終った著者は、
生前、苦悩の彷徨を虚無へ沈まず、
絶望によってむしろ強められた健康な精神を文学の上に遺した。
 
わずかに3年の余命を保つのみであったが、
「文学界」に「いのちの初夜」が載ると大反響を呼んだ。
 
この作品は独訳英訳により、外国へも強い感動を与えている。
                                <ウラスジ>
 
 
ハンセン病の診断を受け、その療養所に入った主人公の日々を描いた私小説、とでもいうのでしょうか。
 
著者と思われる尾田が療養所に向かうところから話は始まります。
 
当時の療養所は、病院を中心にした町のようになっていました。
 
そこの住民はすべからく患者であり、重度の患者を除いて、
全員が仕事らしきことに従事していました。
 
重度の患者を世話するのも軽度の患者の役目です。
 
ただし、彼ら全員に共通することは、
この<病院町>から一歩も外に出られないということです。
 
働いていた軽度の患者も、やがて病状が進行してくると、
いまだ軽度のままの患者や、新しく住民になった者の世話を受ける。
そして死を待つばかり――。
 
これの繰り返しです。
他と隔絶された死にゆく世界、異世界です。
 
 
ここに入所した最初の夜、尾田は自殺しようとします。
重病室で見た光景が彼の絶望感をかきたてたのです。
 
――鼻の潰れた男や
   口の歪んだ女や
   骸骨のように眼玉のない男など
   眼先にちらついてならなかった。
  自分もやがてああ成り果てて行くであろう。
 
 
が、いざとなると臆してしまい、そのまま病棟に戻ります。
 
そこでその一部始終を見ていたらしい先輩患者の佐柄木から、
諭すようにこう話しかけられます。
 
 
「尾田さんあなたはこの病人たちを見て、
 何か不思議な気はしませんか」
 
「つまりこの人たちも、そして僕自身をも含めて、生きているのです。
 このことを不思議に思いませんか。奇怪な気がしませんか」
 
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」
 
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
 
「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません」
 
「人間ではありませんよ。
 生命です。
 生命そのもの、いのちそのものなんです。
 
 僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。
 
 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。
 ただ生命だけがびくびくと生きているのです。
 なんという根強さでしょう。
 
 誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。
 死ぬのです。
 
 社会的人間として亡びるだけではありません。
 そんな浅はかな亡び方では決してないのです。
 廃兵ではなく、廃人なんです。
 
 けれど、尾田さん、僕らは不死身です。
 新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、
 再び人間として生き復るのです。
 
 復活そう復活です。
 
 びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。
 新しい人間生活はそれから始まるのです。
 
 尾田さん、あなたは今死んでいるのです。
 死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。
 
 あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。
 
 一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」
 
 
 
幾分長くなりましたが、ここがこの作品の白眉とも言えるところなので敢えて載せてみました。
 
そして、この話がされた病棟の夜こそが、
『いのちの初夜』である訳です。
 
この佐柄木という人物は文学青年のように描かれています。
私小説と言うからには、モデルらしき人物が存在するのかも
知れません。
 
しかし私には、著者が自分の人格を二つに分けて、
対峙させたように思えてなりませんでした。
 
絶望の淵にいる自分と、それを克服しようとする自分、
その二つの有り様を文学として昇華させるために
取られた手法のような気がするのです。
 
 
以前やった宮原昭夫さんの「誰かが触った」が1972年、
戦後30年近く経っても偏見はなくなっていませんでした。
 
『いのちの初夜』は1936年。
<癩予防法>の撤廃などの目安がついたのは2000年前後。
 
ハンセン病の歴史は暗くて長い。
――長すぎた。