「醒眼正論」「明治維新150年」(完)・・・西郷とは「天の配剤」か「歴史の必然」なのか | 九州のオピニオン誌「フォーNET」編集長の独り言

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おはようございます。今朝はぐっと冷え込みました。今日は高橋雅雄さんの「醒眼正論」をお送りします。

 

平成30年8月号

「明治維新150年」(完)・・・西郷とは「天の配剤」か「歴史の必然」なのか

 西郷の座右銘である「敬天愛人」は「愛民」とともに水戸学の根元にある考え方です。西郷は、薩摩藩主に就任した斉彬の庭方役として、有力大名の重臣や側近との折衝を通じて確固たる人脈や知遇を受けて視野を広げられたのは大きな外交上の財産となった。特に身分差別の厳しい薩摩藩で、一下級武士に過ぎない西郷が藩主と直接対話などは通常は無理だったが、庭方役というのは「御庭番」だから、庭の手入れ作業中に「偶然」に殿様に遭遇する形で密かにメモなどを手渡して斉彬の密命を受けるわけです。中でも藤田東湖を初めとした水戸藩主・水戸斉昭の有力ブレーンとの交わりで多大な影響を受けた。また、越前福井藩主の松平春嶽やブレーンの橋本左内などの有力諸侯及びブレーンとの広く深い交わりが、その後の西郷の対外折衝に役立つことになる。人の意見に耳を傾け、己の意見も遠慮なく述べて信頼関係を築き上げる天性の才があった。元々、西郷は、17歳から郡方書役(助)の仕事を10年も務め、苛斂誅求に苦しむ農民の状況を知悉していて、農政改革の建言書を認めては、藩主に提出していて、斉彬の目にも留まっていた。ある日、斉彬が「西郷吉之助を呼べ!」と、会うなり西郷の偉丈夫さと黒眼勝ちの澄んだ巨大な眼に強烈な印象を受けた。その特異の風貌を見込んで庭方役に抜擢した。斉彬と交わる有力大名及び重臣や側近・学者との誼を通して、西郷の存在感が高まり、西郷の名が各藩に知れ亘る。薩摩藩と親しい公家筆頭の近衛家なども含めて京の世界でも深い交友関係ができた。

 西郷が、弱者や敗者に非常に優しかったのは、権力者・為政者の「悪しき統治」などに果敢に意見具申し、間違いを正そうとする胆力と見識があったからです。今も昔も、権力者に歯向かうのは難しいのは確かです。幕末、英国公使館の通訳兼書記官アーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』の中で「日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能を以て臨む者には相手が誰であれ、容易に服従する。殊にその背後に武力がありそうに思われる場合、それが著しい」と書いているが、今も同じだろう。

 その西郷が変わったのは、「安政の大獄」の最中に、近衛家と親しい勤皇僧の月照が幕府のお尋ね者になり、危険が迫ったので西郷に頼んで薩摩藩で匿うことにしたが、斉彬を失った薩摩藩では、幕府の意向に逆らえず密かに「始末」することになった。絶望した西郷は、抱き合って月照と共に錦江湾に入水した。西郷だけは救助されたが、死を恐れぬ薩摩隼人として、死を賭して守るべき人を死なせて、自分だけが生き残るのは耐え難い恥辱だった。以後、自らを「土中の死骨」と卑下した。月照が斉彬急死の報を受けて西郷が殉死を図ったが、懸命に阻止して、斉彬の遺志を継ぐべきだと諭していた。西郷は、天命なのだろうと悟った。大業を成すために生かされた命を捧げるべきだと思った。従って、奄美大島から沖永良部島まで3年間もの島流しという艱難にも「天」を相手に時節を待った。

「敗者」への優しさは、戦が終われば、敗軍の将はもとより、一般兵士も丁重な扱いをして寛大な措置を施したし、「蛤御門の変」後、京から連れてきた長州藩士捕虜10人を岩国藩に引き渡し、銘々を家族の下に戻してやり、寛大な処置を求めた。当時の「常識」では、捕虜は帰国すれば斬罪になるのが慣例だが、西郷の温情溢れる処置に対して長州藩士の感謝と信頼をもたらしたのは当然です。例えば、「弱者」への優しさは、明治7年頃、鹿児島郊外の帖佐村で百姓一揆が起きた際、西郷が単身鎮撫に赴くと「西郷、来たる!」の報が伝わると農民は、一揆を中止した。西郷は、戸長の黒江某に対し百姓の要求も無理ないと思いながら、「百姓の味方に立てないのは姦吏でごわす!」と厳しく叱責したという。

 殺したいほど西郷を憎み続けた久光も藩内外の彼の人望の高さに手も足も出なかった。

西郷は、会津藩、庄内藩の降伏後、直ちに全ての官職を辞して帰国する。木戸や大村益次郎などは無責任だと非難したが、薩摩藩の内部事情を理解できなかった。久光には、古風な野心家の面があって、維新戦争が終わって薩摩と長州が残った後は、両藩の覇権争奪戦を起こし、「島津幕府」を開く欲が出ないように監視するのを西郷は自らの「使命」としたのだろう。さもなければ、西郷の言動が理解できないし、西郷の謎として残るのは仕方がない。他方、西郷にとって国家とは「道義」が大事で、道義が守られないなら国家は滅びてもいい、とさえ思った。つまり、西郷は“道義国家”を夢想した革命家・詩人だった。