涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  107. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

 <コンスタン、ゲーテ

          谷崎>

 
 

346.「アドルフ」

バンジャマン・コンスタン
長編   新庄嘉章:訳  新潮文庫
 
若くして倦怠に悩みながら田舎町に住むアドルフは、
愛されたい、女を征服したいとの動機から、
貴族の情婦エレノールに恋心をいだく。
しかし望みを果たしてみると、耐えがたい重荷を感じて
彼女と手を切ろうとあせる……。
 
情熱の解放を求めながらも、ひとたび愛を得ると冷却し、
それの負担に悩む男のエゴイズムを分析し追究した、
近代フランス心理小説史上の最高傑作の一つである。
                               <ウラスジ>
 
ええと。
いきなり無駄話ですみません。
 
私が海外小説を読んでいく目安にしたものは、読書案内的なものと、
文庫本の巻末についている目録でした。
とりわけ、海外モノを読み始めた頃は、岩波文庫より新潮文庫の
ラインナップが充実していて、必ずその目録に目を通したものです。
 
その中で、私が勝手に、
”いちにんいっさつ (一人一冊)” 
と名付けた作家や本がありました。
 
この『アドルフ』の巻末目録から抜き出すと、
「孤児マリー」  オードゥー
「昼顔」  ケッセル
「アドルフ」  コンスタン
「醜女の日記」  プリニエ
「マノン・レスコー」  プレヴォ―
「クレーヴの奥方」  ラファイエット夫人
あたりです。
 
この作家たちにも、他の作品があるかもしれません。
しかし、邦訳されていないか、少なくとも文庫化はされていません
でした。
まさに ”文庫一冊勝負” になっていた作家です。
「アドルフ」とコンスタンは典型的なその一例でした。
 
で、そういった作家たちとは、”一期一会” になってしまいます。
二冊目三冊目を読んでいくうちに、作家像が自然と補充されてゆくと
言う事がありません。
 
今回、何十年ぶりに、「アドルフ」を手に取ってみて、
”改めて” ではなく、”初めて” 
気付いたという事柄に少々驚いています。
 
* コンスタンの名前を、
 <バンジャマン>ではなく、
    <パンジャマン>と記憶していたこと。
* 『ジャングル大帝』のイメージからか?
* 私らの世代からすれば、成獣となった白いライオンは『レオ』
   ではなく、『パンジャ』です。
* ……敷物になっちゃいましたが……。
* しかし、<読書ノート>にはちゃんと、
  <バンジャマン>と、
   半濁点ではなく濁点が打ってある。
* その経緯がわからない……。
     その時点で気付かなかったのか?
* その<バンジャマン>とは、<BENJAMIN>、つまり 
   ”ベンジャミン” のフランス語よみであること。
* 『フランクリン・ベンジャミン』よりも、『ベンジャミン伊東』、
* ”人の迷惑、かえりみず……” 
   のフレーズとともに始まる<電線音頭>。
* ああ、懐かしい。
 
そろそろ本題へ。
 
Ⅴ.(第五章)
愛していて愛されないのは恐ろしい不幸である。
だが、もはや愛していないときに情熱的に愛されるのは、
更に大きな不幸である。
 
アドルフがエレノールを物にした後の感慨です。
身勝手ではありますが、極めて正直な気持なんでしょう。
 
どちらかと言えば、その台詞の前段にある、
”私は彼女が自分よりも優れているように感じていた。
 彼女にふさわしからぬ自分を私は蔑んだ”
……的なものの方が、たちが悪い。
 
これって、今でも頻繁に使われているセリフに近いですね。
 
せっかく恋人同士になったと言うのに、
「私は彼女には不似合いだ」
「私といると、彼女が不幸になる」
うんぬん――と、すぐさま女性に飽きてしまう輩――。
そんな輩の吐く言い草と、根っこは同じ言葉でしょう。
 
だったら、最初から彼女には近づかなきゃ
良いのに。
 
この手の発言をする男には、どうやら『女性には近づかない』という
選択肢はないようです。
 
 
近代心理小説の先駈け(1816)といわれるだけあって、アドルフの
心理の推移が、一人称で如実に語られて行きます。
 
【鉛筆で波線を引いていた部分】
 
そして言葉はといえば、常にあまりにもぎごちなく、またあまりにも
一般的で、もろもろの感情をだいたいこんなものと指示するには
役立っても、それをはっきり定義するとなるとまるで役に立たない。
 
私はあれやこれやと計画をたてた。
彼女を征服する方法をいろいろ工夫した。
何もやってみたことがないだけに、かえって頭から成功を決めてかかる
あの無経験な自惚れで。
 
われわれはほとんどいつも、気休めのために、自分の無気力や
弱気を、いかにもそれが計画や主義であるようにごまかしてしまう
ものである。
それは、われわれの心の一部にひそんでいて、いわばわれわれを
観察している者を満足させることである。
 
 
なるほど、この辺の筆致はラディゲに共通していますね。
当時、そう思っていたかどうかは判りませんが。
 
別れるに別れられない男と、もう男が自分を愛していないと自覚しつつ別れない女の心理戦は、惰性と執着心の結びつきに様変わりして
いきます。
 
これって、よく言われるベテラン夫婦の<結婚生活>の内幕に
近いんじゃない?
 
やば。
前言取り消し。
 
ええと。
最終的にエレノールは亡くなってしまいます。
 
本音を言えば、『ホッと』した?
それに関しても、アドルフはいろいろと感慨にふけりますが、
私はあまり額面通りには受け止めませんでした。
 
何故って、一人称の心理小説は、読者を味方につけたり、騙したりするのに、もっとも有効な手段ですから。
 
 
 
 

347.「若きウェルテルの悩み」

ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・
ゲーテ
長編   高橋義孝:訳  新潮文庫
 
ゲーテ自身の絶望的な恋の体験を作品化した書簡体小説で、
ウェルテルの名が、恋する純情多感な青年の代名詞となっている
古典的名作である。
 
許婚者のいる美貌の女性ロッテを恋したウェルテルは、
逃げられぬ恋であることを知って苦悩の果てに自殺する……。
 
多くの人々が通過する青春の危機を心理的に深く追究し、
人間の生き方そのものを描いた点で
時代の制約をこえる普遍性をもつ。
                                <ウラスジ>
 
 
書簡体というよりも、日記のように感じます。
しかも、だれかに読ませることを想定していない日記――。
そこにあるのは、ストレートすぎる心情の吐露です。
 
ひたすら自己の感情に忠実で、青春のエネルギーのすべてをもっぱら
自己の内部に向けるのみで、現実の社会に適応し、そこに自己の
生活を築きあげることを知らない青年の悲劇が『ウェルテル』なのである。
                          <高橋義孝:解説より>
 
終り近く(第三部にあたるのかな?)、いきなり『編者』なる人物が
登場します。
「あれ?」と思いますが、残された書簡の管理者という態でしょうか。
 
何はともあれ、この人物の出現で、ウェルテルの<死>が確実視
されてしまいます。
 
と、同時に、第三の『ゲーテ』が現われてくる事になります。
 
* ウェルテルである、若き直情径行のゲーテ。
* 手紙の受取人ウィルヘルムである、観察者としてのゲーテ。
* 第三者的に事の顛末を語る、落ち着き払ったゲーテ。
 
(三人目のゲーテは、”老成した” と表現してもいいのですが、
何せゲーテが『ウェルテル』を発表したのが20代半ばなもので……)
 
ここからウェルテルの、
ウィルヘルムに宛てた手紙、
アルベルト(ロッテの許婚者)に宛てた手紙、
シャルロッテ(ロッテ)に宛てた手紙、
そして編者による文章
が交差しながら話は終息に向かいます。
 
*「――ウィルヘルム君。みんな達者でね。
  持ち物は全部始末してある。ごきげんよう。
  あの世でまた会おう、もっと楽しく」
*「さようなら、ぼくはけりをつけようと思う。
  ぼくの死によって君たちお二人が仕合せになってくれれば、
  アルベルト、アルベルト。
  天使を幸福にしてあげてくれ。
  それでは、どうかいつも神の祝福が君の上にあるように!」
*「弾丸はこめてあります。十二時が打っています。
  ではやります。
  ――ロッテ、ロッテ、さようなら」
 
隣家のひとが火薬の閃光を見、銃声を耳にした。
 
 
過去の事とは言え、まだまだ引きずり気味の恋の話を書くのに、
人格を三つに分けて、二重三重のフィルターをかけたのでは、
と思ってしまいます。
 
最終的にウェルテルは死を選びますが、誤解を恐れずに言うと、
”明るく、元気な失恋話” に終始していたような印象を受けました。
 
それだけに、却ってウェルテルの心情が身につまされて、切なくて、
あとあとまで脳裏に焼き付いてしまいます。
 
ええと、これも文部省推薦(?)だったっけ?
中高生の読書感想文推薦図書の三冊を読み終えましたが、
どうなんでしょう?
『ウェルテル』なんて、多数の若者の自殺を誘発したことで
有名な話じゃないですか。
大丈夫なの?
 
 
【 言わずもがなの一言 】
 
♫ ~ギョ、ギョ、ギョエテか、シルレルか~ ♫
 
判る方だけ判ってください。
 
 
 
 
 

348.「春琴抄」

谷崎潤一郎
長編   西村孝次:解説  新潮文庫
 

盲目の三味線師匠 春琴に仕える佐助の愛と献身を描いて

谷崎文学の頂点をなす作品。

 

幼い頃から春琴に付添い、彼女にとってなくてはならぬ人間に

なっていた佐助は、後年春琴がその美貌を弟子の利太郎に

傷つけられるや、彼女の面影を脳裡に永遠に保有するため

自ら盲目の世界に入る。

 

単なる被虐趣味をつきぬけて、思考と官能が融合した美の陶酔の世界をくりひろげる。

                                 <ウラスジ>


あああ。

駄目なんです。

 

「傷ついたのは誰の心」、「アンダルシアの犬」、

「ハロウィンⅡ.ブギーマン」、あと、「サンゲリア」だか「ゾンゲリア」

だか。

 

とにかく<眼球>そのものを傷つける描写があるものは、

小説であれ映画であれ、生理的に無理なんです。

 

とくにこの『春琴抄』は……。

 

谷崎お得意の技巧を凝らした『句読点を極端に省いた文章』が、

ページ全体を埋め尽くしている様は、ひと目で解かります。

 

熱湯を顔にかけられて、相貌が変わり果てた春琴。

その容貌にせいで、顔を見られる事を恐れるようになった春琴。

 

それを感じ取った佐助は、自分も<盲目の世界>へ入ることを

決心します。

ウラスジにあるように、彼女の面影を脳裡に刻む、ということもあったでしょう。

しかしそれより、これまでの距離感を損ないたくない、

との思いのほうが強かったのではないでしょうか。

 

「お師匠さま、なにも恐れることはありません。

 私も目が見えませんので――。

 これまで通りご奉公させて下さい」

……みたいな。

 

そこまでは良いんです。

 

問題(?)は、『目』の<つぶしかた>です。

 

ひと思いに、と言うのではなく、

鏡と縫い針を使って、

微に入り細を穿つように、

白眼黒眼と――。

ずぶ。

 

わあああ。

我慢できん。

 

そんなわけで、映画『春琴抄』もちゃんとは観ていません。

<百恵・友和>ものは殆ど見ているんですが、これだけは……。

 

 

 

 

 

映画を御覧になりたい方はこちらをどうぞ。

(実はそのシーンを飛ばして観たんです)