漢末~魏の東夷の出来事をまとめてみました。


建寧二年(169年)

・玄菟太守耿臨が高句驪を討ち、捕虜数百級を斬首し、高句麗王・伯固は降って遼東に属した。(高句驪伝)


熹平中(172~178年)

・高句驪王・伯固は願い出て玄菟郡に属した。(高句驪伝)


中平六年(189年)

・同郷の徐栄は董卓の中郎将となり、公孫度を薦めて遼東太守とした。(公孫度伝)

・公孫度が海東に勢力を広げ、外夷を威服させた。夫餘王の尉仇台は遼東に属した。(夫餘伝)


建安九年(204年)

・公孫度が死に、子の公孫康が位を嗣ぐ。弟の公孫恭は永寧郷侯に封じられた。(公孫度伝)


建安九年~二十五年(204~220年)

・公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした。(韓伝)

・公孫康は公孫模、張敞等を遣わし、漢人を集めて、兵を興して韓と濊を征伐した。(韓伝)

・倭と韓は帯方郡に属した。(韓伝)

・公孫康は軍を出して高句驪を撃ち、国を破って、邑落を焼き討ちした。(高句驪伝)

・高句驪王・伊夷模の兄・拔奇、三万人を率いて公孫康に降る。(高句驪伝)
・高句驪王・伊夷模、丸都で新たに国を作る。(高句驪伝)


黄初中(220~226年)

・臣属していた夫餘の租賦が重かったので、挹婁は叛乱をおこした。夫餘はしばしば挹婁を征伐したが、征服することができなかった。(挹婁伝)


太和二年(228年)

十二月

・遼東太守公孫恭の兄の子、公孫淵が公孫恭の位を奪った。公孫淵を遼東太守とした。(明帝紀)


青龍元年(233年)

十二月

・公孫淵が孫権の遣使した張彌・許晏の首を斬って送ってきたので、公孫淵を大司馬・楽浪公とした。(明帝紀)


青龍四年(236年)

七月

・高句驪王・位宮、呉の使者・胡衛らの首を斬って送り、幽州に詣った。 (明帝紀)


青龍中(233~237年)

・明帝は遼東を討とうと図った。毌丘儉を荊州刺史から幽州刺史として、加えて度遼将軍使持節護烏丸校尉とした。幽州諸軍を率いて襄平に行き、遼隧に駐屯した。(毌丘儉伝)


景初元年(237年)

七月

・幽州刺史・毌丘儉、公孫淵と交戦。長雨で遼水が漲り、詔にて毋丘倹に軍を引き還らせた。 (明帝紀)

・公孫淵は遼隧で毌丘儉らと戦った。毌丘倹らは勝利せず還った。(公孫淵伝)

・公孫淵は毋丘倹が還った事で自立して燕王となり、百官を置き、紹漢元年と称した。 (明帝紀、公孫淵伝)

・公孫淵、鮮卑単于に使者を送り、璽を仮した。また魏の北辺を攻撃するように呼びかけた。(公孫淵伝)


景初二年(238年)

正月

・太尉司馬懿、遼東を討つため軍を率いて出発する 。(明帝紀)


正月~五月

・明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わして、海を越えて楽浪郡、帯方郡を平定した。韓の諸国の臣智には邑君印綬を、その次の位の官人には邑長を与えた。(韓伝)


六月

・司馬懿の軍勢、遼東に到着する。(公孫淵伝)

・遼隧で公孫淵軍の将軍卑衍・楊祚ら歩騎数万が迎撃する。司馬懿は将軍胡遵らを遣ってこれを撃破させた。(公孫淵伝)

・倭女王、大夫・難升米等を遣わして帯方郡に詣る。天子に詣り、朝献を求めた。(倭人伝)

・太守・劉夏は官吏を遣わして、彼らを率いて送り、洛陽に詣らせた。(倭人伝)


六月~八月

・太尉の司馬懿が軍を率いて公孫淵を討った。高句驪王・位宮は主簿の大加遣わして、数千人率いて助けた。(高句驪伝)


八月

・司馬懿が襄平で公孫淵を囲み、大破して公孫淵の首を京都に伝え、海東の諸郡を平定した。(明帝紀)

十二月

・倭女王に詔書を出す。親魏倭王の金印と紫綬を与えることと、使者の難升米を率善中郎将に、都市牛利を率善校尉として、銀印と青綬を与えることを記載。(倭人伝)


正始元年(240年)

・帯方太守・弓遵は建中校尉・梯儁等に詔書、印綬奉じて倭国に遣わす。(倭人伝)

・倭王は使に上表して詔恩に答謝する。(倭人伝)


正始三年(242年)

・高句麗王・位宮、西安平県を攻撃・略奪した。(高句麗伝)


正始四年(243年)

・倭王は大夫・伊聲耆、掖邪狗等八人を遣使して、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、拊、短弓矢を献上した。掖邪狗等に率善中郎将の印綬を等しく与えた。(倭人伝)

・冬十二月、倭国女王・俾彌呼、遣使して奉献する。(三少帝紀)


正始五年(244年)

・幽州刺吏毌丘儉、高句驪を征伐。高句驪王・位宮は連敗して逃亡する。(高句驪伝、毌丘儉伝)


正始六年(245年)

・詔して倭の難升米に黄幢を下賜し、帯方郡に付して仮授した。(倭人伝)

・楽浪太守劉茂、帯方太守弓遵、領東の濊が高句驪に属したので、軍を率いて征伐し、不耐侯らは邑を挙げて降った。(濊伝)

・幽州刺史毌丘儉、高句驪を征伐し、高句麗王・位宮は遂に買溝に逃げた。毌丘儉は玄菟太守王頎を派遣し宮を追討させた。(高句驪伝)

・幽州刺史母丘儉が高句驪を討った時に、玄菟太守の王頎を夫餘に派遣した。夫餘王・簡位居は大加を派遣して郊外で歓迎し、軍糧を提供した。(夫餘伝)

・玄菟太守王頎、東沃沮に逃げ込んだ高句驪王・位宮を追討する。東の端に到達し、そこの長老に海東について尋ねる。(東沃沮伝)


正始七年(246年)

二月

幽州刺史毌丘倹が高句驪を討ち破る。(三少帝紀)


五月

幽州刺史毌丘倹が濊貊を討ち破る。(三少帝紀)


・部従事・呉林は楽浪郡は元々は韓国を統治していたとして、辰韓八国を分割し、楽浪郡に編入した。通訳が、転々として上手く伝わらなかった。臣智は激し、韓は怒って、帯方郡の崎離営を攻撃した。時の帯方太守弓遵、楽浪太守劉茂は兵を興して韓を征伐した。弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅した。(韓伝)

・韓の那奚ら数十国が各々種楽を率いて降った。(三少帝紀)

正始八年(247年)

・帯方太守・王頎が着任した。(倭人伝)

・倭は載斯、烏越等を遣わして、帯方郡に詣り、狗奴国との争いを報告。(倭人伝)

・帯方太守・王頎は塞曹掾史・張政等を遣わし、詔書、黄幢をもたらして、難升米に拝仮し、檄文で告げ諭した。(倭人伝)

・卑彌呼が死去。径百余歩の冢を作り、徇葬者は奴婢百余人。(倭人伝)

・代わって男王が立ったが、国中は服さず、互いに争い千余人が殺された。(倭人伝)

・卑彌呼の宗女・壹與(十三歳)を王に立てて、国中は遂に定まった。(倭人伝)

・張政等は檄文で壹與を告げ諭した。(倭人伝)

・壹與は倭大夫・率善中郎将・掖邪狗等二十人を遣わして、張政等が帰還するのを送った。そして宮殿に詣り、品物を献上した。(倭人伝)

・不耐侯、宮殿に詣でて朝貢し、詔で不耐濊王を拝した。(濊伝)


こうしてみてみると、倭女王・卑彌呼が大夫・難升米等を遣わして帯方郡にきて、天子に詣り、朝献を求めたというのは、六月以前にもうすでに、帯方郡、楽浪郡は魏によって平定されていたことを示します。今まで属していた公孫氏に遣使したのであれば、天子に詣り、朝献を求めることはないからです。

帯方太守・劉夏(劉昕とは別人か?)は戦場になっている陸路では無く、海路を使って使節を洛陽まで送ったと思われます。

三少帝紀では卑彌呼が俾彌呼になっています。意味があるのか、写し間違い、書き間違いなのかわかりません。


高句驪を打ち破っている正始中、魏は東夷の国々を攻撃しています。魏と争っていなかったのは、夫餘と倭国だけでした。


明日からは後漢書を見ていきます。



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倭人伝に載っている、魏時代の出来事の時系列をまとめると以下のようになります。


景初二年(238年)

六月

・倭女王、大夫・難升米等を遣わして帯方郡に詣る。天子に詣り、朝献を求めた。

・太守・劉夏は官吏を遣わして、彼らを率いて送り、洛陽に詣らせた。


十二月

・倭女王に詔書を出す。親魏倭王の金印と紫綬を与えることと、使者の難升米を率善中郎将に、都市牛利を率善校尉として、銀印と青綬を与えることを記載。


正始元年(240年)

・帯方太守・弓遵は建中校尉・梯儁等に詔書、印綬奉じて倭国遣わす。

・倭王は使に上表して詔恩に答謝する。


正始四年(243年)

・倭王は大夫・伊聲耆、掖邪狗等八人を遣使して、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、拊、短弓矢を献上した。掖邪狗等に率善中郎将の印綬を等しく与えた。


正始六年(245年)

・詔して倭の難升米に黄幢を下賜し、帯方郡に付して仮授した。


正始八年(247年)

・帯方太守・王頎が着任した

・倭は載斯、烏越等を遣わして、帯方郡に詣り、狗奴国との争いを報告

・帯方太守・王頎は塞曹掾史・張政等を遣わし、詔書、黄幢をもたらして、難升米に拝仮し、檄文で告げ諭した。

・卑彌呼が死去。径百余歩の冢を作り、徇葬者は奴婢百余人。

・代わって男王が立ったが、国中は服さず、互いに争い千余人が殺された。

・卑彌呼の宗女・壹與(十三歳)を王に立てて、国中は遂に定まった。

・張政等は檄文で壹與を告げ諭した。

・壹與は倭大夫・率善中郎将・掖邪狗等二十人を遣わして、張政等が帰還するのを送った。そして宮殿に詣り、品物を献上した。


景初二年の親魏倭王の金印と紫綬は、正始元年に建中校尉・梯儁等が持ってきた。

正始六年の難升米への詔書と黄幢も、正始八年に塞曹掾史・張政等が持ってきた。

これは、いずれも帯方郡に付与してとあるので、洛陽から帯方郡への移動時間と、帯方太守の交代、着任があったのだろう。


魏から送られた官職は以下の通り


女王・卑彌呼・・・親魏倭王

難升米・・・率善中郎将

都市牛利・・・率善校尉

伊聲耆・・・率善中郎将

掖邪狗・・・率善中郎将

名前不詳の六名・・・率善中郎将


難升米は黄幢を送られているので、高位の将軍だったのではと思われる。


正始八年(247年)に卑彌呼が狗奴国との争いの最中に死去する。男王が後を継ぐが、国中が服さずに内乱が起こってしまう。この男王は誰だろうか。候補者としては、卑彌呼の弟と難升米の二人が思い浮かぶ。

結局、卑彌呼が王になった時と同様に、女性の壹與が王となり、内乱が終わった。この時、狗奴国との争いは無くなっていたのだろうか。もし狗奴国と争っていたら、内乱中の倭国は滅ぼされる可能性が非常に高い。魏の使節、張政等が抑止力になっていたのだろうか。それとも、内乱になる前に狗奴国を打ち破ったか、滅ぼしたかもしれない。

倭国と狗奴国との争いには一段落ついたのだろう。そのお礼の使者、進物と張政等を洛陽まで送り届けた。前回の使者の一人、掖邪狗と総勢二十人ということで、いままでで一番多い人数になっている。

やはり、対狗奴国との争いには勝利をしたのかもしれない。



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歴史、卑彌呼について

・倭国は以前は男性が王であったが、その七、八十年の間、内乱が起こっていた。

・その後卑彌呼という女性を、王に共立した。

・鬼道に仕え、よく民を惑わす

・年はすでに大人であるが、夫はおらず、弟がいて国の政治を補佐し治めている

・王になってから、姿を見る者はいるが少なかった。

・婢が千人いて、自らの側で奉仕させた。

・男子が一人いて、飲食を給仕し、言葉を伝えるため出入している。

・宮殿、楼観に居住し、城柵を厳重設けており、常に人がいて兵が守衛している。


卑彌呼の前は男王の時代が70~80年あった。何人かの王が続いたと思われるが、国内は内乱が起きて不安定であった。厭戦やこれではいけないと思ったのだろうか、女性である卑彌呼を王に共立した。おそらく倭国王家の一族だったと思われる

鬼道というのは、各地域での土着宗教を指すので、具体的な名前については不明である。巫女、シャーマンのイメージで語られていることが多い。

古田武彦氏は、呉志・諸葛瑾伝の曹丕の即位にふれている所で「年已に長大」と使われている他色々調べて、「年已に長大」は20代後半から30代半ばとされています。

東夷傳では、「長大」は成長して、大人になってという意味で使われています。何歳から大人なのかは当時は常識だったので、記載は無いですが10代半ばから20代前半までで成人と見做すなら、その範囲も含まれると考えます。

子供の頃、卑彌呼は老婆のイメージで漫画や書物で書かれていましたが、実は10代半ば~30代半ばであって、妙齢の女性であったことがわかります。だから、その年齢で結婚してなかったので、記録されたのでしょう。弟が政治を補佐しているとあります。丞相のようだと書かれていないので、そこまでの権限は無かったのでしょうか。王になってからは姿を見ることが少なくなったようです。神秘性を高めるためでしょうか。侍女が千人いたとのことで、宮殿はかなり大きかったと想像できます。

一人の男性が飲食を給仕し、言葉を伝えるため出入している、とあります。男弟と書いていないので、弟とは別の男性の可能性が高いかも知れません。

昔の戦乱の影響が残っていたのでしょう、城柵を厳重設けており、常に人がいて兵が守衛していました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような感じでしょうか。


女王国より先の国々

・女王国の東、海を渡って千余里の所にまた国がある、皆倭種である。

・侏儒国がある、その南にあって、人の身長は三、四尺である。女王国を去ること四千余里の所にある。

・裸国、黒歯国がある。その東南にあり、船で行って一年ほどで着く。

・倭地を実地訪問すると、海中の島の上に遠く離れて存在し、途切れたり、連なっていたりして、巡り廻ると五千余里である。


女王国は九州にあったので、東の海を渡ると四国に着きます。そこにも国があり、皆倭種であったとあります。

女王国から四千余里の所に侏儒国があります。おそらく高知県、徳島県辺りでしょうか。身長が1m弱の人がいたとあります。インドネシアのフローレス島で、ホモ・フローレシエンシスという、1mくらいの身長の骨が見つかりました。まだ評価は定まっていませんが、ヒト属の新種の可能性があります。生息していたのが1万年以上前ですが、この種族が海を渡って、日本列島に来ていた可能性があります。この子孫が
侏儒国の人達なのかもしれません。

侏儒国から東南に船で1年ほどで、裸国、黒歯国に着きます。南米大陸でしょうか。それとも南太平洋の島国か。どちらにせよ、不明です。

倭地は巡り廻ると、五千余里であるとあります。これは帯方郡より女王国の距離一万二千余里から帯方郡から狗邪韓国の距離七千余里を引いたものです。倭地は狗邪韓国から女王国まで五千余里ということになります。




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産物、自然

・真珠、青玉を出す

・山には丹が有る。

・木には楠、どんぐりの木、タブノキ、楺、クヌギ、カシ、ヤマグワ、楓があり、竹には、しの竹、桃支がある。

・生姜、橘、山椒、茗荷があるが、それを料理に使って滋味になるのを知らない。

・猿や黒雉がいる。


真珠、青玉(翡翠)は他の東夷の国々には無かった。木の種類は今も見慣れている物である。

今の料理には欠かせない薬味だが、当時は使っていなかった。美味しくなるのにそれを知らないとはもったいないと魏の使節は思ったのだろうか。

猿やキジがいるのは今も同じである。


習俗

・何かする時や、何処かに行き来する時には、すぐに骨を焼き卜して、吉凶を占う。

・先に卜することを告げる。その言葉は令亀の法のようである。焼いて生じる裂け目を見て、兆を占う。


吉兆を占うのに、骨を焼いて裂け目で見ていた。鳥の骨か鹿などの動物の骨を使っていたのだろう。

殷や周の時代の亀の甲羅を使った占いに似ていたようだ。


・集会の座ったり立ったりすることに、父子男女の区別は無い。人の性は酒を嗜む。

・その習俗は正月、四季を知らない。ただし春の耕作、秋の収穫を記録し、年紀としている。(魏略)


集会での座ったりする場所は、特に決まりが無く自由であった。酒が好きだったようだ。東夷傳に書かれている国々はほとんど歌舞、飲酒が好きだったようだ。祭り好きのイメージがわいてくる。

正月は特に何もしなかったようだ。四季を知らないとは、それに該当する言葉が無かったのだろうか?

普通に一年間過ごしていても四季の移り変わりは体感できるので、冬が無かったのだろうか?

春の耕作、秋の収穫を記録することで、年を数えている。この魏略の記述で、春夏で1年、秋冬で1年と数えるという二倍年歴説を結構目にする。ただ、おおざっぱに一年としているとも読めるので、この記述を以て、こうだ!とは言えない。


・大人を敬う所を見た。ただ手を打って、跪拜の代わりにしている。

・長寿であり、百歳や八、九十歳がいる。

・大人は皆四、五人の妻、下戸は二、三人の妻がいる。婦人は淫らではなく、嫉妬しない。

・下戸が大人と道路で出逢うと、後ろに下がって道路脇の草むらに入る。言葉を伝えたり、事柄を説明する時は、しゃがんだり、ひざまずいたりして、両手を地につける、これは恭敬を表している。対応の声は「噫」と言う。例えば承諾することである。


大人への挨拶は、手を打っていた。夫餘や高句麗のように跪拜ではなかった。神社にお参りする時のような感じだろうか。大人に対しての作法もいくつか紹介されている。

一夫多妻制で、大人、庶民関係なく最低二人以上の妻がいた。婦人は淫らではなく、嫉妬しないとあるので、複数妻がいても問題なかったのであろうか。

倭人は長寿で、80、90、100歳の人が中国に比べて多かったのだろう。

法、刑罰

・窃盗はせず、争訟は少ない。

・法を犯すと、軽い者は妻子没収され、重い者はその門戸及び親族を滅する。尊卑に各々順序に従った違いが有り、臣服することで足りている。


犯罪が少なかったようだ。ただ、法を犯すと厳罰が待っている。軽い者で妻子没収とはかなり厳罰である。他国であれば、殺人を犯した者への罪である。おそらく奴碑になったのであろう。重い者は、親族が全員死罪という、東夷の国々の中でも一番重い刑罰である。身分によって多少違いはあるようだ。


政治体制

・租賦を収める邸閤が有る。国々に市が有って、有る物と無い物を交易する。大倭はこれを監督する者を使わしている。

・女王国より北には、特に一人の大率を置き、諸国を検察する。諸国は大率に畏憚している。常に伊都国で治めており、国中で刺史のようなものである。

・王の遣使が洛陽、帯方郡、諸韓国に行く時、帯方郡からの使者が倭国に来た時は、皆港で点検、査察を受けて、文書、賜遺の物を伝送し、女王に届けられる。間違ってはならない。


税で納めた物を保管する邸閤がある。高床式倉庫みたいな物であろうか。各国に市場があって、交易が盛んな様子が見える。

「大倭はこれを監督する者を使わしている。」とあるが大倭とはなんであろうか。租税を監督する役職なのか、それとも国名なのか。国名であれば女王国や倭国と使うはずであるから、やはり官職名か。

伊都国に大率を置き、諸国を検察していて、諸国は畏れている。中国の刺史(地方長官)みたいなものとある。相当権力が強かったのだろう。あと北部の国々は女王国と戦い、負けた国々なのかもしれない。

倭国王の使節や帯方郡の使節は、伊都国の港で必ず点検、査察を受ける。大率やその部下達の仕事であろう。文書や賜った物をここから伝送して女王に送っている。ということは、帯方郡の使節は、女王に会っていなかったと思われる。




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食事

・一年中、生野菜を食べている

・飲食には籩豆を用いて、手で食べる。


年中生野菜を食べていたということで、今よりも温暖だったのだろうか。

飲食に籩豆を用いるのは東夷のほとんどの国に当てはまる習慣である。手で食べていた。

さすがに煮炊きして熱い物には匙や箸を使ったと思われる。これは縄文時代にも当てはまる。

ここには書いてないが、米、魚、貝、肉ももちろん食べていた。


習俗

・皆裸足で歩く

・父母、兄弟は臥して休むところは別である

・朱丹を体に塗り、中国で粉を用いるようである。


温暖だったので、裸足で歩けたのだろう。靴を履く必要性が無かったのかも知れない。

両親と子供達は別の部屋で寝ていた。

朱丹(丹砂から採った赤色顔料)を体に塗っていた。何かいわれがあったのだろうか。


葬儀

・死ぬと棺に収められるが、槨はない。封土して、冢を作る。

・始め死んでから喪を停めて十余日の間には、肉を食べず、喪主は哭泣する。

・他人は歌舞飲酒している

・埋葬後、一家総出で、水中で水あみや髪を洗う、これは行法としての水浴びのようである。


喪主は哭泣するが、他の人達は歌舞飲酒をしている。祭りのようであるが、意味があったのだろう。

埋葬後、一家総出で、水中で水あみや髪を洗うとあるが、これは穢れを落とすといった意味があると思われる。


持衰

海を渡って中国に行く時に常に一人の男がいて、持衰という。頭を櫛でとかさず、しらみを取らず、衣服は垢で汚れ、肉を食べず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにする、願掛けのためにしているのだろう。天気予報も無い時代、暴風雨や事故の予想がつかないので、こういったことをするようになったと思われる。

無事着いたら、彼に生口や財物を与え報いる。疾病になったり、自然災害に遭えば、禁止事項を謹まなかったからだと言って、彼を殺す。一か八かのギャンブルである。




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