荒巻さんからの頼まれごと。活動家の皆さんへ。
私は生きのびようともしなかったし、やがて死ぬだろうとも考えなかった。ただ自分に誠実であるか、それだけが問題だった。あとは天の命じるままになりゆきに身をゆだねたまでである。
吾(わ)れ此(こ)の回初め素(もと)より生を謀(はか)らず、又死を必せず。
唯だ誠の通塞(つうそく)を以(もっ)て天命の自然に委したるなり。
『留魂録』
晩年、倒幕論者として幕府にマークされた松陰は、1859(安政6)年6月、野山獄から江戸に送られ、伝馬町の牢獄につながれた。
7月、幕府の評定所の取り調べの雰囲気では、重くても流罪というものだったが、急転直下、大老・井伊直弼の独断で死刑が下された。
ここにいたってはじめて、松陰は死を覚悟した。
処刑の2日前、松陰は弟子たちへあてた『留魂録』を書きはじめ、翌日の夕方までに一息で書き上げた。
死を前にしたとは思えない一糸乱れぬ筆致で刻まれた『留魂録』
そこには、この言葉にあるように、ただ自分に誠実であることに徹しようとする松陰の生きた方が凝縮されている。
同時期、高杉晋作には手紙でこう諭した。
「人間は、生死を度外視して、要するに、なすべきことをなす心構えが大切である」
1859(安政6)年10月27日、松陰は30歳という若さで亡くなった。
★平凡な一生を送るより、正義のために潔く死ぬべきである★
大丈夫寧ろ玉砕すべく何ぞ能(よ)く瓦全せん。
『吉田寅二郎(スティヴンソン著)』
イギリスの文豪スティヴンソン(代表作に『ジキル博士とハイド氏』など)は、1878~79年、つまり松陰が亡くなってから20年ほどがたったころ、『吉田寅二郎』というタイトルの書をあらわした。
スティヴンソンは日本を訪れたことはなかったが、イギリスに出張していた日本人・正木退蔵から松陰の話を聞いて、松陰の生き様をヨーロッパの人々に紹介したのである。
正木退蔵とは、1858(安政5)年に13歳で松陰に師事していた人物。
スティヴンソンは、松陰のことを、
「思想の点で、聡明にして先見の明があっただけでなく、実行の点においても、確かにもっとも熱烈な英傑の1人」と説明する。
そして明治以降、富国強兵政索で躍進する日本の影に、命と力と余暇のすべてを捧げた松陰があったと認めた。
この書で紹介されている1つのエピソードが、松陰が江戸の独房で得た同志のことである。それは、隣の独房にいた薩摩の改革者・日下部伊三次(くさかべいそじ)である。
彼は、違う計画で投獄されたが、松陰と意図するところは同じで、2人は獄舎の壁を隔てて共感を得たといわれる。
日下部のほうが先に奉行の前に引き出された。
処刑場に引かれていく日下部は、吉田の窓の下を通ったとき、流し目で彼を見て、こんな漢詩を大声で歌った。
「大丈夫寧ろ玉砕すべく何ぞ能(よ)く瓦全せん」
これは、『北斉書(ほくせいじょ)・元景安伝(げんけいあんでん)』からの詩である。
現代的に訳せば、「平凡な一生を送るより、正義のために潔く死ぬ」という意味である。
日下部につづいて、やがて処刑場に引かれ、声明を投げ打った松陰。日下部と、まったく同じ気持ちだったに違いない。
★チャンスが訪れたときに仕事を成し遂げられず、そのチャンスを逃してしまうのは、人として罪だ★
機来り事聞きて成す能はず、坐して之れを失ふものは人の罪なり。
『中谷賓卿を送る序』
中谷正亮(なかたにしょうすけ)賓卿は、長州藩校・明倫館の秀才で、松陰とともに江戸遊学をして以来の友人である。
1855(安政2)年、杉家に幽閉となっていた松陰を訪ねてからは、そこで開かれた私塾・松下村(しょうかそん)塾で学び、塾生の指導にもあたった。
君主に対して忠節をつくし、親には孝行をつくす正亮の生き方を、松陰は高く評価していた。
国の行く末を真剣に考えていた正亮は、九州や関西を遊学した。それから、1858(安政5)年3月、関東に旅立つことになった。
この言葉は、その旅立ちに際して松陰が送った手紙にある。
松陰は言う。
「ある仕事をなしとげるというのは難しいし、いいチャンスというのは逃しやすい」
だから、いいチャンスが訪れたら、ためらわずにその仕事を成し遂げるべきである。チャンスを逃してしまうということは、ほとんど罪に等しい、ということだ。
国家のことを心配している志士はいるが、無意味に破滅してしまい、事が成し遂げられず、チャンスを逃してしまっていることが多い。
このことをふまえた言葉だった。
これは、広く人生の教訓となるだろう。
いいチャンスを逃さないこと。何かをやり遂げるには大事なことである。もちろん、いいチャンスを逃さず、しっかり生かすには、普段からの準備を怠ってはいけない。
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