この活動に携わってから、様々な“死”というものに直面することが多くなりました。生きている以上、必ず死と向き合う時が訪れます。生と死は表裏一体。それがいつどのような形で、どんな死に様であるのか見当がつきませんが。
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」松陰直筆の書。(写真)高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の像(萩往還公園)
【松陰からの学び六】
終わりを意識する
享楽にふけることで、一時的に忘れることはできる。
だがそれは静かに、着実に歩み寄ってくる。もしくは予想を裏切り突然やってくる。
ひとつとして例外はなく、いつか必ず対面する。
あろうことか、本人も知らないうちに。
死。
終わりを意識できるのは人間だけだ。
それでも懸命になって、死のイメージから逃れようとする人は、いつの間にか「人生はいつまでも続くもの」だと思い込まされているのかもしれない。
人生は長いと思う人もいる。人生は短いと思う人もいる。
だが本気で生きるということは、
「わずかな残り時間でなにができるか」を必死で考えることによく似ている。
やり残していることを、憶せずにやればいい。
死を意識すれば、人の“生”は否応なく正解を導き出すはずだから。
松陰は死罪だとわかっていながら、迷うことなく海外へ密航しようと試みた。
死ぬまで出られないとわかっていながら、牢獄の中で「人生とはなにか」を学び、人に教え続けた。
30年という短い一生の中で、松陰が見つけた“死への決着”とはなんだったのか。
★止まることは許されない★
進まなければ、退化します。
途中でやめれば、すべてが無駄になります。
だから、今日死んでも悔いを残さないよう、
死ぬまで前に進み続けるしかありません。
★最後の宿題★
自分はいつまで若さを保てるか、
人よりどれくらい長生きできるのか、
そんなのは、自分の思いのままになることではありません。
そんなのは、自分の思いのままになることではありません。
ただそれでも、
自分という人間をいつまでも磨き続けるというのは、あなたの宿題なんです。
★壊すのか、守るのか★
常識を壊すのはロマンチストの役目で、
その道を保守するのは頑固者の役目です。
人生が全部で何年あるのかはわかりませんが、
残りの年月は確実に減っています。
もし先駆けをためらい、保守もいやだというのなら、
その人生は、一体なにを誇りとして幕を引くつもりでしょうか。
★命の重さ★
士の命は、山よりも重い。
ときには、羽根よりも軽い。
私が言いたいのは、死は問題じゃないということです。
なんのためにその命を使っているのか
ただそれだけが問題なんです。
★動物ではなく人間として★
もしも自分が動物だったとして、
ある日、人間に生まれ変わるのだとしたら、
まずなにをしたいか。どんな風に生きたいか。
簡単な話ではありませんね。
同じ人間同士、一緒に追及していきましょう。
★死を想え★
「自分の命は今日で終わり」
そう思ったとたん、
視界から余計なものがきれいさっぱりと消えて、
自分がこれからどこに向かうべきか、
目の前に太くて真ったいらな道が、1本伸びているんです。
★自分はどこからやってきたのか★
自分のこの身の、原点は一体どこにあるのか。
はるか昔までゆっくりと思いを馳せていくと、
突如、感激の心が沸き起こり、
「よし、やってやろう」という決意が生まれてきます。
★大切な人のために今日できること★
今日という日は2度ときません。
死ねば、再びこの世に生まれることはありません。
だから大切な人を喜ばせるために、
少しの時間も無駄しちゃいけないんです。
★人生は四季を巡る★
もうすぐこの世を去るというのに、
こんなにおだやかな気持ちでいられるのは、
春夏秋冬、四季の移り変わりのことを考えていたからです。
春に種をまいて、夏に苗を植え、
秋に刈り取り、冬がくれば貯蔵する。
春と夏にがんばった分、
秋がくると農民は酒をつくって、
なんなら甘酒なんかもつくって、
収穫を祝い、どの村でも歓喜の声があふれます。
収穫期がやってきて、
きつい仕事がようやく終わった。
そんなときに、悲しむ人なんていないでしょう。
私は30歳で人生を終えようとしています。
いまだ、なにひとつできたことはありません。
このまま死ぬのは惜しいです。
がんばって働いたけれど、
なにも花を咲かせず、実をつけなかった。
ですが、私自身のことを考えれば、
やっぱり実りを迎える時期がきたと思うんです。
農業は1年で一回りしますが、
人の寿命というものは決まっていません。
その人にふさわしい春夏秋冬みたいなものが、
あるような気がするんです。
100歳で死ぬ人は100歳なりの四季が、
30歳で死ぬ人は30歳なりの四季があるということ。
つまり、
30歳を短すぎるというなら、
夏の蝉と比べて、ご神木は寿命が長すぎる
というのと似たようなものじゃないかと思います。
私は30歳で、四季を終えました。
私の実りが熟れた実なのか、
モミガラなのかはわかりません。
ですがもしあなたたちの中に、
私のささやかな志を受け継いでやろうという気概のある方がいたら、
これほどうれしいことはありません。
いつか皆で収穫を祝いましょう。
その光景を夢に見ながら、私はもういくことにします。
★祖先を想え★
今のこの世界を残すために、
自分の命を差し出した人たちがいます。
彼らはなんのために命を捧げようと考えたのでしょうか。
その答えは、私たちの生き方でしめすしかありません。
★辞世の句★
私の身がここで滅んだとしても、
私の日本人としての魂は、ここに置いていくことにします。
志をもっている武士は、全身全霊を尽くして、今ある場所で、
今なすべきことに全力を注がねばならない。
意味もなく、自分から勝手に悲観し、慎み、やめてはいけない。
途中で、挫けてはいけない。志を変えてはいけない。
日本は絶対に滅びないから。
情、心の極みは、道理、人の行うべき正しい道の極みと一致するものである。
世間が人を褒め、貶すことは、大抵その人の実態とはちがうものである。
それなのに、貶されることを恐れ、褒められたいとの
気持ちがあれば、表面的なことばかりに心を使うようになり、
まごころを尽くして生きようとの気持ちは日に日に薄くなっていく。
法律をやぶったことについてのつぐないは、
死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、
もし人間道徳の根本義をやぶれば、
誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。
人に浩然の気がなければ、どんなに才能や知識があっても何の役にも立たない。
浩然の気は、大敵を恐れず小敵をあなどらず、安逸に溺れず、
断固として励むことができる気力である。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂
1人でいれば、読書をして、自分と向き合う。
仲間といれば、議論をぶつけて、志を語り合う。
つねに全体を見渡し、側としての自分はどう動くべきか見定めながら、
たとえ旅の途中であろうとも、牢獄に入れられようとも、
死を目の前にしようとも、松陰先生は自分が信じる生き方を、
最後まで貫き通しました。
「やらなければならないことがあるなら、それは誰かがなさなければならない。もし誰もやらないのであれば、喜んで私がやろう。その結果が英雄と称されようが、死罪となろうがそれは私の知るところではない」
死罪の判決を受けたとき、松陰先生はまったく動じませんでした。
「承知しました」と答えて立つなり、付き添いの役人に
「今日もまたご苦労様でございます」とやさしく言葉をかけ、
刑場に着けば、死刑にのぞんで懐紙を出し、はなをかむと、
心静かに目を閉じたと言います。
首切り役は後に「これほど最後の立派だった人は見たことがない」と感服したそうです。
松陰先生は自らの毅然とした行動と発言でもって、
人が本来持っている力を思い出させてくれます。
自分の生き方だけが、自分を救ってくれる。
そして人は何も付け加えなくても、すばらしい生き方をすることができる、
そう気づかせてくれるのです。
吉田松陰という存在は、没後150年以上たった今もなお
「きみは本気で生きているのか?」と私に問いかけてきます。
「教えることはできないが、一緒に学びましょう」とは松陰先生が弟子たちにかけた言葉です。
松陰先生が命をかけて残そうとした知恵と想いを受け止め、
後世につなぐことができればこれ以上の喜びはありません。