涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  108. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<織田作、漱石、

          ワイルド>

 
 

349.「青春の逆説」

織田作之助
長編   諸田和治:解説  旺文社文庫
 
自意識過剰でチョッピリうぶな中学生 毛利豹一の三高入学の
てんまつと無頼な学生生活、そして中退後の新聞記者生活を
恋愛失恋織りまぜながら痛快無比に描いた長編青春小説。
豹一に負けず劣らずの珍奇な人物が出没しつつ、物語は急テンポで
展開するが、その底には、青春の哀歓がみずみずしく流れている。
                                <ウラスジ>
 
 
この作品は、短編小説『雨』を改作して、長編化したものです。
あいにく『雨』は、全集でしかお目にかかったことがありませんが。
 
 
この作品『雨』の後半の主人公である毛利豹一は、のちの長編
『青春の逆説』の主人公に発展すべきであり、『青春の逆説』の原型は
『雨』の後半にあるといってよい。
                                <青山光二>
 
 
なるほど開始早々は、豹一の母、お君の子供時代から
入っていきます。
 
お君は子供のときから何かといえば跣足になりたがった。
冬でも足袋をはかず、夏はむろん、洗濯などするときは決っていそいそ
とゲタをぬいだ。
共同水道場の漆喰の上を跣足のままペタペタと踏んで、
「ああ、良え気持やわ」
 
贔屓目かも知れませんが、私は織田作の<書き出し>が好きで、
巧みだと思っています。
そのことは『夫婦善哉』の項でも述べました。
 
実父が早くに亡くなり、再婚した母の下で豹一は育ちます。
が、そこで彼の性格を左右してしまうような話を聞かされます。
集金人として雇っていた山谷という男が、
母と義父の『聞くに堪えぬ話』を喋ったのです。
むろん、『閨房』での睦み事でしょう。
 
この時から豹一の女性嫌悪が始まります。
 
で、ドケチの義父を尻目に、
お君の支えで三高(現・京都大学)に入り、
なんやかんやでそこを中退して新聞社に入り、
わあわあ言うとりますあいだに結婚して一児の父になる――。
最後はめでたしめでたし、というところで
ございます。
……上方落語かいな。
 
しかし、<女性嫌悪>の治療法(?)がふるっていて、
女性と没交渉になるわけでもなく、いろいろとやっていくうちに
段々と治っていく、という具合でした。
迎え酒、或いは『毒をもって毒を制す』か。
 
 
にしても、『豹一』って凄い名前ですね。
大阪のオバちゃんの<豹柄好き>と関係あるんやろか?
 
 
 
 
 

350.「道草」

夏目漱石

長編   本多顕彰:解説  新潮文庫

 
海外留学から帰って大学の教師になった健三は、長い時間をかけて
完成する目的で一大著作に取りかかっている。
その彼の前に十五、六年前に縁が切れたはずの養父島田が現われ、
金をせびる。
養父ばかりか、姉や兄、事業に失敗した妻お住の父までが、健三に
まつわりつき金銭問題で悩ませる。
その上、夫婦はお互いを理解できずに暮している毎日。
 
近代知識人の苦悩を描く漱石の自伝的小説。
                         <新潮社:書誌情報より>
みんな金がほしいのだ。
いや、金しかほしくないのだ。
晩年に自身の苦悩を著した唯一の自伝的小説。
漱石が「人生に悩んで悩んでこれ以上ないほど悩みぬき」
生れた傑作。
                                  <同上>
 
古い文庫で<ウラスジ>が載ってないので、あちこちから
それっぽいのを集めてきました。
そうしているうちに、この『道草』についていろいろ思い出してきました。
 
* 「借金小説」ではなく、「貸金小説」。
* 不毛で投げやりだけど面白い夫婦の会話。
* 自伝的小説、というよりも、漱石が表わした唯一の 
  ”自然主義”小説。
 
この ”自然主義” うんぬんは解説の本多顕彰さんの文章から。
 
漱石は、自己の分身である健三を少しも仮借しない。
彼は彼の醜さを徹底的に追求し、それをえぐり出してみせる。
その点で、彼は、当時の文壇の主流をなしていた自然主義と
一致する。
しかし、彼は、当時の自然主義のように醜悪面をそれ自身のために
えぐり出したのではない。
彼は、醜悪をえぐり出してそれを自己の面上に叩きつけることによって
浄化をはかったのだ。
醜悪の摘出は、自己改良の手段だったのである。
この点、彼は、社会の醜悪面を描き出すことによって社会改良に
資しようとしたゾラに似ている。
ゾラを師と仰いだ日本の亜流自然主義よりももっと似ている。
更に漱石がゾラに近いのは、彼が作品にがっしりとした構成を
与えたことである。
ゾラは、作品に、自然の持つごとき雄大な構成を与えることを
主張したが、日本の自然主義はそれを見落し、随筆的になった。
当時の自然派にとって一敵国をなしていた漱石が、自然派よりも
もっと本質的に自然主義的な『道草』を書いたということは
皮肉であった。
                         <本多顕彰:解説より>
 
「高踏派」だ「余裕派」だ、と幾分揶揄気味の称号を漱石に
与えていた「自然主義派」は、この『道草』をどう思ったんでしょうかね。
 
『構成』ってことで言うと、日本の自然主義作家たちは、
過去・現在のことをありのままに書くわけだから、
『構成』などに頓着していられない。
 
で、未来のために破天荒な行動をあえて取ったりするが、
それを恣意的とは見做さず、一つの人生経験として許容する。
 
それを実践してきた作家が、自然主義に従って作品を完成させるが、
その時にはすでに自然主義は廃れてしまっていた。
その作家やその作品は、もはや嘲笑の対象でしかない――。
 
佐藤春夫の『都会の憂鬱』が思い出されます。
 
しかし、本多顕彰さんにしろ、前に紹介した『風俗小説論』の
中村光夫さんにしろ、やたらと日本の自然主義に手厳しいですね。
 
逆に言えば、それだけ巨大な勢力で、文壇の主流だったことを
窺わせます。
四角い顔でごま塩頭の丸眼鏡(?)が
目に浮かぶ……。
 
『悩みに悩み』とはありますが、夫婦の会話はあまりそれを
感じさせません。
ぎすぎすしてはいるものの、どこかユーモラスです。
私が漱石を好きなところ。
 
最後の最後も夫婦の会話で締めくくられます。
 
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだ中々片付きやしないよ」
「どうして」
「片付いたのは上部だけじゃないか。だから御前は形式張った女だと
いうんだ」
細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は
何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を
抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも
分りゃしないわね」
細君はこう云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。
 
この夫婦、何だかんだ云いながら、
巧くやっていけそうなんだけど。
 
 
 
 
 
 

351.「サロメ・

       ウィンダミア卿夫人の扇」

オスカー・ワイルド

短編集   西村孝次:訳  新潮文庫

収録作品

 
1.サロメ
2.ウィンダミア卿夫人の扇
3.まじめが肝心
 
月の妖しく美しい夜、ユダヤ王ヘロデの王宮に死を賭した
サロメの乱舞。
血のしたたる生首の唇に女の淫蕩の血はたぎる……。
怪奇と幻想と恐怖とで世紀末文学の代表作たる『サロメ』。
夫の情婦といわれる女が臆面もなく舞踏会に姿を現わすが、
はたして夫人は……?
皮肉の機才に富んだ風俗喜劇『ウィンダミア卿夫人の扇』
ほかにワイルド劇の頂点を示す『まじめが肝心』を収録。
                                <ウラスジ>
 
ワイルドによる戯曲三編。
 
 
『サロメ』
マタイによる福音書  第一四章
――さてヘロデの誕生日の祝いに、ヘロデの娘がその席上で
舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも
与えようと、彼は誓って約束までした。
すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。
 
マルコによる福音書  第六章
――ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガラリヤの重立った
人たちを招いて宴会を催したが、そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。
そこで王は子の少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と
誓って言った。
そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、
母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。
するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、
「今すぐに、バプテスマののヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」
 
 
自分で『新約聖書』に ”サロメ” と書き加えていました。
聖書には、名前が記されていないですね。
 
 
1.(立ち上がって)ヨカナーンの首。
2.ただただわが心の欲するままに、銀の大皿にヨカナーンの首を、
  と申しあげましたまでのこと。
3.ヨカナーンの首をいただきとうございます。
4.ヨカナーンの首をいただきましょう。
5.ヨカナーンの首を。
6.ヨカナーンの首をくださいまし。
7.ヨカナーンの首をくださいまし。
8.ヨカナーンの首をくださいまし。
 
こんだけ繰り返されると、
いやでも印象に残ってしまいます。
 
最後、サロメはヨカナーンの首をつかみ、
口づけしながら繰り言を続けます。
 
自分を蔑んだ男、自分を近づけなかった男、
自分に触れさせなかった男、
 
――そして自分が魅了された男――。
 
今風に云えば、自分を振った男、捨てた男の屍に対して、
不毛な ”勝利宣言” を行っているような感じです。
 
ヘロデはそんなおぞましい光景を目にして、サロメを殺すよう、
兵に命じます。
 
ビアズリーやモローのサロメは、やっぱり<ワイルドのサロメ>を
踏まえたものですね。
 
 
 
『ウィンダミア卿夫人の扇』
夫の愛人と目されたアーリン夫人の正体とは?
よくあるコントで、設定がゴシックがかっているけど。
 
『まじめが肝心』
二人の男がいて、それぞれ想像上の友人や兄弟を持っています。
そこにそれぞれの許婚者や被後見人の女性二人が登場します。
それに、許婚者の母親や、男二人の素性なんかがからんできて、
収拾がつかなくなりそうなところで、”機械じかけの神” が現われて、最後、二人の男はそれぞれの女性と結ばれます。
 
<機械じかけの神が現われる>とは一種の例えです。
演出において、混乱した状況を収拾する手法のことです。
たとえば、『誰と誰が実は親子だった、兄弟だった』、とか、
『名も知らぬ遠い親戚が莫大な遺産を残してくれていた』とか。
その事で、物語が一挙に収束してしまうような情報・事実を終盤に
ぶち込んで来るやり方です。
『よしもと新喜劇』でよく見る大団円のような。
 
 

【涼風映画堂の】

”読んでから見るか、見てから読むか”

 

今回紹介するのは、多いなる問題作です。

”ここまで改変してもいいのか?”

と思える一品・珍品です。

 
 
 
◎「情炎の女サロメ」  (Salome)
 
1953年 (米)
監督:ウィリアム・ディターレ
脚本;ハリー・クレイナー
撮影:チャールズ・ラング
音楽:ジョージ・ダニング
出演
リタ・ヘイワ―ス
スチュワート・グレンジャー
チャールズ・ロートン
ジュディス・アンダーソン
アラン・バデル
 
*一応ワイルドの戯曲をベースにしてあるという事ですが……。
*いささか、とうの立ったサロメです。
*そのサロメですが、聖書でもワイルドでもない、
  敬虔(?)な乙女として描かれています。
*踊るシーンはあります。
*じゃあ、何のために踊るのかと言うと、
  何とこれがヨハネを救うためとか。
*これで私は引っ繰り返りました。
*改変にも程がある。
*自らのプロダクションを率いてたリタ・ヘイワ―スの意向なのかな。
*トレードマークの赤毛を金髪に染めての熱演。
*もともと舞台出身のダンサーでもあるので、踊りも上手い。
*フレッド・アステアの相手役が出来るぐらい。
*1940年代の ”セックス・シンボル” といわれているけど、
  よく見ると理知的な淑女顔に見える。
*64年の『サーカスの世界』では、CC(クラウディア・カルディナーレ)
  のお母さん役だった。
*『血と砂』、『ギルダ』、『海の荒くれ』……。
*ステレオタイプの<悪女>がハマり役。
*いっとき、オーソン・ウェルズと結婚してたっけ。
*彼女の名が再び注目されたのは、映画「ショーシャンクの空に」が
  ヒットしてのこと。
*原作はスティーヴン・キングの小説。
*その小説の題名は、『刑務所のリタ・ヘイワ―ス』。