・その南に狗奴国がある。男子が王となっており、その官に狗古智卑狗がある。女王に属していない。帯方郡より女王国に至るまで、一万二千余里。


女王の境界が尽くす所の奴国の南にあるのが狗奴国で、邪馬壹国を中心とした女王国には属していない。王がいるのは伊都国、女王国(邪馬壹国)、狗奴国である。


帯方郡から女王国まで、一万二千余里で約924km。地図で見てみると、熊本県中央部、宮崎県北部、大分県、山口県西部が一番遠くになります。この範囲内に女王国があったことになります。


習俗

・男子は大人も子供も顔や体に入れ墨をしている(昔は大魚や水禽を寄せ付けないためだったが、後に次第に飾りとなった)

・諸国の文身は各々異なっていて、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分による差もあった。

・古来より、倭の使者が中国に詣ると、皆自らを大夫と称した

・倭の水人は好んで海に潜り魚や蛤を捕っている


入れ墨は昔は魔除けの意味があったようだが、魏の時代には単なる飾りになった。国や身分によっても形や入れる場所、大きさが違っていた。夏の時代の会稽地方の風習と同じようだとみている。

大夫は周時代の身分の一つで、周時代の官位を参考に漢時代から使っていたようです。

漁が得意だったような記述で、海の民のイメージです。


・道里を計るとまさに会稽東治の東にある。


会稽は浙江省紹興市付近なので、そこから東を見ると、南部九州に当たる。


衣服

・男子は皆冠などを被らずそのままで、木綿で頭を縛る。その衣は橫幅で、ただ結束して相連ねており、ほぼ縫っていない。

・婦人は自然に伸ばした髪を曲げて結び、衣はひとえの衣のように作り、その中央に穴を開けて、そこに頭を通して衣を着る。


男子は、木綿で頭を縛るとある。バンダナを巻いているような形であろうか。衣は横幅で、体に巻いて腰の辺りをベルトのような物で結んでいるようなイメージか。ほとんど縫っていない、布のままに近い状態だったのだろう。

婦人は自然に伸ばした髪を曲げて結んでおり、後ろでまとめるような形であろうか。服は貫頭衣であった。


産物

・稲、からむし、麻を植え、養蚕や布を織ったりし、目の細かい麻布や絹織物を出す。

・牛、馬、虎、豹、羊、鵲はいない


織物が特産品だったようだ。牛、馬がいなかったのは本当だろうか?数が少ないので見る機会が無かったのかも知れない。


武器

・矛、楯、木弓を用いる。

・木弓は下が短く、上が長い。竹の矢に鉄鏃、骨鏃を付ける。有ったり無かったりする物は儋耳や朱崖と同じである。


鏃は鉄と骨を使っている。海南島の住人と武器が同じであるという認識である。



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・東南に百里行くと奴国に至る。官は兕馬觚といい、副は卑奴母離という。二万余戸ある。

短里で約7.7km、通説の福岡県糸島市としたら、福岡市西区、早良区辺りになります。

素直に末盧国から東南に進んだ場合、伊都国と奴国はどちらも佐賀平野内にあります。

どちらにしても、二万余戸作れる広い平野があります。


治めている官は兕馬觚で、副官は卑奴母離。副官は對馬国、一大国と同じですが、官が違います。戸数が多いからでしょうか。「觚」は伊都国の副官の最後の文字と一緒です。同列なのか、序列が近い官位だったのか。


・東行百里すると不彌国に至る。官は多模といい、副は卑奴母離という。千余家ある。

東に約7.7km進むと、福岡市早良区、城南区、南区辺りになります。ここも戸ではなく家である。

奴国が佐賀平野内にあったとしたら、福岡県大川市、柳川市、筑後市、久留米市辺りになります。

治めている官は多模で、副官は卑奴母離。副官は對馬国、一大国、奴国と同じですが、官が違います。


・南投馬国に至り、水行二十日。官は彌彌といい、副は彌彌那利という。およそ五万余戸。

不彌国から南に行くと、投馬国がある。水行で二十日かかる。不彌国から南であれば、陸行で行けばいいといいと思うのだが、海路の方が速く着いたのだろうか。

不彌国が福岡だとすると、有明海沿いのどこかに投馬国があったのだろうか。佐賀市、福岡県大川市、柳川市あたりでしょうか。博多湾から西回りに、長崎県をぐるっと回って、島原半島の横を通って有明海に入る。そういった航路でしょうか。


治めている官は彌彌で、副官は彌彌那利。今までの国と官名が違っています。戸数も五万余戸で、高句麗(三万戸)よりも多いです。


・南邪馬壹国に至り、女王が都する所で、水行十日陸行一月。官に伊支馬があり、次からは順に彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮がある。およそ七万余戸。女王国より北は、その戸数、道里、ほぼ載せることができる。その他の旁国は遠絶で詳しく情報が得られない。


投馬国から南に邪馬壹国があります。女王が都としていて、水行で十日、陸行だと一月かかります。熊本県のどこかになるのでしょうか。

官に伊支馬があり、次からは順に彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮がある。都とあって、官が多くなっています。

戸数は七万余戸で、夫餘(八万戸)よりは少ないですが、東夷傳の中で二番目に戸数が多いです。

女王国より北、つまり今まで出てきた国は戸数、道里を載せることができたが、その他の国は情報が得られなかったようです。

斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の二十一国のことです。最後の奴国は書き間違えたか、写し間違えたか、それとも最初に出てきた奴国と同じか、違うのかはわかりません。今まで出てきた国はこれで三十国で、「今通訳で交流する所は三十国」なのでしょう。



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・又海を渡って千余里すると末盧国に至る。四千余戸有り、山や海に沿って住んでいる。草木が覆い繁り、進む時に前の人が見えない。魚、鰒を捕るのによく、水に深浅は無く、皆潜って取っている。


一大国から海を渡って、末盧国に着きます。佐賀県唐津市にあったと言われています。菜畑遺跡、桜馬場遺跡、宇木汲田遺跡など様々な遺跡があります。

狗邪韓国、對馬国、一大国、末盧国とそれぞれ千余里離れているとあります。地図上で見ると、距離が様々です。やはり、船で一日進める距離を千余里としていたのでしょうか。

唐津は街中は平地なのですが、後ろはすぐ山が有り、目の前が海なので、山や海に沿って住んでいるという表現になったのでしょう。

草木が覆い繁り、進む時に前の人が見えないとありますが、草木が生い茂る春から夏にかけての描写でしょうか。ただ、人がよく通る道だと草は刈ってるので、平地の表現では無く、山道を進んでいる状況を表していると思われます。伊都国へ行く途中の山道を表現したのかもしれません。

遠浅の海で、潜って魚や鮑を採っていて、これを食料や市場に出していたのでしょう。


末盧国には官の記録がありません。いなかったと思われます。


・末盧国の東南を陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有って、世々王がいる。皆女王国に統属しており、郡使の往来で常に駐まる所である。


伊都国は福岡県糸島市にあったと言われています。ただ、末盧国(唐津)から伊都国(糸島)までは陸行よりも船で移動した方が近く、速いのですが、何か理由があったのでしょうか。

現在唐津から糸島の間に国道202号線やJR筑肥線が通ってます。利用した方は知っていると思いますが、結構海に近く、昔は断崖絶壁が多く道など無かったでしょう。なので内陸を通って、山を越えて伊都国に入ったと思われます。

五百里は短里で約38.5km。素直に唐津から東南に行くと、佐賀平野に出ます。


治めている官は爾支で、副官は泄謨觚、柄渠觚と二つある。對馬国、一大国とは官名が違っています。また、ここには王が代々いるともあります。皆女王国に統属しているので、官は女王国から派遣されているのでしょう。王の格は女王国>伊都国となります。前漢に金印をもらった委奴国王の子孫が伊都国王だったのでしょうか。


ここは帯方郡からの使者が必ず留まるところともあります。かなり重要な拠点だったと思われます。




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三国志は西晋の陳寿が撰したもので、范曄著の後漢書よりも成立年代は早い。なので、後漢書より、先に三国志を見てきました。


・倭人は帯方郡の東南の大海の中に在る。山や島で国や邑を作っている。旧は百余国、漢の時代に朝見する者があった。


これは漢書の記載を踏襲した物である。魏の時代なので楽浪郡が帯方郡になり、山や島で国を為している事が追加された。国の数、漢時代の朝見はそのままである。

後の方では、倭国と使っているのに、なぜ倭国では無く倭人にしているのか。漢書の記載を踏襲しているからなのか、他に意味があるのかは不明である。

これ以降は漢書に記載されていない情報である。


・郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して、南行したかと思うと東行し、倭の北岸の狗邪韓國に到る。ここまで七千余里。


韓伝で韓国は東西が海で、南は倭と接するとあることから、帯方郡から西の海を海岸沿いに船で移動して、朝鮮半島の南部にあった倭国の一つ、狗邪韓国に到着する。倭国が朝鮮半島から対馬、壱岐、九州の領域にあるので、倭の北岸という記述になったのである。

韓国はおよそ四千里四方ということで、三千余里が帯方郡~韓国の北西の境界と南西の韓国と倭の境界から狗邪韓国までの距離の和になる。

狗邪韓国の場所は釜山のあたりと言われている説が多いが、光陽のあたりと言う説もある。ただ、この文だけ見てみると、朝鮮半島の南岸にあったとしか言えず、何処にあるかは不明である。南部から南東部にかけてあったのだろうと言う推測くらいしかできない。弁辰狗邪国と同一という説もあるが、私は支持しない。


・始めて海を渡って千余里すると對馬国に至る。其の大官は卑狗といい、副は卑奴母離という。住む所は絶島で、広さはおよそ四百余里四方である。土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようである。千余戸有り、良田は無い。海産物を食べて自活しており、船に乗って南北に穀物を買い入れている。


帯方郡から狗邪韓国までは海岸沿いを進んでいたので、初めて外海に出るということで、始めて海を渡るという表現になったのであろう。千余里で對馬国に着く。現在の対馬である。

對馬国を治めている官は卑狗で、副官は卑奴母離である。

広さはおよそ四百余里四方ということで、上島なのか下島なのか、それとも対馬全体を表してるのか。もしくは浅茅湾周辺を指しているのか。次の壱岐は三百余里四方なので下島か浅茅湾周辺のどちらかと思われる。
実際に対馬に行ったことはあるが、記述されている通りの島であった。

戸数は千余戸で、海産物を取って食料としていた。良田が無く、穀物の収穫量が少ないので、朝鮮半島南岸から九州北岸へ穀物の買い付けに行っていた。海産物と穀物の交換をしていたのだろうか。
弁辰伝で鉄を貨幣代わりに使っていたとあるので、物々交換では無かったかもしれない。


・又南に名を瀚海という海を渡って、千余里すると一大国に至る。ここの官もまた卑狗といい、副は卑奴母離という。広さはおよそ三百里四方。竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。少し田地は有るが、田を耕やしても島民を養うには足らないので、ここもまた南北に穀物を買い入れている。


瀚海は対馬海峡のことである。對馬国から千余里、海を渡って一大国に着く。今の壱岐である。原の辻遺跡が中心だったと言われている。

一大国を治めている官は卑狗で、副官は卑奴母離であり、對馬国と同じである。

広さはおよそ三百里四方で、三千ばかりの家がある。對馬国では戸だったが、何か違いがあるのだろうか。

對馬国同様、朝鮮半島南岸から九州北岸へ穀物の買い付けに行っていた。やはり海産物を主商品として売っていたのだろう。


海上で距離を測る技術はあったのだろうか?ひょっとしたら1日で進める距離を千里としたのだろうか?

当時の常識は記載されないから真偽は不明である。



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【原文】

正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬其六年詔賜倭難升米黃幢付郡假授其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡說相攻擊狀遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢拜假難升米爲檄告喻之卑彌呼以死大作冢徑百餘步徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喻壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹

評曰史漢著朝鮮兩越東京撰錄西羌魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑爰及東夷使譯時通記述隨事豈常也哉


【書き下し文】

正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書、印綬奉じて倭國に詣り、倭王に拜假し、并に詔を齎し、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜う。倭王、使に因り上表し詔恩に答謝す。其の四年、倭王復た大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を遣使し、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、拊、短弓矢を上獻す。掖邪狗等、率善中郎將の印綬を壹拜す。其の六年、詔し倭の難升米、黃幢を賜い、郡に付して假授す。其の八年、太守王頎、官に到る。倭女王卑彌呼、狗奴國男王卑彌弓呼と素より和せず。倭、載斯、烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻擊す狀を說す。塞曹掾史張政等を遣わし、因りて詔書、黃幢を齎し、難升米に拜假し、檄を爲し之を告喻す。卑彌呼以て死す。大いに冢を作り、徑百餘步、徇葬者奴婢百餘人。更に男王立つ、國中服さず、更に相い誅殺し、當時千餘人殺す。復た卑彌呼宗女壹與を立て、年十三で王と爲し、國中遂に定む。政等は檄を以て壹與を告喻す。壹與、倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因りて臺に詣り、男女生口三十人を獻上し、白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。

評に曰く、史、漢朝鮮、兩越著し、東京は西羌を撰錄す。魏の世、匈奴遂に衰え、更りに烏丸鮮卑有り。爰で東夷に及び、使譯時に通じ、記述事に隨う。豈に常に也哉。


【日本語訳】

正始元年に帯方太守・弓遵は建中校尉・梯儁等を遣わして、詔書、印綬奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮して、並びに詔をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に上表して詔恩に答謝する。

正始四年に倭王はまた大夫・伊聲耆、掖邪狗等八人を遣使して、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、拊、短弓矢を献上した。掖邪狗等に率善中郎将の印綬を等しく与えた。

正始六年に詔して倭の難升米に黄幢を下賜し、帯方郡に付して仮授した。

正始八年に帯方太守・王頎が着任した。倭女王・卑彌呼は狗奴國男王・卑彌弓呼と元から不和であった。倭は載斯、烏越等を遣わして、帯方郡に詣り、互いに攻撃している状況を説明した。塞曹掾史・張政等を遣わして、詔書、黄幢をもたらして、難升米に拝仮して、檄文で告げ諭した。卑彌呼が死に、冢を大きく作り、径は百余歩で、徇葬者は奴婢百余人だった。代わって男王が立ったが、国中は服することなく、互いに誅殺することにふけり、当時は千余人が殺された。また卑彌呼の宗女・壹與を立てて、十三歳で王となり、国中は遂に定まった。張政等は檄文で壹與を告げ諭した。壹與は倭大夫・率善中郎将・掖邪狗等二十人を遣わして、張政等が帰還するのを送った。そして宮殿に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を上貢した。

評に言う、史記、漢書は朝鮮、両越について書き、東観漢記は西羌を選録した。魏の世になり匈奴は衰えて、代わりに烏丸鮮卑がある。ここで東夷に及んで、通訳時に情報を得て、記述はそれに沿っている。どうして常に昔のことを記述するのか。

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正始元年・・・240年


拝仮・・・仮に官職を授けること


正始四年・・・243年


絳青縑・・・赤と青の糸で織った絹布


正始六年・・・245年


正始八年・・・247年



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