・東南に百里行くと奴国に至る。官は兕馬觚といい、副は卑奴母離という。二万余戸ある。

短里で約7.7km、通説の福岡県糸島市としたら、福岡市西区、早良区辺りになります。

素直に末盧国から東南に進んだ場合、伊都国と奴国はどちらも佐賀平野内にあります。

どちらにしても、二万余戸作れる広い平野があります。


治めている官は兕馬觚で、副官は卑奴母離。副官は對馬国、一大国と同じですが、官が違います。戸数が多いからでしょうか。「觚」は伊都国の副官の最後の文字と一緒です。同列なのか、序列が近い官位だったのか。


・東行百里すると不彌国に至る。官は多模といい、副は卑奴母離という。千余家ある。

東に約7.7km進むと、福岡市早良区、城南区、南区辺りになります。ここも戸ではなく家である。

奴国が佐賀平野内にあったとしたら、福岡県大川市、柳川市、筑後市、久留米市辺りになります。

治めている官は多模で、副官は卑奴母離。副官は對馬国、一大国、奴国と同じですが、官が違います。


・南投馬国に至り、水行二十日。官は彌彌といい、副は彌彌那利という。およそ五万余戸。

不彌国から南に行くと、投馬国がある。水行で二十日かかる。不彌国から南であれば、陸行で行けばいいといいと思うのだが、海路の方が速く着いたのだろうか。

不彌国が福岡だとすると、有明海沿いのどこかに投馬国があったのだろうか。佐賀市、福岡県大川市、柳川市あたりでしょうか。博多湾から西回りに、長崎県をぐるっと回って、島原半島の横を通って有明海に入る。そういった航路でしょうか。


治めている官は彌彌で、副官は彌彌那利。今までの国と官名が違っています。戸数も五万余戸で、高句麗(三万戸)よりも多いです。


・南邪馬壹国に至り、女王が都する所で、水行十日陸行一月。官に伊支馬があり、次からは順に彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮がある。およそ七万余戸。女王国より北は、その戸数、道里、ほぼ載せることができる。その他の旁国は遠絶で詳しく情報が得られない。


投馬国から南に邪馬壹国があります。女王が都としていて、水行で十日、陸行だと一月かかります。熊本県のどこかになるのでしょうか。

官に伊支馬があり、次からは順に彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮がある。都とあって、官が多くなっています。

戸数は七万余戸で、夫餘(八万戸)よりは少ないですが、東夷傳の中で二番目に戸数が多いです。

女王国より北、つまり今まで出てきた国は戸数、道里を載せることができたが、その他の国は情報が得られなかったようです。

斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の二十一国のことです。最後の奴国は書き間違えたか、写し間違えたか、それとも最初に出てきた奴国と同じか、違うのかはわかりません。今まで出てきた国はこれで三十国で、「今通訳で交流する所は三十国」なのでしょう。



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