時系列にすると以下のようになる
建武30年(54年) 鮮卑大人の於仇賁が朝貢に来て、王に封じられる。
永平中(58~75年)祭肜が遼東太守になる。叛いた烏丸の欽志賁を鮮卑に討たせた。鮮卑の敦煌、酒泉から東の大人達は皆、遼東に詣って、賞賜を受けた。
和帝治(88~105年) 鮮卑大都護校尉の廆が部衆を率いて、烏丸校尉の任常に従って謀反人を撃った。その功で率衆王に封じられる。
延平元年(106年) 鮮卑は東の塞に侵入し、漁陽太守の張顯を殺した
安帝治世(106~125年) 鮮卑大人の燕荔陽が入朝、漢は鮮卑王の印綬と參駕の赤車を賜った。この後、反乱を起こしたり、降伏したり、共に匈奴や烏丸を攻撃した。
末期、歩兵と騎兵2万人余りを重要な場所に駐屯させた。後に鮮卑八~九千騎が代郡や馬城塞を攻撃し、長吏を殺した。度遼将軍・鄧遵と中郎将・馬續を派遣し、これを討ち破った。鮮卑大人の烏倫と其至鞬ら7000余人は、鄧遵に降伏した。烏倫を王に封じて、其至鞬を侯とし、采帛を賜わった。
鄧遵が去った後、其至鞬はまた反乱を起こし、烏丸校尉を馬城にて包囲した。度遼将軍耿夔と幽州刺史が救援に来て包囲を解いた。其至鞬は勢力を強め、弓兵数万騎を有し、匈奴の南単于を攻め、左奧鞬日逐王を殺した。
順帝治世(125~144年) 塞に侵入し、代郡太守を殺した。漢は黎陽営の兵と周辺の郡兵を集め、南単于は援軍を送り、鮮卑を討ち退けた。後に烏丸校尉・耿曄は率衆王を率い、塞を出て鮮卑を討って、降伏させた。匈奴と北単于が逃走した後、余種の十余万落が遼東に雑居して、皆自らを鮮卑兵と号した。
桓帝治世(146~167年) 檀石槐の勢力が強くなってきたので、匈奴中郎将・張奐が征伐するも勝てなかった。方針を転換し、檀石槐を王に封ずることで、和親を打診した。しかし檀石槐は拒んで受けず、寇鈔はとても増えた。
霊帝治世(168~189年) 檀石槐は毎年幽并二州を多く鈔略した
熹平6年(177年) 護烏丸校尉・夏育、破鮮卑中郎将・田晏、匈奴中郎将・臧旻を派遣し、南単于と共に遠征を行うも、檀石槐に大敗する。
霊帝治世末(179~189年) 和連は北辺をしばしば寇鈔してきた。民に和連が射殺された後、兄の子魁頭が代わりに大人になる。和連の子騫曼が成長すると、魁頭と勢力争いをし、勢力が弱まった
~195 魁頭の死後、歩度根が大人となり、中兄の扶羅韓も別に部衆を作り大人となる
建安中(196~220年) 歩度根と軻比能は曹操に献物を上貢した。
代郡烏丸の能臣氐らが叛き、扶羅韓に属したいと希望する。
軻比能は同盟の席上で扶羅韓を殺害、その勢力を自勢力に取り込む。能臣氐らも属する。
素利、彌加、厥機は献物を上貢し、交易を通じた。曹操は皆を王とした。
厥機の死後、その子沙末汗を立てて、親漢王とした。
建安16年(211年)河間郡で田銀が反乱を起こす。軻比能は三千余騎を率いて、閻柔に従い、田銀を撃破した。
軻比能は代郡烏丸を助けて寇害をなしたので、曹操は、曹彰を驍騎將軍に任命して北征させて大破した。軻比能は逃げだし、塞を出ていった、後にまた献物を上貢するようになった。
延康元年(220年) 軻比能、素利、彌加は使者を送って馬を献じたので、曹丕は軻比能を附義王に、素利と彌加は帰義王とした。
黄初元年~2年(220~221年) 文帝、田豫を烏丸校尉兼持節護鮮卑校尉として昌平に駐屯させる。歩度根、馬を献上し王に封じられる
黄初2年(221年)軻比能は魏人で鮮卑にいる者五百余家を出して、代郡に還して居住させた。
黄初3年(222年)、軻比能は部落大人や小子、代郡烏丸修武盧ら三千余騎率いて、牛馬七万余口を連れてきて交易をし、魏人千余家を遣して、上谷に居住させた。
黄初2年~4年(221~223年) 歩度根と軻比能は争い、歩度根は太原郡、雁門郡に退き勢力を保つ。甥の泄歸泥を軻比能陣営から寝返らせ、自勢力に取り込む。
黄初5年(224年) 歩度根は宮廷に参内して献上物を贈る。これ以降は辺境を侵すこと無く、防衛に努めた。
軻比能は、素利を討ったので、田豫は軽騎を率いて、敵を制した。軻比能は小帥瑣奴を派兵するも田豫に敗れる。軻比能は輔國將軍・鮮于輔に書を送り、取りなしてもらう。
太和2年(228年) 田豫は譯夏舍を軻比能の女婿、鬱築鞬の部に使者として派遣した。譯夏舍は鬱築鞬に殺されてしまった。その秋に田豫は西部鮮卑・蒲頭と泄歸泥を率いて、塞を出て鬱築鞬を討って大いに破った。帰る時に馬城に来た時、軻比能は自ら三万騎を率いて、田豫を馬城に七日間包囲した。上谷太守の閻志の説得で、軻比能は包囲を解き、引き上げた。
後に幽州刺史・王雄が領校尉兼任した時、恩信することでなだめた。軻比能はしばしば塞に留まったり、州都に詣って献物を奉貢した。
青龍元年(233年) 歩度根と軻比能は和親を結び、共に并州を荒らし回った。并州刺史・畢軌は將軍の蘇尚、董弼らに征伐に向かわせたが、敗北。蘇尚、董弼は捕らえられ処刑された。
明帝は驍騎将軍・秦朗を征伐に向かわせて、歩度根を討つ。泄歸泥は帰順し、歸義王に封じられる。逃げた歩度根は軻比能に殺害される。
青龍3年(235年) 幽州刺史・王雄は勇士韓龍を鮮卑に派遣し、軻比能を刺殺させた。その後軻比能の弟が立った。素利、彌加、厥機は皆大人となった
檀石槐は鮮卑を大勢力にした人物である。鮮卑伝を元にして家系図を作ると以下のようになる。
檀石槐┬○ ┬魁頭
| ├扶羅韓-泄歸泥
| └歩度根
└和連-騫曼
檀石槐の勢力が広くなるにつれ、食糧問題が発生します。烏侯秦水の魚に目をつけたが、捕ることはできなかったので、魚を捕る技術がある汗人のいる東に行って汗国を攻撃し、千余家を捕虜とした。彼らを烏侯秦水のほとりに定住させ、魚を捕らせることで食糧問題を解決した。魏書を書いている時代にも汗人が住んでいると記載があります。
この汗人とは何者なのでしょう?川で漁をしていた者なのか、海で漁をしていた者なのかはわかりませんが、漁を生業の一つにしていた人々のようです。烏侯秦水は満州西部にあったようなので、そこから東に住んでいた人々でしょう。
檀石槐の死後、大人は子孫が継ぐものの、勢力争いをおこし、勢力は弱まっていきます。そこで、大人の家系ではないですが、勇健で公平であった軻比能が大人に推挙され、力をつけてきます。
朝廷には帰順したり、反乱を起こしたりとしていましたが、魏も蜀と呉との争いでなかなか北辺までは本腰を入れて対策は打てなかったようです。部族間の離間策や懐柔政策を取っています。
軻比能は勢力を回復させましたが、檀石槐の時代には及びませんでした。
明帝の時代には、完全に魏に敵対をして、最後は暗殺されてしまいます。
もう一つの魏書(王沈著)には鮮卑もまた烏丸同様に東胡の残党であり、鮮卑山で勢力を保ったので、鮮卑と号しました。その言語と習俗は烏丸と同じです。その勢力範囲(魏書が作られた時代)は東は遼水と接し、西は西城に当たりました。
毎年の春の末、水のほとりで出会いを作り、結婚をし、頭を剃って宴をする。その地にいる動物で名産を作っていたようである。端牛の角は弓をつくり、貂、豽、鼲子の皮毛で天下で名のある裘になる。
鮮卑は冒頓単于に破られてから、遠く遼東の塞外へ逃れて、他国とは争わないため、名は漢に伝わってこず、烏丸と隣接していることだけが知られていた。しかし、匈奴の勢力が弱まると、代わりに強くなり、しばしば侵攻するようになっていきました。
次は東夷伝序文を観ていきます。