涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  42. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

30冊目の記念撮影。

 

これで120冊、と。

 

<安部公房、芥川龍之介登場>

 
 

121.「壁」

安部公房
短編集   佐々木基一  新潮文庫

 

(序)  石川淳

収録作品

 

1.S・カルマ氏の犯罪  (芥川賞)

2.赤い繭         (戦後文学賞)

3.洪水

4.魔法のチョーク

5.事業

6.バベルの塔の狸

 

高校の時の地学の先生は、授業そっちのけで、自分が好きな小説の話に講じていましたが、その先生の最初の話に出て来たのが、「赤い繭」でした。

 

――帰るところがなくなった男が、やがて自分で ”繭” を作り、その中で眠るようになる――。

 

大方がそんな内容の話だと言っておられました。

 

――で、実際そんな話でした。

 

しかし、この作品集は、なんと表現すればいいのか……。

 

「S・カルマ氏の犯罪」

 

【 目を覚ましました。

朝、目を覚ますということは、いつもあることで、別に変ったことではありません。しかし、何が変なのでしょう?何かしら変なのです。 】

 

なにやらカフカっぽい匂いがプンプンしてくると思ったら、

 

【 ぼくは自分の名前がどうしても想出せないでいるのでした。 】

 

ザムザの亜種と化し、名刺に逃げ出され、病院で胸を調べると空っぽになっていて、胸の中には病院の待合室で見た雑誌に載っていた写真と同じ、果てしない廣野が拡がっている。そして目に入ったものを悉く吸い込んでしまう。

 

今ならブラックホールと形容されるでしょうね。

 

動物園で捕まって、連衡され、裁判が始まります。

 

「審判」じゃないか。

 

で、なんだかんだと、不条理な事や不可思議な事が起こり続け、最後は、

 

【 見渡すかぎりの廣野です。

その中でぼくは静かに果しなく成長してゆく壁なのです。 】

 

「洪水」

人間が液化して、第二の洪水が起こる話です。”美女と液体人間”

 

「魔法のチョーク」

そのチョークで描いた食い物が、実現化するお話です。ドラえもんが持っていそう。

 

「事業」

屍・再活用のお話です。「人間がいっぱい」 ”ソイレント・グリーン”

 

「バベルの塔の狸」

 

P公園にての詩人の幻想。

 

自分の影を盗まれて、透明人間と化して行く詩人は、やがて自分の影を喰った「とらぬ狸」とともに「バベルの塔」へ行くことになります。

 

そこは<シュール・リアリズム>の殿堂のようなところで、ダンテやブルトン始め、様々な(人間に化けたと思われる)狸がいて、講義や演説を行っています。

 

で、なんだかんだと、不条理な事や不可思議な事が起こり続け、最後のちょっと前、

 

【 気がつくと、いつの間にか、ぼくはまたP公園のベンチに掛け、手帳を膝の上に開いて見入っているのでした。

顔を上げると、アカシアのしげみの下に、とらぬ狸が坐ってじっとこちらを見ていました。 】

 

とらぬ狸は消えません。

 

 

 

 

【 ぼくはきみの意志であり、行動であり、欲望であり、存在理由なんだ。】 

 

ですから。

 

と、まあ一筋縄ではいかない作品ばかりで、良かれ悪しかれ、題名と最初の一ページを見ただけで、「ああ、あの話か」とすぐさま記憶が蘇ってくるようなものばかりでした。

 

奥さまでもあった(?)安部真知さんの挿絵が効果的に使われ、マニフェスト(すでにこの時代に!)を書いたビラや案内版がふんだんに挿入され、タイポグラフィめいた文字の遊びさえみられます。

 

ケッ  ケッ  ケッ  ケッ  ケッ

                                      「バベルの塔の狸」より

 

 

ええと、

 

ここで思い出すのが、前の回に書いた「ブンとフン」の事です。

 

まあ、井上ひさしと安部公房を比べるなんて私ぐらいなものかも知れませんが、あいだを置かずに読んだこともあり、”見た目” の珍奇さと実験的な書き方に共通点を見出してしまったので。それにお二人とも劇作家でもありましたし。

 

それで、この「壁」と言う作品は、記憶の取り出し方が楽であったように、読んでいる最中も至極楽しかったのです。クスリ、ともしました。

 

どこが「ブンとフン」との違いなのでしょう。

 

それは、「ブンとフン」が喜劇として書かれているのに対して、「壁」はそうではないからだと思います。

 

前述のように笑ったのは、「壁」のほうでした。

 

こう書いているうちに、カフカのある逸話を思い出しました――ある朗読会で「審判」が読まれ始めると、あちこちから笑いが起こり、やがて爆笑になっていったというものです。

 

カフカは少なくとも喜劇のつもり「審判」を書いた訳ではないでしょう。たとえその要素があったとしても。

 

ざっくりいってしまうと、不条理劇と喜劇は表裏一体、と言う事なんでしょう。

 

不条理を昇華させて笑いを作る――。

最初から、笑いを主眼においた不条理劇は難しそう。

 

マルクス兄弟の喜劇がそれに近かったと思います。

 

ああ、それから。

 

新潮文庫の安部公房作品の挿絵とカバーは、奥さまの安部真知さんが殆ど手掛けておられるという事を、このブログを書くまでは全く知りませんでした。

 

何か、澁澤龍彦さんのエッセイ集に似合いそうな――。

 

文庫化された安部公房作品は殆ど読んでいるので、これからはちゃんとチェックしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

122.「アメリカン・スクール」

小島信夫
短編集   江藤淳:解説  新潮文庫

収録作品

 

1.汽車の中

2.燕京大学部隊

3.小銃

4.星

5.微笑

6.アメリカン・スクール  (芥川賞)

7.馬

8.鬼

 

初登場の、”第三の新人” が小島信夫さんだったとは……。

 

まあいいか。

 

占領中、日本人の英語教師たちが、アメリカン・スクール見学団として、その学校に赴く道中と着いた先での様子を切り取った、佳品です。

 

英語嫌いの伊佐、英語かぶれの山田、常識人のミチ子の三人を中心に話は進んでいきます。

 

如何にもやる気のなさそうな伊佐は地の文での主役といえますが、会話での主役は山田と言う事になりましょう。

やる気まんまん、山田は英語力を生かし、アメリカ人に取り入っていずれは留学したいという野望を抱いていますが、片方で戦時中は将校としてアメリカ人を斬ったなどと豪語する戦中と戦後の整理が頭の中で出来ていないような人間です。

ミチ子はどちらかと言えば伊佐に魅かれています。

 

山田は伊佐を敵視し、彼を自分と共にアメリカン・スクールでモデル・ティーチングをさせるべく、宣言します。

つまり、アメリカ人の前で、英語の授業をさせようというのです。

「恥」をかかせてやろうという腹づもりだったのでしょう。

 

しかし、スクールの校長に、日本人教師が教壇に立ったりすることを厳禁され、熱心すぎる事もよろしくない、と告げられると、憑き物が落ちたように山田はその場を去っていきました。他の教師たちもそれに倣います。

 

ひとり取り残されたのは伊佐でした――。

 

「小銃」はこの一節でおおよその内容が掴めるでしょう。

 

戦地で与えられた小銃を、主人公が手にしてからの事です。

 

小銃は私の女になった。それも年上の女。しみこんだ創、ふくらんだ銃床、まさに年上の女。知らぬ男の手垢がついて光る小銃。

 

小銃も主人公に応えます。

 

慎ちゃん、あなたはきっと可愛がられるのね。あんたは可愛がられる人。それで大安心なの。私だけでないのね。それで大安心なのよ――。

 

まさしく小銃は、”年上の女” となります。

 

 

小銃がシンボライズされ、擬人化される。

アニメの「うぽって!!」ですね。

 

しかし、「ガールズ&パンツァー」とか「艦隊これくしょん」とか、武器や兵器を女性(少女)にコンペアした漫画やアニメが多くなりましたね。

 

ただ、日本刀などはこの「小銃」のように、妖艶な、”年上の女” に擬えられそうですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

123.「河童・或阿呆の一生」

芥川龍之介
短編集   吉田精一:解説  新潮文庫

収録作品

 

1.大導寺信輔の半生

2.玄鶴山房

3.蜃気楼

4.河童

5.或阿呆の一生

6.歯車

 

芥川がおかしくなった晩年の短編集です。

 

「河童」以外はで、ほぼ私小説風で自伝めいたものもあります。

 

「大導寺信輔の半生」は「一生」にまでするつもりだったようですが、未完のまま終わっています。

 

玄鶴山房」には他人の不幸を快楽とするナースが出て来ます。

 

「蜃気楼」は毎日のように海辺へ行って、取るに足らない漂流物から ”死” を随想するお話です――と、言いたいところですが、この作品こそが、芥川のいう『はなしのないはなし』の成功例だそうです。

 

こういう心象風景を綴ったものを、『はなし』としないのかな。

 

「或阿呆の一生」も半自伝風と言われていますが、わずか三十ページの作品なのに五十一もの章に別れています。

 

何気にアフォリズム集のようです。

 

「歯車」はレエン・コートを着たバンシーのような幽霊を見かける事で、誰かが亡くなるという予言になってしまうお話です。

 

「河童」は『河童の国』へ行った男の回想録です。

 

解説の吉田精一さんは、「ガリヴァ―旅行記」「カンディ―ド」「ラインケ狐」「エレホン」などと同様の風刺小説であると仰っています。

 

私もそう読みました。

 

しかし、『河童語』を<quax>だの,<quo>だの,<quel>だの,<quan>だのに細分化しているとろが腺病質的と言うか、芥川らしいと言うか。

 

「Qua.」でふと思い出したのは、ハーンの『怪談』の原書の表記が『KWAIDAN』だったなあと言う事でした。

 

どういう連想だ?

 

 

 

 

 

 

124.「青春の彷徨」

堀勝治

遺稿集   鶴羽伸子:解説  角川文庫

 

昭和四十四年に二十一歳の若さで自らの命を絶った堀勝治さんの遺稿集です。

 

この時代、高野悦子さんの「二十歳の原点」や、時代は違いますが、原口統三の「二十歳のエチュード」など、二十歳前後で自殺した人の文集が続けさまに出版された記憶があります。

 

70年安保の前後で、学生運動たけなわの頃立ちは思いますが、高野さんにしろ、堀さんにしろ、その影響下に置ける決断ではなかったようです。

 

とりわけ「青春の彷徨」が、帯にもあるように<神に心を奪われた女性を愛してしまった青年にとって、神に勝つには死しかなかった……>と愛の苦悩から来る自殺への軌跡を記してあるところに、当時高校生だった私は魅かれてしまいました。

 

―ーぼくは創造主としての神を絶対的に拒絶します。ぼくが信ずるとしたら、それは自己の主体性の反映としての神であって、それは、生命の創造に直接手を下したりする神でなく、生命がまさに内的エネルギーの発露からその活動を開始するのをもじっと見おろしているような、そう、ちょうどぼくが「潜むもの」で書いた最後の「天球」のような存在であるのです。

 

 

―ー君はいつか、神など信じないと言ってたな。俺も唯物論を信じていたし、俺の内部に神の存在は見出していなかった。ところが俺が今、恋している女性はクリスチャンで、しかも神か俺かという二者択一の末、神を選んだのだ。二者択一の設定じたい俺は理解できんのだが、神に恋しい人を奪われた俺は、その時、俺の内部にも神がいるんじゃないかと言った実感、そしてその神に挑戦し、、勝利し得る唯一の解決の道としての自殺を考えるに至っている。

 

 

―ー私にとって自殺は決して逃避ではない。私にとって自殺は自己放棄ではなく、大いなる事故保存である。

すべての自己の整理を手中に!死を手中に!誰に渡してなるものか!

 

 

 

 

こう書き残した翌日、北海道の豊浦海岸にてハイミナールを飲み、堀勝治さんは命を絶ちました