葬儀、宗教

・死体を納める棺がある

・遺族は死んだ当初は大声で泣き、埋葬時には歌い舞って送る

・犬を肥え太らせて、色取った縄で飾って牽き、亡くなった人が所有していた乗馬・衣物・生時の服飾と併せて、みな焼いて送る

・犬は死者を護って、神霊が帰えるという赤山に使いをする。赤山は遼東の西北数千里先ににあり、中国人の死後、魂神が帰って泰山に行くようなものである。

・埋葬する日、夜に親族旧知の人々が集まって座り、犬や馬を牽いて位を廻る。歌い哭く者には、肉を擲げて与える。

・死者の魂神を妨害を受けずまっすぐ山に到達させるため、二人を使って呪文を口誦させる。その後に犬馬を殺して衣物を焼く

・鬼神を敬い、天地・日月・星辰・山川を祠る。昔の大人や勇健の名が有った者も同じように牛や羊で祠る。祠りが終わると全てを焼く。飲食する時には、必ずまず祭りする。


犬は死者の魂を、聖なる赤山に迷わず連れて行くための守護者という考え。中国人も死者の魂は泰山にいくという、死後の世界観は似ていた。

葬儀の手順は以下のようになる

人が死ぬ→遺族は大声で泣く→埋葬の日、親族、旧知の人々が集まって座った周りを肥え太った犬を色取った縄で飾って、馬と一緒に引きながら回る。歌ったり、舞ったり、泣いたりしている→二人が呪文を唱える→犬、馬を殺し、故人の衣類、服飾と一緒に焼く

猛々しい性を持った民族なので、鬼神を敬ったのだろうか?自然や昔の大人や勇者を、牛や羊を使って祀っていた。葬儀のときもそうだが、祀りの後も、使用した動物、道具を焼く習慣がある。神に対する生贄の意味合いがあるのだろう。飲食する時には、必ずまず祭りをするという記述から、相当な祭り好きだったのでしょう。

自然や支配者、勇者を祀るというのは日本人に通じるところがあります。


・死罪は大人の言に違えた場合と盜みを止めない場合

・殺害された場合、部落の間で報復を許可する。互いに報復がやまない場合は、大人が裁定を下す。

有罪者は牛や羊を出して、命を持って償う

・自らの父兄を殺しても無罪

・逃走や造反して大人に捕らえられた者は、諸邑落とも受け入れることなく、雍狂の地へ追放して窮困させる。


大人は絶対者であり、裁定者でもある。裏切ったら許さないということがわかります。


歴史

紀元前206年~・・・匈奴に負けた後臣服し、毎年牛・馬・羊を献上するようになった。期限が過ぎてそろわないと、妻子が虜にされる。


紀元前85年~紀元前68年・・・烏丸は転じて強くなり、屈辱を晴らすために匈奴単于の塚を盗掘した。壹衍鞮単于は大いに怒り、二万騎を向かわせて烏丸を撃った。大将軍の霍光は度遼将軍の范明友を派兵させた。匈奴はすでに去っていたので、烏丸を撃った。後にまた勢力を強め、塞に攻め入ってくると、范明友はいつもこれを打ち破った。


20~23年・・・匈奴と共に新に攻め込んできた


36年・・・伏波将軍の馬援を派兵し、五原の関から塞を出て烏丸を征伐したが、成果は無かった。烏丸は盛況になり、匈奴に攻め込んだ。匈奴は千里を転々とし、漠南の地は空になった。


49年(建武二十五年)・・・烏丸の大人郝且ら九千余人が部衆を率いて朝廷に詣り、その渠帥で封じられて侯・王となった者は八十余人。塞の内に住んで、遼東属国や遼西・右北平・漁陽・広陽・上谷・代郡・鴈門・太原・朔方諸郡界に配置し、種人を招来させて、その衣食を給し、校尉を置いてこれを領護した。かくて漢の偵察と防備となって、匈奴・鮮卑を撃った。


58~75年(永平中)・・・漁陽烏丸の大人欽志賁が種人を率いて叛き、鮮卑も戻ってきて、共に攻め込んできた。遼東太守の祭肜は欽志賁を殺す者を募って、部衆を破った。


106~125年・・・漁陽、右北平、鴈門の烏丸率衆王である無何らは、鮮卑と匈奴と共に代郡・上谷・涿郡・五原に攻め込んできた。大司農の何熈を行車騎将軍として派遣し撃破した。匈奴は降伏し、鮮卑・烏丸は塞外に逃げて行った。この後、烏丸は次第に接近して付き従ってきたので、その大人である戎末廆は皇帝に拝して都尉になった。


125~145年・・・戎末廆は王侯の咄帰・去延らを率いて、烏丸校尉の耿曄に従い塞を出て、鮮卑を撃って功が有った。皆皇帝に拝して率衆王となり、束帛を賜わった。


前漢から後漢中期までの烏丸の活動が記載されています。

前漢の初め、匈奴に負けて臣従するも、250年後に匈奴に勝利し、追い払った。

後漢時代に勢力を強め、しばしば北辺を侵略したり、和睦して王や侯に封じられたりすることの繰り返し。

北辺に移住して防衛し、匈奴や鮮卑を撃った。

この後のことについては、烏丸伝に書かれています。同じように北辺を侵略したり、和睦したりの繰り返しですが。



次は鮮卑伝を見ていきます。



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烏丸について引き続き見ていきます。


序文の王沈著の「魏書」には、烏丸は東胡であると記載があります。

東胡は春秋戦国時代~秦にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族です。

前漢の初め、匈奴の冒頓単于に滅ぼされ、残った者達が烏丸山で勢力を保ち、地名を取って「烏丸」と号することになったとあります。


習俗

・騎射に優れている

・定住せず、水や草があるところで放牧する

・住居はゲルで、門戸は東を向けている

・鳥や獣を狩猟し、肉を食べて酪を飲み、鳥や獣の柔らかい毛で衣を作っている

・若者が貴ばれ、老人は賤しんでいる

・性格は猛々しく、驕っている

・怒りで父兄を殺すが、母には決して危害を加えない(母の一族の復讐を恐れるため)

・大人は、常に勇健で決闘や訟相、侵犯を裁定する者を選んでいる

・邑落には各々に小帥がいて、世襲制ではなかった

・数百から千の落が一つの部衆としている

・大人の招集があるときは、木を刻んで手紙とし、邑落に伝えて行く

・文字はないが、部衆は間違えることはなかった

・氏姓は無く、大人・健者の名や字を姓とした。

・大人以下は、各々が自ら畜牧して、生産したものを治め、徭役はなかった。


私がイメージしている遊牧民族の習性そのものです。母の一族が全くいない場合は、殺したことはあるのだろうかと疑問に思うことはありますが。

大人(部落長)、小帥(邑落長)は世襲ではなく、ある一定の要件を満たせば誰でもなれるといったところでしょうか。


結婚

・まず私通をして、男性が女性を略奪する

・半年~100日過ぎた後、仲人を送って、馬・牛・羊を送って嫁取りの礼とした

・婿は妻に従って妻の実家に帰る。妻の家で貴賤関係なく、朝に起きては全員を拝する

・妻の家で働いて2年経つと、妻の家は厚遇して娘を送り、住まい・財物は、全て妻の家が出す

・習俗は、女性のやり方に従うが、戦闘のことは、男性が決める


略奪とありますが、これは形式的なことでしょう。2年間、夫は妻の家で働き、妻の家族に毎朝拝礼しなけらばならない。これはキツい気がしますがいかがでしょう?

これを乗り越えると、住まいや財物は全て妻の家が出してくれます。ということは、娘が多い家は支度金が大変だったのではと思ってしまいます。もしくはこの費用を捻出するために、婿を2年間働かせるのでは?

かかあ天下ですが、戦闘のことは男性が決めたようです。


習俗2

・父子男女は、相対して蹲踞する(膝を折り立てて腰を落とした 立膝をついた座法)

・髪の毛は剃っていた(丸坊主?)

・女性は嫁ぐ時に、髮を伸ばして、分けて髻を作り、髪飾りをつけ、金や碧で飾った

・父、兄が死ぬと、その未亡人は跡継ぎが妻とする

・兄の未亡人と娶る者がいない場合(弟がいない場合)、自分の子供に夫の後を継がせ、叔父もしくは伯父の妻となる。死ぬと亡くなった夫の所に葬られる


髪の毛は便利であるという理由で、剃っていた。女性は嫁ぐときに髪を伸ばした、とあるので男女ともに髪を剃っていたのだろうか?

未亡人になると、跡継ぎとなる夫の兄弟の妻になる。もし跡継ぎとなる兄弟がいなかったら、夫の伯父もしくは叔父に嫁いだ。いわゆるレビラト婚です。日本でもこの風習はあって、明治になって、禁止令が出ました。


習俗3

・鳥獣の繁殖の時期を使って、四節としていた

・耕種は常にカッコウが鳴くのを時候として行った

・地は黒黍・東牆の栽培に適していた

・白酒を作ることはできるが、麹蘖を作ることは知らない

・米は常に中国から手に入れている

・大人は弓矢・鞍や勒を作ることに長けていて、金・鉄を鍛えて兵器とした

・なめし革に針を刺して文繍を作り、フェルトを織っている

・病になると、艾で灸をしたり、石を焼いて自分を熨したり、地を焼いて上に臥せたり、痛みや病む処に沿って刀で脈を切って血を出したりした

・天地山川の神に祈祷するが、針や薬は無い


鳥獣の繁殖の時期を使って、四季を決めていた。その一例で、地を耕したり、種を植えるのはカッコウが鳴くのを目安にしていたとのこと。放牧だけではなく、農耕もしていたのがわかる。

烏丸は黒黍・東牆の栽培に適していたとあるので、この二つを農耕していたのでしょう。

白酒をつくることはできるが、麹から作ることは知らない。逆から言えば、中国は麹を使って酒を造っていたとなります。米は中国から手に入れてたとのことで、これは酒を造るためでしょう。


病気になると艾でお灸をしたり、石を焼いて患部に当てたり、地を焼いて上に臥せたりと、患部を温めるのが良いと考えられていたようです。

また、痛みや病んでいる部分を刀で切って、血を出すということで、原因となるものは血の中にあり、それを体外に出すことでよくなると信じられていたこともわかります。


残りの部分は次回に。




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後漢の末期に、北辺の各郡には烏丸大人がいた様子がわかります。

遼西烏丸大人、丘力居(部衆五千余り) 王を称した

上谷烏丸大人、難樓(部衆九千余り) 王を称した

遼東属国烏丸大人、蘇僕延(部衆千余り) 峭王と称した。

右北平烏丸大人、烏延(部衆八百余り) 汗魯王と称した。


時系列で見てみると

中平四年(187年)、中山太守張純が反乱を起こして、丘力居らと連携して北部の四郡を荒らし回る。

中平五年(188年)、劉虞を幽州牧として赴任。北部異民族への懐柔策を取る。

中平六年(189年)、張純殺害され、その首級を劉虞の下に届けられた

丘力居死去。子の樓班が幼かったので、蹋頓が後を嗣ぐ。

初平2年(191年)~、袁紹と公孫瓚の戦いが始まる。

蹋頓は袁紹に遣使。袁紹は蹋頓、難峭王、汗魯王を単于とした。(英雄記では遼東屬國率衆王頒下、烏丸遼西率衆王蹋頓、右北平率衆王汗盧維)

建安十一年(206年)、曹操、柳城へ進軍し、蹋頓、袁尚を破る。蹋頓戦死、袁尚、袁煕、速附丸、樓班、烏延は遼東へ逃走。逃走した5名は公孫康に捕らえられ、斬首。

烏丸は降伏し、曹操軍の中に編入し、共に戦うようになる。


魏略より

景初元年(237年)、幽州刺史毌丘儉が遼東を討った時、右北平烏丸単于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留葉が降伏。二人とも袁尚と共に遼西に逃げた者。


こうしてみると劉虞、袁紹と友好関係を築いていた時は特に略奪行為は行っていないようである。

この時期は黄巾の乱が起こって、各地で反乱が起こっていた時期。劉虞が強攻策ではなく、懐柔策をとったのはわかります。ただ、公孫瓚は強攻策を唱え、丘力居の使者を捕らえて殺したりと妨害をしていました。このあたりが、袁紹と公孫瓚が争ったときに、蹋頓が袁紹と手を結ぶようになった一因かも知れません。


袁紹と友好関係にあったからこそ、子の袁尚、袁煕を保護して、曹操と対立したのだろうか。

それとも序文で冒頓単于の再来と長老達に言われていた蹋頓は自らの力を過信したのか、わかりませんが、結果的に曹操に大敗してしまう。

結果、魏にのみ込まれて、魏軍として編成されてしまう。しかし一部は遼東で勢力を保っていたことが、魏略の注釈でわかる。


後漢末期の状況は以上のように書いてある。それ以前の情報は序文の注釈、王沈著の魏書に習俗と共に記載がありますが、それは次回に。




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【原文】

後樓班大峭王率其部衆奉樓班爲單于蹋頓爲王然蹋頓多畫計策廣陽閻柔少沒烏丸鮮卑中爲其種所歸信柔乃因鮮卑衆殺烏丸校尉邢舉代之紹因寵尉以安北邊後袁尚敗奔蹋頓憑其勢復圖冀州會太祖平河北柔帥鮮卑烏丸歸附遂因以柔爲校尉猶持漢使節治廣甯如舊建安十一年太祖自征蹋頓於柳城潛軍詭道未至百餘里虜乃覺尚與蹋頓將衆逆戰於凡城兵馬甚盛太祖登高望虜陣柳軍未進觀其小動乃擊破其衆臨陣斬蹋頓首死者被野速附丸樓班烏延等走遼東遼東悉斬傳送其首其餘遺迸皆降及幽州并州柔所統烏丸萬餘落悉徙其族居中國帥從其侯王大人種衆與征伐由是三郡烏丸爲天下名騎「魏畧曰景初元年秋遣幽州刺史毌丘儉率衆軍討遼東右北平烏丸單于寇婁敦遼西烏丸都督率衆王護留葉昔隨袁尚奔遼西聞儉軍至率衆五千餘人降寇婁敦遣弟阿羅獎等詣闕朝貢封其渠帥三十餘爲王賜輿馬繒采各有差」


【書き下し文】

後、樓班大し、峭王其の部衆を率い樓班を奉じ單于と爲す。蹋頓は王と爲す。然り蹋頓、計策を多く畫る。廣陽の閻柔、少くして烏丸、鮮卑中に沒し、其の種の歸信する所と爲る。柔乃ち鮮卑の衆に因り、烏丸校尉邢舉を殺し、之に代わる。紹因りて寵に尉し以って北邊を安ず。後、袁尚敗れ蹋頓に奔げ、其の勢に憑き冀州の復を圖る。太祖會し河北を平らげ、柔は鮮卑、烏丸を帥いて歸附し、遂に因り以て柔を校尉と爲し、猶漢の使節を持し、廣甯治すること舊の如し。建安十一年、太祖自ら蹋頓を柳城に於いて征し、潛かに軍を詭道し、未だ百餘里至らざるに虜乃ち覺える。尚と蹋頓、衆を將いて凡城に於いて逆戰し、兵馬甚だ盛ん。太祖高きに登り、虜陣を望む。柳軍未だ進まず、其の小動を觀み、乃ち其の衆を擊破す。陣に臨み蹋頓の首を斬る。死者は野を被ぶる。速附丸、樓班、烏延等遼東に走る。遼東で悉く斬り、其の首を傳送す。其の餘遺は迸せて皆降る。幽州并州及び柔の統る所の烏丸萬餘落、悉く其の族徙りて中國に居る。其の侯王大人の種衆を從えて帥い、與に征伐す。是由に三郡烏丸天下の名騎と爲す。

「魏畧に曰く、景初元年秋、幽州刺史毌丘儉を遣し、衆軍率いて遼東を討つ。右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留葉、昔袁尚に隨って遼西に奔る。儉軍至ると聞き、衆五千餘人を率いて降る。寇婁敦、弟の阿羅獎等を遣し闕に詣って朝貢し、其の渠帥三十餘封じられ王と爲り、輿、馬、繒采を賜る。各差有り。」


【日本語訳】

後に樓班が成長すると、峭王は其の部衆を率いて樓班を奉じて単于とし、蹋頓は王とした。蹋頓は計策を多く図るようになった。広陽の閻柔は若い頃から烏丸、鮮卑の中で過ごし、その種人に帰信していった。こうして閻柔は鮮卑達と、烏丸校尉邢舉を殺して、取って代わった。袁紹は寵することで抑えて、北辺の安定を図った。後、袁尚が敗れて蹋頓の所に逃げ込み、彼の勢力で冀州への復権を図った。太祖曹操は河北を平らげた時だったので、閻柔は鮮卑、烏丸を率いて帰順し、これによって閻柔を校尉として、漢の使節を持したまま、広甯を治めることは昔の通りだった。

建安十一年、太祖曹操自ら蹋頓を柳城で征伐した。密かに軍を間道で行軍したが、まだ百餘里までいかないところで、敵に発見された。袁尚と蹋頓は軍を率いて、凡城で迎え撃ち、兵馬の士気は高かった。太祖曹操は高い所に登り、敵の陣を見渡した。南の軍を進ませず、敵がやや動いたのを観てから、其の軍勢を撃破した。陣に臨んで蹋頓の首を斬り、死者は野を被るほどだった。速附丸、樓班、烏延らは遼東に逃げるも、遼東でことごとく捕らえられて斬られ、首を伝送された。その残党も皆降伏した。幽州、并州及び閻柔の統る所の烏丸万余の集落は、ことごとく移らされて中国に居る。その侯王大人に部族を従えて率いさせ、共に征伐した。これにより三郡烏丸天下の名騎となった。

「魏略の記述、景初元年の秋に幽州刺史毌丘儉を遣して、衆軍率いて遼東を討った。右北平烏丸単于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留葉は昔袁尚に隨って遼西に逃げた者たちである。毌丘儉軍が来ると聞き、手勢の五千余人を率いて降った。寇婁敦、弟の阿羅獎らを遣して宮廷に詣らせて朝貢し、その家臣三十余人封じられ王となり、輿、馬、繒采を賜った。各々差が有った。」


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閻柔・・・<後漢時代末期から三国時代における魏の武将・政治家。官渡の戦いの際に、使者を派遣して曹操に臣従し、護烏丸校尉に任じられる。


広甯・・・上谷郡広甯県。現在の河北省張家口市宣化


袁尚・・・袁紹の三男。父の死後、兄袁譚と後継者争いをする。曹操に本拠地鄴を落とされ、袁熙と共に烏丸に逃げ込む。蹋頓と共に曹操を迎え撃つも、再び敗れる。遼東の公孫康を頼って落ち延びたが、公孫康は、到着した袁煕・袁尚を取り押さえて斬首し、2人の首級を曹操のもとに送り届けた。

建安十一年・・・206年

太祖・・・曹操のこと。後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王。

魏略・・・三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。著者は魚豢。

景初元年・・・237年。

毌丘倹・・・三国時代の魏の武将。荊州、幽州・豫州・揚州の刺史を歴任する。公孫淵征伐を図ったが攻めきれず撤退。翌年に司馬懿の指揮下で公孫淵を破る。244年に高句麗に遠征し打ち破る。

闕・・・古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。ここでは宮廷の意味。

繒采・・・織りをつめて細かく織った絹の生地。



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【原文】

漢末遼西烏丸大人丘力居衆五千餘落上谷烏丸大人難樓衆九千餘落各稱王而遼東屬國烏丸大人蘇僕延衆千餘落自稱峭王右北平烏丸大人烏延衆八百餘落自稱汗魯王皆有計策勇健中山太守張純叛入丘力居衆中自號彌天安定王爲三郡烏丸元帥寇畧青徐幽冀四州殺畧吏民靈帝末以劉虞爲幽州牧募胡斬純首北州乃定後丘力居死子樓班年小從子蹋頓有武畧代立總攝三王部衆皆從其教令袁紹與公孫瓚連戰不決蹋頓遣使詣紹求和親助紹擊瓚破之紹矯制賜蹋頓難峭王汗魯王印綬皆以爲單于「英雄記曰紹遣使即拜烏丸三王爲單于皆安車華蓋羽旄黃屋左纛版文曰使持節大將軍督幽青并領冀州牧阮鄉侯紹承制詔遼東屬國率衆王頒下烏丸遼西率衆王蹋頓右北平率衆王汗盧維乃祖慕義遷善款塞內附北捍玁狁東拒濊貊世守北陲爲百姓保障雖時侵犯王畧命將徂征厥罪率不旋時悔愆變改方之外夷最又聰惠者也始有千夫長百夫長以相統領用能悉乃心克有勳力於國家稍受王侯之命自我王室多故公孫瓚作難殘夷厥土之君以侮天慢主是以四海之內並執干戈以衛社稷三王奮氣裔土忿姦憂國控弦與漢兵爲表裏誠甚忠孝朝所嘉焉然而虎兕長虵相隨塞路王官爵命否而無聞夫有勳不賞俾勤者怠今遣行謁者楊林齎單于璽綬車服以對爾勞其各綏靜部落教以謹慎無使作凶作慝世復爾祀位長爲百蠻長厥有咎有不臧者泯於爾祿而喪於乃庸可不勉乎烏丸單于都護部衆左右單于受其節度他如故事」


【書き下し文】

漢末、遼西烏丸大人丘力居の衆五千餘落、上谷烏丸大人難樓の衆九千餘落。各王を稱す。遼東屬國烏丸大人蘇僕延の衆千餘落、自ら峭王と稱し、右北平烏丸大人烏延の衆八百餘落、自ら汗魯王を稱し、皆策を計り勇健で有る。 中山太守張純叛きて丘力居衆の中に入り、自ら彌天安定王を號し、三郡烏丸の元帥と為り、青徐幽冀四州を寇畧し、吏民を殺畧す。靈帝末、劉虞を幽州牧と爲して、胡に募して純の首を斬り、よって北州定まる。後、丘力居死す、子の樓班年小にて、從子蹋頓武畧有り、代りに立つ。總三王部衆攝り、皆其教令に從す。袁紹と公孫瓚、連戰決せず。蹋頓、紹に遣使詣し和親を求む。紹を助け、瓚を擊ち之を破る。紹、制を矯わり、蹋頓、難峭王、汗魯王に印綬を賜い、以て皆を單于と為す。

「英雄記曰く、紹、遣使し烏丸三王に皆安車、華蓋、羽旄、黃屋、左纛を拜し即單于と爲す。版文曰う、使持節大將軍督幽青并領冀州牧阮鄉侯紹、承り遼東屬國率衆王頒下、烏丸遼西率衆王蹋頓、右北平率衆王汗盧維に制詔す。義を慕って善に遷り、塞を款いて内附し、北は玁狁を捍ぎ、東は濊貊を拒み、世北陲を守り、百姓の保障と爲す。時に王畧を侵犯すと雖も、將が厥罪を徂征率い命ず、時を旋さず愆ちを悔い變改した。外夷の方、最も又聰惠者也。始め千夫長、百夫長有り、以て領を相統め、能を用い乃ち心を悉くし、克くて國家に於いて勳力有り、稍王侯の命を受く。我王室多故に自り、公孫瓚難を作り厥土の君を殘夷し、以て天を侮り主に慢り、是に以って四海の內は並んで干戈を執り、以て社稷を衛る。三王裔土に奮氣し、姦に忿り國を憂い、弦を控いて漢兵と表裏爲す。誠に甚だ忠孝であり、朝の嘉する所。然しながら虎兕、長虵相いに隨って路を塞ぎ、王官爵命は聞かなさず。夫れ勳有り賞せず、勤者怠ら俾む。今、謁者楊林遣わし行く。單于の璽綬、車服を齎し、以て爾に勞對える。其の各部落を綏靜し、教えて以て謹慎、凶作、慝作、使う無し。世復た爾の位を祀ぎ、長く百蠻の長爲す。厥咎有り、臧さぬ者有らば、爾の祿に於いて泯ぼし、而かも乃庸に於いて喪う可き。勉めなくてよいものか。烏丸單于は部衆を都護し。左右單于は其節度を受け、他は故の事の如く。」


【日本語訳】

漢の末期、遼西烏丸大人丘力居は五千余りの集落を、上谷烏丸大人難樓は九千余りの集落を統治し、各々王を称した。遼東屬國烏丸大人蘇僕延は千余りの集落を統治し、自ら峭王と称し、右北平烏丸大人烏延は八百余りの集落を統治し、自ら汗魯王を称した。皆策謀に長けて、勇健である。中山太守張純が叛いて丘力居の集落の中に入り、自らを彌天安定王と号して、三郡烏丸の元帥と為って、青州、徐州、幽州、冀州の四州を寇略し、官吏や民を殺戮した。靈帝末、劉虞を幽州牧に任命し、胡に働きかけて張純の首を斬り、北州が平定した。後、丘力居が死に、子の樓班がまだ幼かったので、武略に優れていた従子の蹋頓が、代りに王に立った。総ての三王の集落を取り込み、皆その教令に従った。袁紹と公孫瓚は連戦したが決着がつかなかった。蹋頓は袁紹に遣使をし、和親を求めた。袁紹を助け、公孫瓚を擊ちこれを破った。袁紹は制を偽って、蹋頓、難峭王、汗魯王に印綬を賜い、皆を単于とした。

「英雄記の記述、袁紹は烏丸三王に遣使して皆に安車、華蓋、羽旄、黃屋、左纛を献上して単于とした。版文に、『使持節大將軍督幽青并領冀州牧阮鄉侯紹、承り遼東屬國率衆王頒下、烏丸遼西率衆王蹋頓、右北平率衆王汗盧維に制詔す。』とある。義を慕って善になり、塞に移って留まって、北は玁狁を東は濊貊を防ぎ、北の辺境を守り、百姓の保障をなした。時に国境を侵犯しても、将軍がその罪を軍を率いて命ずると、時をおかずに過ちを悔いて改心した。外夷の中でも、最も聡恵者である。千夫長、百夫長が領地を治めて、能力が有る者を登用し、勳を競わせて國家の力が有った。次第に王侯の命を受けるようになった。我が王室の多くの理由により、公孫瓚が争いを作り、その土着の君を殺し、天を侮って主君をないがしろにした。これにより、世の中皆、武器を執り、社稷を守った。三王の子孫は奮起して、姦物に怒り、国を憂いて、弦を引いて漢兵と一緒に戦った。誠に非常に忠孝であり、朝廷は褒め称えた。しかしながら争いあう勢力に従うままに路を塞ぎ、王官爵命は聞かなくなった。勳有っても賞することなく、勤者が怠けるようになった。今、謁者楊林を派遣した。『単于の璽綬、車服をもたらして、汝の労に答える。その各々の部落を静め安んじ、謹慎を教え、凶慝を作らないようにせよ。世もまた汝の位を祀り、長く百蛮の長とする。その咎有り、減らさぬ者がいたら、汝の禄によって滅ぼし、庸を失うべきである。勉めなくていいものだろうか。烏丸単于は部衆を都護し、左右単于はその節度を受けて、他は昔の事と同じようにせよ。』」


==========================================================

張純・・・後漢末期の武将。中山郡の相、または中山郡太守を歴任した。187年に同郷の張挙と共に反乱を起こす。公孫瓚に撃破され、鮮卑を頼って逃亡する。

劉虞・・・後漢の宗室。幽州刺史、幽州牧、大尉、大司馬を歴任。民衆、烏丸の間でも人望が厚かった。公孫瓚と争い、捕らえられて処刑される。

袁紹・・・後漢末期の武将・政治家。後漢時代に4代にわたって三公を輩出した名門汝南袁氏の出身。諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。

公孫瓚・・・後漢末期の武将。後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し、後に群雄として割拠した。河北の支配権をめぐって袁紹と争うが、劉虞を殺害するなどしたため人心を失い、最後は袁紹に敗れて自害した。

英雄記・・・中国の歴史書。内容は後漢末期の軍閥の事績を記載したもので、著者は王粲らである。

安車・・・一頭立ての座って乗れる老人、子女用の馬車

華蓋・・・花のように美しい衣笠、蓮華の形をした天蓋。

羽旄・・・昔の軍隊を指揮する幢の一つ。雉の羽とヤクの尾とを、竿の先端に飾りつけたもの。

黄屋・・・古代中国で、天子の車に用いた黄色の絹で裏張りした車蓋。

左纛・・・古代中国で、天子の車の左側に立てている竿の先端に黒い毛房飾りが付いた旗。

玁狁・・・中国の北方と西北方に位置した古代の民族。厳允、獫狁とも呼称される。春秋時代に玁狁は戎狄と呼称され、戦国時代には秦・趙・燕の北の地域に分布した。周の宣王時代に南仲が北征、秦時代に蒙恬が30万の軍を率いて撃破している。

濊貊・・・現代中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から北朝鮮東部にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。

虎兕・・・凶悪、残忍、乱暴な人を指す比喩的表現。


謁者・・・古代の官職。奏者番の別称



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