葬儀、宗教
・死体を納める棺がある
・遺族は死んだ当初は大声で泣き、埋葬時には歌い舞って送る
・犬を肥え太らせて、色取った縄で飾って牽き、亡くなった人が所有していた乗馬・衣物・生時の服飾と併せて、みな焼いて送る
・犬は死者を護って、神霊が帰えるという赤山に使いをする。赤山は遼東の西北数千里先ににあり、中国人の死後、魂神が帰って泰山に行くようなものである。
・埋葬する日、夜に親族旧知の人々が集まって座り、犬や馬を牽いて位を廻る。歌い哭く者には、肉を擲げて与える。
・死者の魂神を妨害を受けずまっすぐ山に到達させるため、二人を使って呪文を口誦させる。その後に犬馬を殺して衣物を焼く
・鬼神を敬い、天地・日月・星辰・山川を祠る。昔の大人や勇健の名が有った者も同じように牛や羊で祠る。祠りが終わると全てを焼く。飲食する時には、必ずまず祭りする。
犬は死者の魂を、聖なる赤山に迷わず連れて行くための守護者という考え。中国人も死者の魂は泰山にいくという、死後の世界観は似ていた。
葬儀の手順は以下のようになる
人が死ぬ→遺族は大声で泣く→埋葬の日、親族、旧知の人々が集まって座った周りを肥え太った犬を色取った縄で飾って、馬と一緒に引きながら回る。歌ったり、舞ったり、泣いたりしている→二人が呪文を唱える→犬、馬を殺し、故人の衣類、服飾と一緒に焼く
猛々しい性を持った民族なので、鬼神を敬ったのだろうか?自然や昔の大人や勇者を、牛や羊を使って祀っていた。葬儀のときもそうだが、祀りの後も、使用した動物、道具を焼く習慣がある。神に対する生贄の意味合いがあるのだろう。飲食する時には、必ずまず祭りをするという記述から、相当な祭り好きだったのでしょう。
自然や支配者、勇者を祀るというのは日本人に通じるところがあります。
法
・死罪は大人の言に違えた場合と盜みを止めない場合
・殺害された場合、部落の間で報復を許可する。互いに報復がやまない場合は、大人が裁定を下す。
有罪者は牛や羊を出して、命を持って償う
・自らの父兄を殺しても無罪
・逃走や造反して大人に捕らえられた者は、諸邑落とも受け入れることなく、雍狂の地へ追放して窮困させる。
大人は絶対者であり、裁定者でもある。裏切ったら許さないということがわかります。
歴史
紀元前206年~・・・匈奴に負けた後臣服し、毎年牛・馬・羊を献上するようになった。期限が過ぎてそろわないと、妻子が虜にされる。
紀元前85年~紀元前68年・・・烏丸は転じて強くなり、屈辱を晴らすために匈奴単于の塚を盗掘した。壹衍鞮単于は大いに怒り、二万騎を向かわせて烏丸を撃った。大将軍の霍光は度遼将軍の范明友を派兵させた。匈奴はすでに去っていたので、烏丸を撃った。後にまた勢力を強め、塞に攻め入ってくると、范明友はいつもこれを打ち破った。
20~23年・・・匈奴と共に新に攻め込んできた
36年・・・伏波将軍の馬援を派兵し、五原の関から塞を出て烏丸を征伐したが、成果は無かった。烏丸は盛況になり、匈奴に攻め込んだ。匈奴は千里を転々とし、漠南の地は空になった。
49年(建武二十五年)・・・烏丸の大人郝且ら九千余人が部衆を率いて朝廷に詣り、その渠帥で封じられて侯・王となった者は八十余人。塞の内に住んで、遼東属国や遼西・右北平・漁陽・広陽・上谷・代郡・鴈門・太原・朔方諸郡界に配置し、種人を招来させて、その衣食を給し、校尉を置いてこれを領護した。かくて漢の偵察と防備となって、匈奴・鮮卑を撃った。
58~75年(永平中)・・・漁陽烏丸の大人欽志賁が種人を率いて叛き、鮮卑も戻ってきて、共に攻め込んできた。遼東太守の祭肜は欽志賁を殺す者を募って、部衆を破った。
106~125年・・・漁陽、右北平、鴈門の烏丸率衆王である無何らは、鮮卑と匈奴と共に代郡・上谷・涿郡・五原に攻め込んできた。大司農の何熈を行車騎将軍として派遣し撃破した。匈奴は降伏し、鮮卑・烏丸は塞外に逃げて行った。この後、烏丸は次第に接近して付き従ってきたので、その大人である戎末廆は皇帝に拝して都尉になった。
125~145年・・・戎末廆は王侯の咄帰・去延らを率いて、烏丸校尉の耿曄に従い塞を出て、鮮卑を撃って功が有った。皆皇帝に拝して率衆王となり、束帛を賜わった。
前漢から後漢中期までの烏丸の活動が記載されています。
前漢の初め、匈奴に負けて臣従するも、250年後に匈奴に勝利し、追い払った。
後漢時代に勢力を強め、しばしば北辺を侵略したり、和睦して王や侯に封じられたりすることの繰り返し。
北辺に移住して防衛し、匈奴や鮮卑を撃った。
この後のことについては、烏丸伝に書かれています。同じように北辺を侵略したり、和睦したりの繰り返しですが。
次は鮮卑伝を見ていきます。