涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  132. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<山尾悠子、

スタージョン、

中河与一>

 
 

415.「夢の棲む街」

山尾悠子

短編集   荒巻義雄:解説  早川文庫

収録作品
 
1.夢の棲む街
2.月蝕
3.ムーンゲイト
4.遠近法
5.シメールの領地
6.ファンタジア領
 
 
 
街の中心には劇場があった。
 
だが、その舞台をいろどる<薔薇色の脚>は、
みずからの上半身を喰いつくしたのちに死に絶えた。
 
<夢喰い虫>のバクが住む娼館では、
屋根裏部屋の天使たちが異常に繁殖し、
<禁断の部屋>では十年前の殺人事件が、
退屈きわまる見せ物としていまだにつづく。
 
そして、異変は人知れず街を蝕む――
羽根が降りつもり、人々が死んでいき、
招待状を手に<夢喰い虫>たちが、娼婦たちが、人魚たちが
劇場へ、最後の時へと向かっていく……。
 
表題作「夢の棲む街」など、
硬質なイマジネーションで異彩を放つ新人の第一短篇集!
                               <ウラスジ>
 
 
いつでしたか、私にとってはさほど古くない昔のこと、
ジュンク堂で、国書刊行会の『山尾悠子集成』なる書籍とともに、
山尾悠子さんの特集を組んだ陳列台を目にしました。
 
国書刊行会と山尾悠子さんの取り合わせに、
「さもありなん」
とて、妙に納得したのを憶えています。
国書刊行会と言えば、<怪奇・幻想文学>の大元締めですから。
 
 
この文庫が早川から出たころは、栗本薫、新井素子に続く
女流SF作家として、大原まり子、殿谷みな子とともに
紹介されていました。<敬称略>
 
ですが山尾悠子作品は、ちょっと毛色が違っていました。
 
解説の荒巻義雄さんは、こう仰っています。
 
――山尾悠子は日本SF界の最も外縁部にいて、
むしろ安部公房や倉橋由美子などの
幻想文学の戦列に繋がるものだろうが、
としても彼女はやはりSF仲間だと筆者は思いたい。
 
なぜなら、現実的な問題として山尾悠子のようなタイプの作家を
育てる土壌は、今日、SF界以外には存在しないからだ。
 
 
昭和53年(1978年)に書かれたこの解説、
”言い得て妙” が当てはまりすぎます。
 
海の向こうでも、同様。
ヴォネガットやピンチョンに最初に着目したのはSF界。
 
かの村上春樹さんだって、
もし、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の路線を
最初に選んでいたら、評価されるのにもっと時間がかかったのでは。
 
 
ここに揃えられた作品群は、それぞれが<神話>となり得ています。
神話は、消え失せることで完結し、初めて<神話>たり得るのです。
 
とくに表題作の『夢の棲む街』と『遠近法』。
 
前者は巨大なる神としての<あのかた>が、
後者はウロボロスの世界を司る神が、
構築された世界を破局に導きます。
 
この神話的発想を、『硬質なイマジネーション』とするのでしょうか。
 
私には、大きな枠組みを拵えたうえで、
細部を丹念に構築していき、それが勝手に全体を肉付けしていく、
『稲垣足穂』的イメージのように思えました。
 
長編ならともかく、短編でこれをやれる作家はそう多くないと思います。
向こうならダンセイニかな。
 
 
 
 
 

416.「人間以上」 国際幻想文学賞

シオドア・スタージョン
長編   矢野徹:訳  水鏡子:解説 
早川文庫
 
悪戯好きの黒人の双生児、生意気な少女、発育不全の赤ん坊、
そして言葉さえ知らぬ白痴の少年。
かれらは人々から無能力者、厄介者として扱われていた。
 
しかし、世間からつまはじき者にされるかれらこそ、
来たるべき人類の鍵を握る存在――
コンピューター顔負けのの頭脳、テレパシー、テレキネシス、
テレポーテーションなどの能力をもつ超人だったのだ!
 
一人一人では半端者として無駄に使用されていた超能力も、
五人が結集して手となり足となる時、
人類を破滅に導き得るほどの恐ろしき力と化すのであった……。
 
幻想派SFの旗手が描きあげたミュータント・テーマの金字塔!
                              <ウラスジ>
 
 
この何十年、私の中で、
オールディスの『地球の長い午後』とともに
SF小説の一、二位を争って来た作品です。
 
 
<ウラスジ>を読んで、
『サイボーグ009じゃん』
と思われた方、同年代のよしみを感じます。
 
 
テレキネシスを使う少女、ジャニイ。
テレポーテーションを使う双子の黒人娘、ボニイとビーニイ。
驚異的な記憶力を持つ少年、ジェリイ。
成長しないかわりにコンピューターのように知識を蓄えていく赤ん坊。
そして白痴の青年、ローン。
彼らは呼応するように一所に集って来ます。
 
 
本編でも解説を担当しておられる水鏡子さんの人物紹介です。
 
しかも、かれらは単に奇妙な力をもっているだけの
孤独な人間の集まりというだけのものではなかった。
 
彼等は全体でひとつの生命体でもあったのだ。
一人一人は自由な人間だが、集まるとより高次な存在になる。
 
これをゲシュタルト生命という。
 
ローンはこの複雑な有機体の神経中枢、命令する頭だった。
そしてボニイとビーニイはまがったり伸びたりする腕であり、
ジャニイは、気をもみ、みんなをつなぐ胴体である。
赤ん坊は知力は持たないが誤りをおかさない計算機であり、
そしてジェリイはやがてローンのあとをゆぐことになる
予備の頭脳なのである。
                             <水鏡子>
 
なんか、この部分を読んだだけで
ワクワクしてきませんか?
 
で、彼らはどうなっていくのか?
 
 
えーと。
話は変わって――。
 
私のなかでは、いわゆる<超能力者>
を題材にしたSFを、
以下のように大雑把に分けています。
 
 
* その能力が当然で、とにかく ”はっちゃけたもの”。
  ➡ ESPもの。
* 実験材料にされるとか、とにかく ”迫害されるもの”。
  ➡ ミュータントもの。
* その他。
   
 
<ESPもの>
『虎よ、虎よ!』……アルフレッド・ベスタ―
『分解された男』……アルフレッド・ベスタ―
『エスパイ』……小松左京
 
<ミュータントもの>
『スラン』……ヴァン・ヴォ―クト     
『さなぎ』……ジョン・ウィンダム
『アトムの子ら』……ウィルマ―・H・シラス
 
<その他>
『オッド・ジョン』……オラフ・ステープルドン
『闘士』……フィリップ・ワイリー
『継ぐのは誰か?』……小松左京
 
 
これらの作品は追々でてくると思います。
 
私が好きなのは、『スラン』ですが。
 
 
 
 
 

417.「天の夕顔」

中河与一
長編   保田与重郎:解説  新潮文庫
 
”私”が愛した女には夫があった――
学生時代、京都の下宿で知り合ったときから、彼の心に人妻への
ほのかな恋が芽生え、そして二十余年……
 
心と心は固く抱き合いながら、現実には一歩手前で
踏みとどまらねばならなかった二人の、
非人間的ともいえるストイックな魂を、
純粋のゆえに貫いた殉教者的な恋を描き、
ゲーテの『ウェルテル』に比較される浪漫主義文学の名作。
                               <ウラスジ>
 
 
まず自分の中にあった ”大いなる勘違い” の吐露から。
実際、読む事によって、その勘違いは解消されましたが。
 
* 何故か判りませんが、私は『天の夕顔』を、
  木下順二作品だと思っていました。
  冗談みたいですが、『夕顔』が、『夕鶴』に
  結びついてしまったようなのです。
* また、その内容も ”羽衣伝説” を題材にしたものらしい、
  と思い込んでいました。
  これは、『天の』から来たものでしょうね。
* もう一つ、中河与一本人については、比較的新しい、
  古くても戦後の作家だと思っていました。
  これも誰かと被っていたんでしょう。
 
  解説に、この作品を誉めたのは、
  永井荷風、徳富蘇峰、与謝野晶子、とあったので、
  ”げげっ” となりました。
  昭和十三年発表なら当然でしょうが。
 
で、実際に読んでみると、<ウラスジ>通りの話、
言いたいところですが、そこそこ微妙ですね。
 
『わたくし』という男性のナラタージュではありますが、
先にモーションを掛けて来たのは『あき子』という女性のほうです。
 
で、心憎からず思っていた相手でしたから、
徐々に愛慕の念が強まっていく、という図式です。
 
まあ、恋愛の諸事情から鑑みて、どっちが先に相手を好きになった
のかは関係ありません。
 
ただ、この『あき子』という女性、『わたくし』に貸した本が、
『アンナ・カレーニナ』と『ボバリー夫人』というのがこれ見よがしです。
”不倫” を良しとしているのかどうか。
 
また、『非人間的なストイックな魂』とありますが、
こんな記述があります。
 
そこで、わたくしは少し向きの変った彼女の背中から手をおろすと、
そのまま彼女の身体を自然に抱いて、そして二人は
突然唇を触れあったのです。
 
抱擁や接吻はしてたんですね。
もちろんこれ一度きりですが。
 
愛する人に触れること。
一度触れておきながら、二度と触れないという苦行。
 
かような精神力を持ってして、<非人間的ストイック>
としたのかも知れません。
 
 
ふたりは結ばれることなく、女性は病死します。
 
 
最後に述べられた『わたくし』の思い。
 
それでもわたくしは今、たった一つ、天の国にいるあの人に、
消息する方法を見つけたのです。
それはすぐ消える、あの夏の夜の花火を
あの人のいる天に向って打ちあげることです。
悲しい夜夜、わたくしは空を見ながら、ふとそれを思いついたのです。
 
好きだったのか、嫌いだったのか、今は聞くすべもないけれど、
若々しい手に、あの人がかつて摘んだ夕顔の花を、
青く暗い夜空に向って華やかな花火として打ちあげたいのです。
 
わたくしは一夜、狂気したわたくしの喜びのために、
花火師と一緒に野原の中にたったのです。
やがて、それは耳を聾する炸裂の音と一緒に、夢のようにはかなく、
一瞬の花を開いて、空の中に消えてゆきました。
 
しかしそれが消えた時、わたくしは天にいるあの人が、
それを摘みとったのだと考えて、
今はそれをさえ自分の喜びとするのです。
 
 
ラストで題名の『天の夕顔』が、
鮮やかにきらめいてきます。
 
何となくですが、『ドルジェル伯の舞踏会』の
フランソワ側から書かれた小説、と言う感じがします。
 
この小説を『ウェルテル』に比したのは永井荷風らしいのですが、
どの辺がそう言わせたのでしょう?