時系列にすると以下のようになる


建武30年(54年) 鮮卑大人の於仇賁が朝貢に来て、王に封じられる。


永平中(58~75年)祭肜が遼東太守になる。叛いた烏丸の欽志賁を鮮卑に討たせた。鮮卑の敦煌、酒泉から東の大人達は皆、遼東に詣って、賞賜を受けた。


和帝治(88~105年) 鮮卑大都護校尉の廆が部衆を率いて、烏丸校尉の任常に従って謀反人を撃った。その功で率衆王に封じられる。


延平元年(106年) 鮮卑は東の塞に侵入し、漁陽太守の張顯を殺した


安帝治世(106~125年) 鮮卑大人の燕荔陽が入朝、漢は鮮卑王の印綬と參駕の赤車を賜った。この後、反乱を起こしたり、降伏したり、共に匈奴や烏丸を攻撃した。

末期、歩兵と騎兵2万人余りを重要な場所に駐屯させた。後に鮮卑八~九千騎が代郡や馬城塞を攻撃し、長吏を殺した。度遼将軍・鄧遵と中郎将・馬續を派遣し、これを討ち破った。鮮卑大人の烏倫と其至鞬ら7000余人は、鄧遵に降伏した。烏倫を王に封じて、其至鞬を侯とし、采帛を賜わった。

鄧遵が去った後、其至鞬はまた反乱を起こし、烏丸校尉を馬城にて包囲した。度遼将軍耿夔と幽州刺史が救援に来て包囲を解いた。其至鞬は勢力を強め、弓兵数万騎を有し、匈奴の南単于を攻め、左奧鞬日逐王を殺した。


順帝治世(125~144年) 塞に侵入し、代郡太守を殺した。漢は黎陽営の兵と周辺の郡兵を集め、南単于は援軍を送り、鮮卑を討ち退けた。後に烏丸校尉・耿曄は率衆王を率い、塞を出て鮮卑を討って、降伏させた。匈奴と北単于が逃走した後、余種の十余万落が遼東に雑居して、皆自らを鮮卑兵と号した。


桓帝治世(146~167年) 檀石槐の勢力が強くなってきたので、匈奴中郎将・張奐が征伐するも勝てなかった。方針を転換し、檀石槐を王に封ずることで、和親を打診した。しかし檀石槐は拒んで受けず、寇鈔はとても増えた。


霊帝治世(168~189年) 檀石槐は毎年幽并二州を多く鈔略した


熹平6年(177年) 護烏丸校尉・夏育、破鮮卑中郎将・田晏、匈奴中郎将・臧旻を派遣し、南単于と共に遠征を行うも、檀石槐に大敗する。


霊帝治世末(179~189年) 和連は北辺をしばしば寇鈔してきた。民に和連が射殺された後、兄の子魁頭が代わりに大人になる。和連の子騫曼が成長すると、魁頭と勢力争いをし、勢力が弱まった


~195  魁頭の死後、歩度根が大人となり、中兄の扶羅韓も別に部衆を作り大人となる


建安中(196~220年) 歩度根と軻比能は曹操に献物を上貢した。

代郡烏丸の能臣氐らが叛き、扶羅韓に属したいと希望する。

軻比能は同盟の席上で扶羅韓を殺害、その勢力を自勢力に取り込む。能臣氐らも属する。

素利、彌加、厥機は献物を上貢し、交易を通じた。曹操は皆を王とした。

厥機の死後、その子沙末汗を立てて、親漢王とした。


建安16年(211年)河間郡で田銀が反乱を起こす。軻比能は三千余騎を率いて、閻柔に従い、田銀を撃破した。


軻比能は代郡烏丸を助けて寇害をなしたので、曹操は、曹彰を驍騎將軍に任命して北征させて大破した。軻比能は逃げだし、塞を出ていった、後にまた献物を上貢するようになった。


延康元年(220年) 軻比能、素利、彌加は使者を送って馬を献じたので、曹丕は軻比能を附義王に、素利と彌加は帰義王とした。


黄初元年~2年(220~221年) 文帝、田豫を烏丸校尉兼持節護鮮卑校尉として昌平に駐屯させる。歩度根、馬を献上し王に封じられる


黄初2年(221年)軻比能は魏人で鮮卑にいる者五百余家を出して、代郡に還して居住させた。


黄初3年(222年)、軻比能は部落大人や小子、代郡烏丸修武盧ら三千余騎率いて、牛馬七万余口を連れてきて交易をし、魏人千余家を遣して、上谷に居住させた。

黄初2年~4年(221~223年) 歩度根と軻比能は争い、歩度根は太原郡、雁門郡に退き勢力を保つ。甥の泄歸泥を軻比能陣営から寝返らせ、自勢力に取り込む。


黄初5年(224年) 歩度根は宮廷に参内して献上物を贈る。これ以降は辺境を侵すこと無く、防衛に努めた。

軻比能は、素利を討ったので、田豫は軽騎を率いて、敵を制した。軻比能は小帥瑣奴を派兵するも田豫に敗れる。軻比能は輔國將軍・鮮于輔に書を送り、取りなしてもらう。


太和2年(228年) 田豫は譯夏舍を軻比能の女婿、鬱築鞬の部に使者として派遣した。譯夏舍は鬱築鞬に殺されてしまった。その秋に田豫は西部鮮卑・蒲頭と泄歸泥を率いて、塞を出て鬱築鞬を討って大いに破った。帰る時に馬城に来た時、軻比能は自ら三万騎を率いて、田豫を馬城に七日間包囲した。上谷太守の閻志の説得で、軻比能は包囲を解き、引き上げた。

後に幽州刺史・王雄が領校尉兼任した時、恩信することでなだめた。軻比能はしばしば塞に留まったり、州都に詣って献物を奉貢した。


青龍元年(233年) 歩度根と軻比能は和親を結び、共に并州を荒らし回った。并州刺史・畢軌は將軍の蘇尚、董弼らに征伐に向かわせたが、敗北。蘇尚、董弼は捕らえられ処刑された。

明帝は驍騎将軍・秦朗を征伐に向かわせて、歩度根を討つ。泄歸泥は帰順し、歸義王に封じられる。逃げた歩度根は軻比能に殺害される。


青龍3年(235年) 幽州刺史・王雄は勇士韓龍を鮮卑に派遣し、軻比能を刺殺させた。その後軻比能の弟が立った。素利、彌加、厥機は皆大人となった



檀石槐は鮮卑を大勢力にした人物である。鮮卑伝を元にして家系図を作ると以下のようになる。

檀石槐┬○ ┬魁頭

     |   ├扶羅韓-泄歸泥

     |   └歩度根

     └和連-騫曼


檀石槐の勢力が広くなるにつれ、食糧問題が発生します。烏侯秦水の魚に目をつけたが、捕ることはできなかったので、魚を捕る技術がある汗人のいる東に行って汗国を攻撃し、千余家を捕虜とした。彼らを烏侯秦水のほとりに定住させ、魚を捕らせることで食糧問題を解決した。魏書を書いている時代にも汗人が住んでいると記載があります。

この汗人とは何者なのでしょう?川で漁をしていた者なのか、海で漁をしていた者なのかはわかりませんが、漁を生業の一つにしていた人々のようです。烏侯秦水は満州西部にあったようなので、そこから東に住んでいた人々でしょう。


檀石槐の死後、大人は子孫が継ぐものの、勢力争いをおこし、勢力は弱まっていきます。そこで、大人の家系ではないですが、勇健で公平であった軻比能が大人に推挙され、力をつけてきます。

朝廷には帰順したり、反乱を起こしたりとしていましたが、魏も蜀と呉との争いでなかなか北辺までは本腰を入れて対策は打てなかったようです。部族間の離間策や懐柔政策を取っています。

軻比能は勢力を回復させましたが、檀石槐の時代には及びませんでした。

明帝の時代には、完全に魏に敵対をして、最後は暗殺されてしまいます。


もう一つの魏書(王沈著)には鮮卑もまた烏丸同様に東胡の残党であり、鮮卑山で勢力を保ったので、鮮卑と号しました。その言語と習俗は烏丸と同じです。その勢力範囲(魏書が作られた時代)は東は遼水と接し、西は西城に当たりました。

毎年の春の末、水のほとりで出会いを作り、結婚をし、頭を剃って宴をする。その地にいる動物で名産を作っていたようである。端牛の角は弓をつくり、貂、豽、鼲子の皮毛で天下で名のある裘になる。

鮮卑は冒頓単于に破られてから、遠く遼東の塞外へ逃れて、他国とは争わないため、名は漢に伝わってこず、烏丸と隣接していることだけが知られていた。しかし、匈奴の勢力が弱まると、代わりに強くなり、しばしば侵攻するようになっていきました。


次は東夷伝序文を観ていきます。




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【原文】

軻比能本小種鮮卑以勇健斷法平端不貪財物衆推以爲大人部落近塞自袁紹據河北中國人多亡叛歸之教作兵器鎧楯頗學文字故其勒御部衆擬則中國出入弋獵建立旌麾以鼓節爲進退建安中因閻柔上貢獻太祖西征關中田銀反河間比能將三千餘騎隨柔擊破銀後代郡烏丸反比能復助爲寇害太祖以鄢陵侯彰爲驍騎將軍北征大破之比能走出塞後復通貢獻延康初比能遣使獻馬文帝亦立比能爲附義王黃初二年比能出諸魏人在鮮卑者五百餘家還居代郡明年比能帥部落大人小子代郡烏丸修武盧等三千餘騎驅牛馬七萬餘口交市遣魏人千餘家居上谷後與東部鮮卑大人素利及步度根三部爭鬭更相攻擊田豫和合使不得相侵五年比能復擊素利豫帥輕騎徑進掎其後比能使別小帥瑣奴拒豫豫進討破走之由是懷貳乃與輔國將軍鮮于輔書曰夷狄不識文字故校尉閻柔保我於天子我與素利爲讐往年攻擊之而田校尉助素利我臨陣使瑣奴往聞使君來即便引軍退步度根數數鈔盜又殺我弟而誣我以鈔盜我夷狄雖不知禮義兄弟子孫受天子印綬牛馬尚知美水草況我有人心邪將軍當保明我於天子輔得書以聞帝復使豫招納安慰比能衆遂彊盛控弦十餘萬騎每鈔畧得財物均平分付一決目前終無所私故得衆死力餘部大人皆敬憚之然猶未能及檀石槐也太和二年豫遣譯夏舍詣比能女婿鬱築鞬部舍爲鞬所殺其秋豫將西部鮮卑蒲頭泄歸泥出塞討鬱築鞬大破之還至馬城比能自將三萬騎圍豫七日上谷太守閻志柔之弟也素爲鮮卑所信志往解喻即解圍去後幽州刺史王雄并領校尉撫以恩信比能數款塞詣州奉貢獻至青龍元年比能誘納步度根使叛并州與結和親自勒萬騎迎其累重於陘北并州刺史畢軌遣將軍蘇尚董弼等擊之比能遣子將騎與尚等會戰於樓煩臨陳害尚弼至三年中雄遣勇士韓龍刺殺比能更立其弟素利彌加厥機皆爲大人在遼西右北平漁陽塞外道遠初不爲邊患然其種衆多於比能建安中因閻柔上貢獻通市太祖皆表寵以爲王厥機死又立其子沙末汗爲親漢王延康初又各遣使獻馬文帝立素利彌加爲歸義王素利與比能更相攻擊太和二年素利死子小以弟成律歸爲王代攝其衆


【書き下し文】

軻比能は本、鮮卑の小種。勇健を以て、斷法を平端にし、財物を貪せず。衆推して以て大人と爲す。部落は塞の近く、袁紹河北に據するより中國人多く亡叛、之に歸す。兵器、鎧、楯を作るを教え、頗る文字を學ぶ。故に其の部衆を勒御し、則ち中國に擬す。弋獵に出入りし、旌麾を建立し、鼓節を以って、進退を爲す。

建安中、閻柔に因り獻を上貢す。太祖關中に西征し、田銀河間に反き、比能三千餘騎を將い、柔に隨い銀を擊破す。後に代郡烏丸反き、比能復た助けて寇害爲す。太祖鄢陵侯彰を以て、驍騎將軍と爲し北征し之を大破す。比能走り塞を出て、後に復た貢獻を通ず。

延康初。比能使を遣して馬を獻じ、文帝も亦、比能を立てて附義王と爲す。黃初二年、比能は諸の魏人鮮卑に在る者五百餘家を出し、代郡に還し居す。明年、比能は部落大人や小子、代郡烏丸修武盧等三千餘騎帥いて、牛馬七萬餘口を驅り交市し、魏人千餘家遣し、上谷に居す。

後、東部鮮卑大人素利及び步度根三部と爭鬭す。更に相攻擊す。田豫使して和合し、相侵得わず。五年比能復た、素利を擊ち、豫は輕騎帥いて徑して進み、其後掎いた。比能、別に小帥瑣奴を使い、豫を拒む。豫進み討ち破り、之で走る。是に由りて、貳を懷す。乃ち輔國將軍鮮于輔、書を與へて曰く、夷狄は文字を識らず。故に校尉閻柔我を天子において保つ。我、素利と與に讐を爲す。往年之を攻擊し、而して田校尉、素利を助ける。我陣に臨み、瑣奴を使い往き、使君の來たるを聞く。即に軍を引いて退こうとも、步度根數數鈔盜し、又我の弟を殺した。而して我を誣して以て鈔盜す。我夷狄の禮義知らずと雖ども、兄弟子孫は天子印綬を受け、牛馬尚、美水草をしる。況んぞ我人心邪まなこと有るや。將軍當に、我を天子において保ち明かにす。

輔書を得て以て聞き、帝復た豫に使して、招納し安慰す。比能の衆、遂に彊盛すし、控弦十餘萬騎。鈔畧每に財物を得て、均しく平らかに分付し、目前で一決して終に私する所無し。故に衆の死力を得て、餘部の大人皆之を敬憚す。然れども、猶ほ未だ能く檀石槐に及ばざる也。

太和二年、豫、譯夏舍を遣わし、比能の女婿鬱築鞬の部に詣る。舍、鞬に殺される所と爲す。其の秋、豫西部鮮卑蒲頭と泄歸泥を將いて、塞を出て鬱築鞬を討ち、之を大いに破る。還りて馬城に至り、比能自ら三萬騎將いて、豫を圍むこと七日。上谷太守閻志、柔の弟也。素は鮮卑の信ずる所と爲す。志往き解喻し、即ち圍みを解きて去る。後に幽州刺史王雄、領校尉并し、撫し以って恩信す。比能、數塞に款り、州に詣でて、獻を奉貢す。

青龍元年に至り、比能、步度根に使いし誘い納れ、并州に叛き、與に和親を結ぶ。自ら萬騎を勒いて、其の累重を陘北に於いて、迎える。并州刺史畢軌、將軍蘇尚、董弼等を遣わし、之を擊つ。比能、子を遣わし、騎を將いて、與に尚等と樓煩に於いて會戰し、陳に臨んで尚、弼害す。三年中に至り、雄、勇士韓龍を遣わし、比能を刺殺す。更に其の弟立つ。素利、彌加、厥機、皆大人と爲す。遼西、右北平、漁陽の塞外に在り、道遠く初め邊患を爲さず。然れども、其の種衆比能に於いて多い。

建安中、閻柔に因り、獻を上貢す。市を通じ、太祖皆寵を表し、以って王と爲す。厥機死す又、其の子沙末汗を立て、親漢王と爲す。延康の初め、又各が遣使し馬を獻す。文帝素利、彌加を立てて、歸義王と爲す。素利と比能と更に相い攻擊す。太和二年素利死す。子が小なるを以って弟の成律歸を王と爲し、代って其の衆を攝めた。


【日本語訳】

軻比能は元々、鮮卑の傍流の出である。勇健であり、法をわかりやすいようにし、財物を貪らなかったので、部衆が推して大人となった。部落は塞の近くにあった。袁紹が河北を拠点にしたので、亡命や叛いた中國人が多く帰属してきた。兵器や鎧、楯を作るのを教えて、少し文字を学んだ。だから、部衆を制御するのは中国に似ている。狩猟に出入りするときには、旌麾を建立して鼓と節で、進退をする。

建安中に閻柔を介して、献物を上貢した。太祖が関中に西征した時に、田銀が河間で反乱を起こし、軻比能は三千余騎を率いて、閻柔に従い、田銀を撃破した。後に代郡烏丸が反乱を起こした時は、軻比能は代郡烏丸を助けて寇害をなした。太祖曹操は、鄢陵侯曹彰を驍騎將軍に任命して北征してこれを大破した。軻比能は逃げだし、塞を出ていった、後にまた献物を上貢するようになった。

延康年の初め頃、軻比能は使者を送って馬を献じたので、文帝は、軻比能を立てて附義王とした。黄初二年、軻比能は魏人で鮮卑にいる者五百余家を出して、代郡に還して居住させた。明年、軻比能は部落大人や小子、代郡烏丸修武盧ら三千余騎率いて、牛馬七万余口を連れてきて交易をし、魏人千余家を遣して、上谷に居住させた。

後に、東部鮮卑大人の素利と歩度根三部と争い、互いに攻撃し合った。田豫が使者を送って講和させ、争わないようにした。黄初五年に軻比能は、素利を討ったので、田豫は軽騎を率いてまっすぐ進み、敵を制した。

軻比能、別に小帥瑣奴を派兵して、田豫を拒んだ。田豫は進軍して討ち破り、瑣奴は逃げた。これによって二心をを抱いた。そして輔國將軍の鮮于輔に書を送った。「夷狄は文字を知らない。だから校尉の閻柔は私と天子の間を取り持ってくれた。私にとって素利は仇である。往年之を攻撃した。しかし田校尉は素利を助けた。私は陣に臨み、瑣奴を派遣したが、使者が来るのを聞く。すぐに軍を引いて退いても、歩度根はしばしば鈔盜して、又私の弟を殺した。しかも私を誣告して鈔盜する。私は夷狄の礼義を知らないといっても、兄弟子孫は天子の印綬を受け、牛、馬は尚、美しい水や草を知っている。どうして私の心が邪しいことがあるだろうか。将軍は、私が天子の側にいることを明らかにして欲しい。」

鮮于輔は書を受け取って都に送り、皇帝は田豫に使者を送って、招納して慰めた。軻比能の部衆はますます勢力を強めて、弓兵十余万騎を有した。鈔略ごとに財物を得ると、均等に分け与え、目の前で即決して、自分の物にすることは無かった。だから部衆の死力を得ることができ、余部の大人は皆、彼を敬憚したが、まだ檀石槐には及ばなかった。

太和二年、田豫は譯夏舍を軻比能の女婿、鬱築鞬の部に使者として派遣した。譯夏舍は鬱築鞬に殺されてしまった。その秋に田豫は西部鮮卑蒲頭と泄歸泥を率いて、塞を出て鬱築鞬を討って大いに破った。帰る時に馬城に来た時、軻比能は自ら三万騎を率いて、田豫を馬城に七日間包囲した。上谷太守の閻志は閻柔の弟であった。彼は鮮卑に信じられていた。閻志が馬城に行き、諭し説き伏せると、すぐに囲みをを解いて去った。後に幽州刺史の王雄が領校尉兼任した時、恩信することでなだめた、軻比能はしばしば塞に留まったり、州都に詣って献物を奉貢した。

青龍元年になって、軻比能は歩度根に使者を送り仲間に誘って、并州に反乱を起こし、共に和親を結んだ。自ら万騎を率いて、歩度根の家族、親族を陘北で迎えた。并州刺史の畢軌は將軍の蘇尚、董弼らを派遣し、これを討った。軻比能は子を派遣し、騎兵を率いさせて、歩度根と共に蘇尚らと樓煩で会戦し、陣に臨んで蘇尚、董弼を殺した。青龍三年中になって、王雄は勇士韓龍を鮮卑に派遣し、軻比能を刺殺させた。その後軻比能の弟が立った。

素利、彌加、厥機は皆大人となった。遼西、右北平、漁陽の塞外にあって、道が遠かったので初めは辺患はなかった。しかし、その種衆は軻比能の時よりも多かった。

建安中に閻柔を介して、献物を上貢し、交易を通じた。太祖曹操は皆に寵を表して、王とした。厥機が死ぬと、その子沙末汗を立てて、親漢王とした。延康の初め、又各々が遣使して馬を献じた。文帝は素利、彌加を立てて、帰義王とした。素利と軻比能は更に互いに攻撃しあった。太和二年に素利が死んだ。子が小さかったので弟の成律歸を王として、代ってその部衆を治めた。

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建安中・・・後漢の第14代皇帝、献帝・劉協時代の元号。196~220年

桑乾・・・現代の河北省張家口市蔚県北東部。

昌平・・・現代の北京市昌平区。漢代には上谷郡に属する県

文帝・・・魏の初代皇帝・曹丕。在位220~226年。漢の献帝から禅譲を受けて魏王朝を開いた。

田豫・・・後漢末期から三国時代の武将。劉備、公孫瓚、曹操に仕える。文帝・曹丕の時代、北方の蛮族が国境を騒がしたため、持節護烏桓校尉となり、牽招・解俊とともに鮮卑を監督するなど、北方の非漢民族である鮮卑族や匈奴族の対応などでも活躍した。

黄初五年・・・224年。

明帝・・・魏2代皇帝・曹叡。在位226~239年。遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、群臣の反対を押し切って征討を決行し、鎮圧する。

青龍元年・・・233年。

幢麾・・・円筒の旗と指示の旗。軍の大将が所有するもの

曲蓋・・・将軍を表す印。

鼓吹・・・鉦鼓や笛を主楽器とする、古代の軍用の楽。軍の大将が所有するもの。

弋獵・・・鳥や獣の狩をすること

鄢陵侯彰・・・曹操の子、曹彰。弓射と馬車の操縦が上手く、武勇に長けていた。烏丸、鮮卑の異民族の反乱鎮圧に活躍した。

延康・・・後漢の第14代皇帝、献帝・劉協時代の最後の元号。220年。

黄初二年・・・221年。

代郡・・・現代の河北省蔚県。

鮮于輔・・・後漢~三国時代の武将。最初は劉虞に仕え、主君殺害後は袁紹と共に公孫瓚を撃破する。その後田豫と共に曹操に帰順、幽州の統治と北方異民族との交渉窓口を務めた。

太和二年・・・228年

樓煩・・・現代の山西省忻州市寧武県一帯




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【原文】

投鹿侯從匈奴軍三年其妻在家有子投鹿侯歸怪欲殺之妻言嘗晝行聞雷震仰天視而雹入其口因吞之遂妊身十月而產此子必有奇異且長之投鹿侯固不信妻乃語家令收養焉號檀石槐長大勇健智畧絕衆年十四五異部大人卜賁邑鈔取其外家牛羊檀石槐策騎追擊所向無前悉還得所亡由是部落畏服施法禁曲直莫敢犯者遂推以爲大人檀石槐既立乃爲庭於高柳北三百餘里彈汗山啜仇水上東西部大人皆歸焉兵馬甚盛南鈔漢邊北拒丁令東却夫餘西擊烏孫盡據匈奴故地東西萬二千餘里南北七千餘里網羅山川水澤鹽池甚廣漢患之桓帝時使匈奴中郎將張奐征之不克乃更遣使者齎印綬即封檀石槐爲王欲與和親檀石槐拒不肯受寇鈔滋甚乃分其地爲中東西三部從右北平以東至遼遼接夫餘貊爲東部二十餘邑其大人曰彌加闕機素利槐頭從右北平以西至上谷爲中部十餘邑其大人曰柯最闕居慕容寺爲大帥從上谷以西至敦煌西接烏孫爲西部二十餘邑其大人曰置鞬落羅日律推演宴荔遊等皆爲大帥而制屬檀石槐至靈帝時大鈔畧幽并二州緣邊諸郡無歲不被其毒嘉平六年遣護烏丸校尉夏育破鮮卑中郎將田晏匈奴中郎將臧旻與南單于出雁門塞三道並進徑二千餘里征之檀石槐帥歩衆逆擊旻等敗走兵馬還者什一而巳鮮卑衆日多田畜射獵不足給食後檀石槐乃案行烏侯秦水廣袤數百里停不流中有魚而不能得聞汗人善捕魚於是檀石槐東擊汗國得千餘家徙置烏侯秦水上使捕魚以助糧至于今烏侯秦水上有汗人數百戶檀石槐年四十五死子和連代立和連材力不及父而貪淫斷法不平衆叛者半靈帝末年數爲寇鈔攻北地北地庶人善弩射者射中和連和連即死其子騫曼小兄子魁頭代立魁頭既立後騫曼長大與魁頭爭國衆遂離散魁頭死弟步度根代立自檀石槐死後諸大人遂世相襲也


【書き下し文】
投鹿侯は匈奴軍に從うこと三年、其の妻家に在り、子が有り。投鹿侯歸り、怪しみ之を殺さんと欲す。妻言う、嘗て晝に行く、雷震聞き、天を仰ぎ視ると雹が口に入り、其れ吞むに因って之、遂に妊身し、十月すると產まれる。此の子必ず奇異有り。之を且に長す。投鹿侯固より信じず。妻は乃して家令に語り、収めて養う。檀石槐と號す。長大し、勇健で智畧は衆と絕す。年十四、五、異部の大人卜賁邑、其の外家の牛羊を鈔取す。檀石槐、騎を策し追擊し、向う所前無し。悉く亡る所得て還える。是由に部落畏服し、施す法禁、曲直を敢えて犯す者莫し。遂に推されるを以って大人と爲る。檀石槐既立ち、乃るに高柳の北三百餘里、彈汗山や啜仇水の上に於いて庭と爲し、東西部の大人は皆、焉に歸す。兵馬甚だ盛り、南は漢邊を鈔め、北は丁令を拒み、東は夫餘を却け、西は烏孫を擊ち、盡く匈奴の故地に據り、東西万二千餘里、南北七千餘里の山川、水澤、鹽池、甚だ廣く網羅す。漢は之を患い、桓帝の時、匈奴中郎將張奐を使い之を征すも、克てず。乃ち更に使者を遣わし、印綬を齎して、即封じ檀石槐を王と爲し、與に和親を欲した。檀石槐拒み肯受せず。寇鈔は甚だ滋る。乃て其の地を分け、中、東、西の三部と爲す。右北平從り東を以て、遼遼に至り、夫餘、貊と接するを東部と爲し、二十余邑。其の大人は彌加、闕機、素利、槐頭と曰う。右北平從り西を以て、上谷に至るを中部と爲し、十余邑。其の大人は柯最、闕居、慕容寺と曰い、大帥と爲す。上谷從り、西を以て、敦煌に至り、西を烏孫と接するを西部と爲し、二十余邑。其の大人は置鞬落羅、日律推演、宴荔遊等と曰い、皆大帥と爲す。而して檀石槐に制屬す。靈帝の時に至り、大いに幽并二州鈔畧す。緣邊の諸郡が其の毒を被らない歲無し。嘉平六年、護烏丸校尉夏育、破鮮卑中郎將田晏、匈奴中郎將臧旻を遣わし、南單于と與に雁門の塞を出て、三道を並進し、徑ちに二千余里して之を征す。檀石槐、歩衆を帥いて逆擊し、旻等敗走す。兵馬の還る者、什に一巳。鮮卑の衆、日に多く、田畜、射獵して食を給すも不足す。後に檀石槐、乃ち案じて烏侯秦水に行く。廣袤數百里、停って流れず、中に魚有るも、得る能わず。汗人は善く魚を捕るを聞き、是に於いて、檀石槐は東に汗國を擊ち、千餘家を得る。徙して烏侯秦水の上に置き、魚を捕るに使い、以て糧を助ける。于今に至り、烏侯秦水上に汗人數百戶有り。檀石槐年四十五にて死す。子の和連代わりに立つ。和連の材力は父に及ばず、而も、貪淫、斷法平らず。衆に叛く者半ば。靈帝の末年、數寇鈔爲し、北地を攻める。北地の庶人、善く弩を射する者、和連に射中し、和連即死す。其の子騫曼は小さく、兄の子魁頭代わりに立つ。魁頭既立つ後、騫曼長大し、魁頭と國を爭い、衆遂に離散す。魁頭死して弟の步度根代って立つ。檀石槐の死後自り、諸大人は遂に世相い襲也。


【日本語訳】
投鹿侯は匈奴軍に三年従軍し、彼の妻は家にいて、子を産んだ。投鹿侯が帰ってきて、不義の子と怪んで殺そうとした。妻は言った。「ある時昼に出かけ、雷震を聞いて天を仰ぎ見た時に、雹が口に入って、それ呑み込んでしまった。そして妊娠して、十月すると生まれた。この子は必ず他の子と違います。育てましょう。」

投鹿侯は全く信じなかった。だから妻は実家に語って納得させて、育てた。檀石槐と名付ける。成長し、勇健で智略は他人より優れていた。14~15歳頃、別の部衆の大人卜賁邑が、家の牛や羊を掠め取った。檀石槐は馬にむち打って追撃し、向う所敵無しで打ち破った。取られた物全て取り返してきた。このことが部落が皆畏服して、彼が決めた法や、不正なことを敢えて犯す者はいなかった。皆に推されて大人となった。

檀石槐が大人になってから、高柳の北三百余里、弾汗山や啜仇水のほとりを庭として、東部、西部の大人は皆、檀石槐に帰属した。兵馬はとても強く、南は漢辺に攻め込み、北は丁令を防ぎ、東は夫余を退け、西は烏孫を討って、ことごとく匈奴の故地を拠点として、東西万二千余里、南北七千余里の山川、水沢、塩池を広く網羅した。

漢はこれを患いて、桓帝の時に匈奴中郎将の張奐が征伐したが、勝てなかった。そこで対応を変えて使者を遣わして、印綬を持って行き、檀石槐を王に封じて、和親を打診した。しかし檀石槐は拒んで受けず、寇鈔はとても増えた。

支配地域を分けて、中、東、西の三部とした。右北平より東から遼東の夫余、貊と接するまでを東部として、二十余邑がある。そこの大人は彌加、闕機、素利、槐頭と言った。右北平より西から、上谷までを中部として、十余邑がある。そこの大人は柯最、闕居、慕容寺といい、大帥でもあった。上谷より西、敦煌まで、西を烏孫と接するまでを西部とし、二十余邑がある。そこの大人は置鞬落羅、日律推演、宴荔遊等といい、皆大帥であった。皆檀石槐の勢力に属していた。

霊帝の時になって、多く幽并二州を鈔略した。縁辺の諸郡がその被害を被らなかった年はなかった。

嘉平六年に護烏丸校尉・夏育、破鮮卑中郎将・田晏、匈奴中郎将・臧旻を派遣し、南単于と共に雁門の塞を出て、三道を並進して、二千余里まで進んで遠征をした。檀石槐、軍を率いて反撃して、漢軍は敗走した。兵馬の帰ってきた者は10人に1人だった。

鮮卑の部衆は日に日に多くなり、農耕や畜産、狩猟をしても食料は不足した。後に檀石槐は考えて、烏侯秦水に行った。広さは数百里、停っていて流れず、中に魚はいるが、捕ることはできなかった。汗人は魚を捕るのが上手いというのを聞いたので、檀石槐は東に行って汗国を攻撃し、千余家を捕虜とした。そして烏侯秦水のほとりに連れて行って定住させ、魚を捕るに使って、食糧事情を助けた。今に至っても、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸ある。

檀石槐は45歳で死んだ。子の和連が代わりに立った。和連の能力は父に及ばず、貪欲淫乱で、裁きが不公平であったので、部衆で叛く者は半分くらいいた。

霊帝の末年、ますます寇鈔をして、北地を攻めてきた。北地の庶民の中に、弩を射るのが上手な者がいて、和連に弩を射て命中して、和連を即死させた。和連の子騫曼は小さく、兄の子魁頭が代わりに立った。魁頭が立ってからしばらく後、騫曼が成長してからは、魁頭と勢力争いをしたので、部衆は離散してしまった。魁頭が死んでから、弟の歩度根が代って立った。檀石槐の死後から、大人の位は世襲制になった。



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高柳・・・前漢により設置された高柳県。現代の山西省大同市に位置する陽高県。


丁令・・・紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいた遊牧民族


夫余・・・400年くらいまで満州にあった国や民族。


烏孫・・・紀元前161年から5世紀にかけて、イシク湖周辺に存在した遊牧国家


貊・・・黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から北朝鮮東部にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の民族


桓帝・・・後漢の第11代皇帝・劉志。在位146年~167年

張奐・・・後漢時代の官僚。使匈奴中郎将、度遼将軍、大司農、護匈奴中郎将を歴任する。

鴈門・・・并州所属の郡。現代の山西省朔州市あたり。

霊帝・・・後漢の第12代皇帝・劉宏。在位168年~189年

嘉平六年・・・魏の第3代皇帝・曹芳時代の元号。254年。




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【原文】

魏書曰鮮卑亦東胡之餘也別保鮮卑山因號焉其言語習俗與烏丸同其地東接遼水西當西城常以季春大會作樂水上嫁女娶婦髡頭飲宴其獸異於中國者野馬羱羊端牛端牛角爲弓世謂之角端者也又有貂豽鼲子皮毛柔蠕故天下以爲名裘鮮卑自爲冒頓所破遠竄遼東塞外不與餘國爭衡未有名通於漢而由自與烏丸相接至光武時南北單于更相攻伐匈奴損耗而鮮卑遂盛建武三十年鮮卑大人於仇賁率種人詣闕朝貢封於仇賁爲王永平中祭肜爲遼東太守誘賂鮮卑使斬叛烏丸欽志賁等首於是鮮卑自敦煌酒泉以東邑落大人皆詣遼東受賞賜青徐二人州給錢歲二億七千萬以爲常和帝時鮮卑大都護校尉廆帥部衆從烏丸校尉任常擊叛者封校尉廆爲率衆王殤帝延平中鮮卑乃東入塞殺漁陽太守張顯安帝時鮮卑大人燕荔陽入朝漢賜鮮卑王印綬赤車參駕止烏丸校尉所治甯下通胡市築南北兩部質宮受邑落質者二十部是後或反或降或與匈奴烏丸相攻擊安帝末發緣邊步騎二萬餘人屯列衝要後鮮卑八九千騎穿代郡及馬城塞入害長吏漢遣度遼將軍鄧遵中郎將馬續出塞追破之鮮卑大人烏倫其至鞬等七千餘人詣遵降封烏倫爲王其至鞬爲侯賜采帛遵去後其至鞬復反圍烏丸校尉於馬城度遼將軍耿夔及幽州刺史救解之其至鞬遂盛控弦數萬騎數道入塞趣五原寧貊攻匈奴南單于殺左奧鞬日逐王順帝時復入塞殺代郡太守漢遣黎陽營兵屯中山緣邊郡兵屯塞下調五營弩帥令教戰射南單于將步騎萬餘人助漢擊却之後烏丸校尉耿曄將率衆王出塞擊鮮卑多斬首虜於是鮮卑三萬餘落詣遼東降匈奴及北單于遁逃後餘種十餘萬落詣遼東雜處皆自號鮮卑兵


【書き下し文】

魏書曰く、鮮卑は亦東胡の餘り也。別に鮮卑山に保ち、因って號となす。其の言語習俗は烏丸と同じ。其の地、東は遼水に接し、西は西城に當たる。常に季春を以て水上で樂しみ作り、大いに會い、女を嫁がせ、婦を娶り、頭を髡って飲宴す。其の獸で中國に於いて異なる者は、野馬、羱羊、端牛である。端牛の角、弓と爲り、世に謂う角端なる者也。又、貂、豽、鼲子有り、皮毛、柔蠕故、以て天下に名ある裘と爲す。鮮卑、冒頓に破れる所爲すより、遠く遼東塞外へ竄れ、餘の國と爭衡せず、名は漢において通じて有らず。烏丸と相接する由のみ。光武時至り、南北單于更に攻伐しあい、匈奴損耗して、鮮卑盛んになる。建武三十年、鮮卑大人於仇賁、種人率いて、闕に詣り、朝貢す。於仇賁封じて、王と爲す。永平中、祭肜遼東太守と爲る。鮮卑に賂して誘い使って、叛いた烏丸の欽志賁等首を斬る。是に於いて、鮮卑の敦煌、酒泉より東の邑落の大人は皆、遼東に詣り、賞賜を受ける。青徐の二州、錢を給し、歲に二億七千萬を以て常と爲す。和帝の時、鮮卑大都護校尉廆、部衆を帥い、烏丸校尉任常に從い叛者を擊つ。校尉廆を封じて率衆王と爲す。殤帝の延平中、鮮卑は乃ち東の塞に入り、漁陽太守の張顯を殺した。安帝の時、鮮卑大人燕荔陽入朝し、漢は鮮卑王印綬、參駕の赤車を賜う。烏丸校尉治する所の甯の下に止めた。胡市を通わせ、南北兩部の質宮を築き、邑落の質者二十部受く。是の後、或いは反し、或いは降る、或いは與に匈奴、烏丸攻擊す。安帝の末、緣邊の步騎二萬餘人を發し、衝要に屯列させた。後鮮卑八九千騎、代郡及び馬城塞を穿ち、入って長吏を害す。漢、度遼將軍鄧遵、中郎將馬續を遣し、塞を出て、之を追い破った。鮮卑大人烏倫、其至鞬等七千餘人は遵に詣って降り、烏倫を封じて王と爲し、其至鞬を侯と爲し、采帛を賜う。遵が去った後、其至鞬復た反し、烏丸校尉を馬城に於いて圍む。度遼將軍耿夔及び幽州刺史、之を救い解く。其至鞬、盛りを遂げ、控弦數萬騎。數道から塞に入り、五原寧貊に趣き、匈奴の南單于を攻め、左奧鞬日逐王を殺す。順帝の時、復た塞に入り、代郡太守を殺す。漢、黎陽營の兵を遣わし、中山に屯め、緣邊の郡兵塞下に屯め、五營の弩帥を調って戰射を教えさせた。南單于、步騎萬餘人を將い、漢を助け、之を擊却す。後、烏丸校尉耿曄は率衆王を將い、塞を出て鮮卑を擊ち、多くの虜を斬首す。是れに於いて、鮮卑三萬餘落、遼東に詣り降る。匈奴及び北單于が遁逃した後、餘種の十餘萬落が遼東に詣り、雜處し、皆自ら鮮卑兵と號す。


【日本語訳】

魏書(王沈著)に曰う。鮮卑もまた東胡の残党である。別のところ鮮卑山で勢力を保ったので、鮮卑と号するようになった。その言語、習俗は烏丸と同じである。その勢力範囲は東は遼水と接し、西は西城に当たる。常に春の末、水上で楽しみ出会いを作り、娘を嫁がたり嫁を取ったりして、頭を剃って宴をする。その地の獣で、中国と異なる物は、野馬、羱羊、端牛である。端牛の角は弓となり、世に角端と言われる物である。又、貂、豽、鼲子がいる。皮毛はとても柔らかいので、天下で名のある裘となった。鮮卑は冒頓単于に破られてから、遠く遼東の塞外へ逃れて、他国とは争わないため、名は漢に伝わってこなかった。烏丸と隣接していることだけが知られていた。

光武帝の時になって、南北単于が互いに攻め合って、匈奴の勢力が弱まってきたので、鮮卑が盛んになった。建武三十年に鮮卑大人の於仇賁、種人を率いて、宮廷に詣って朝貢した。於仇賁を王に封じた。

永平中に祭肜が遼東太守となった。鮮卑を買収して、漢に叛いた烏丸の欽志賁らの首を斬らせた。是によって、鮮卑の敦煌、酒泉より東の邑落の大人は皆、遼東に詣って、賞賜を受けた。青徐の二州は毎年二億七千万の銭を給することになった。

和帝の時、鮮卑大都護校尉の廆が部衆を率いて、烏丸校尉の任常に従って謀反人を撃った。校尉廆を率衆王に封じた。

殤帝の延平中に、鮮卑は東の塞に入って、漁陽太守の張顯を殺した。

安帝の時に鮮卑大人の燕荔陽が入朝してきたので、漢は鮮卑王の印綬と參駕の赤車を賜った。烏丸校尉が治めている所の甯の下に止めた。胡に市を通わせて、南北両部の質宮を築いて、邑落の人質を二十部より受けた。この後、反乱を起こしたり、降伏したり、共に匈奴や烏丸を攻撃した。

安帝の末に、縁辺の歩兵と騎兵二万人余りを出発させ、重要な場所に駐屯させた。後に鮮卑八~九千騎が代郡及び馬城塞に攻めてきて、侵入して長吏を殺した。漢は度遼將軍鄧遵と中郎將馬續を派遣し、塞を出て、これを討ち破った。鮮卑大人の烏倫と其至鞬ら七千余人は、鄧遵に降伏した。烏倫を王に封じて、其至鞬を侯とし、采帛を賜わった。鄧遵が去った後、其至鞬はまた反乱を起こし、烏丸校尉を馬城にて包囲した。度遼將軍耿夔及び幽州刺史が救援に来て包囲を解いた。其至鞬は勢力を強め、弓兵数万騎を有した。数道より塞に入ってきて、五原寧貊に赴いて、匈奴の南単于を攻め、左奧鞬日逐王を殺した。

順帝の時にまた塞に入ってきて、代郡太守を殺した。漢は黎陽営の兵を遣わして、中山に駐屯させ、縁辺の郡兵を塞下に駐屯させ、五営の弩帥を募って戦や弓射を教えさせた。南単于は歩騎万余人を率いて、漢を助けて、鮮卑を討ち退けた。後に烏丸校尉耿曄は率衆王を率い、塞を出て鮮卑を討って、多くの捕虜を斬首した。これによって、鮮卑三万余落は遼東に詣り降った。匈奴と北単于が逃走した後、余種の十余万落が遼東に詣って雑居して、皆自らを鮮卑兵と号した。


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東胡・・・春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。冒頓単于に滅ぼされる。


羱羊・・・高山に棲んでる野生の山羊。アイベックスみたいな感じか。

豽・・・むじな。

鼲子・・・おじぎねずみ


裘・・・かわごろも。中国で昔から冬の寒さを防ぐために着用した毛皮。いろいろな動物の毛皮を用いた。

建武三十年・・・54年

永平中・・・後漢の第2代皇帝、明帝・劉荘時代の元号。58年~75年。

祭肜・・・後漢時代の人物。光武帝に仕える。41年に遼東郡の太守に任じられ、異民族との戦いに大活躍した。

和帝・・・は後漢の第4代皇帝、劉肇。 在位88~105年

任尚・・・後漢時代の人物。烏丸校尉、戊己校尉、西域都護を歴任。水清ければ魚棲まずの故事で有名

南匈奴・・・48年に匈奴から分かれた南の勢力。後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。

殤帝・・・後漢の第5代皇帝・劉隆。在位105~106年

延平中・・・106年


安帝・・・後漢の第6代皇帝・劉祜。在位106~125年



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【原文】

鮮卑步度根既立衆稍衰弱中兄扶羅韓亦別擁衆數萬爲大人建安中太祖定幽州步度根與軻比能等因烏丸校尉閻柔上貢獻後代郡烏丸能臣氐等叛求屬扶羅韓扶羅韓將萬餘騎迎之到桑乾氐等議以爲扶羅韓部威禁寬緩恐不見濟更遣人呼軻比能比能即將萬餘騎到當共盟誓比能便於會上殺扶羅韓扶羅韓子泄歸泥及部衆悉屬比能比能自以殺歸泥父特又善遇之步度根由是怨比能文帝踐阼田豫爲烏丸校尉持節并護鮮卑屯昌平步度根遣使獻馬帝拜爲王後數與軻比能更相攻擊步度根部衆稍寡弱將其衆萬餘落保太原雁門郡步度根乃使人招呼泄歸泥曰汝父爲比能所殺不念報仇反屬怨家今雖厚待汝是欲殺汝計也不如還我我與汝是骨肉至親豈與仇等由是歸泥將其部落逃歸步度根比能追之弗及至黃初五年步度根詣闕貢獻厚加賞賜是後一心守邊不爲寇害而軻比能衆遂彊盛明帝即位務欲綏和戎狄以息征伐羈縻兩部而已至青龍元年比能誘步度根深結和親於是步度根將泄歸泥及部衆悉保比能寇鈔并州殺畧吏民帝遣驍騎將軍秦朗征之歸泥叛比能將其部衆降拜歸義王賜幢麾曲蓋鼓吹居并州如故步度根爲比能所殺


【書き下し文】

鮮卑、步度根既に立ち、衆は稍衰弱し、中兄扶羅韓も亦別に數萬の衆を擁し、大人と爲る。建安中、太祖幽州を定め、步度根は軻比能等と烏丸校尉閻柔に因りて、獻を上貢す。後、代郡烏丸能臣氐等叛き、求めて扶羅韓に屬す。扶羅韓、萬餘騎將いて之を迎えた。桑乾に到り、氐等議し以て爲す。扶羅韓部、威禁が寬緩で、恐らく濟まずと見る。更に人を遣し軻比能を呼ぶ。比能は即萬餘騎將いて到り、當に共盟して誓う。比能は便ちに會上に於いて、扶羅韓を殺し、扶羅韓の子泄歸泥及び部衆悉く比能に屬す。比能は自ら以って歸泥父殺すも、特に又善く之を遇す。步度根は是に由りて、比能を怨らむ。文帝踐阼し、田豫を烏丸校尉と爲し、持節、護鮮卑并せ昌平に屯す。步度根遣使して馬を獻し、帝に拜し王と爲す。後數軻比能と更に相攻擊し、步度根の部衆稍寡弱になり、其衆萬餘落將いて、太原、雁門郡に保つ。步度根はかくて人を使わし、泄歸泥を招呼させ曰く、汝の父比能の所で殺され爲す。報仇を念わず、反って怨家に屬す。今汝を厚待すと雖ども、是汝を殺欲す計也。我と還り如かざる。我と汝是、骨肉親に至り、豈仇と與に由ならんや。是で歸泥、其部落將いて、步度根に逃歸し、比能は之を追うも至に及ばず。黃初五年、步度根闕に詣で貢獻し、厚く賞賜を加える。是の後一心に邊を守り、寇害を爲さず。而るに軻比能の衆、彊盛と遂る。明帝即位、務めて綏和を欲し、以て戎狄の征伐息め、兩部を羈縻るのみ。

青龍元年に至り、比能、步度根を誘い、深く和親を結ぶ。是に於いて、步度根、泄歸泥及部衆悉くを將い、比能を保み、并州を寇鈔し吏民を殺畧す。帝、驍騎將軍秦朗遣して、征す。之で歸泥は比能に叛す。其部衆將いて降り、歸義王拜し、幢麾、曲蓋、鼓吹を賜り、并州に居ること故の如く。步度根は比能に殺る所爲り。


【日本語訳】

鮮卑は歩度根が立ってから、部衆はますます衰弱し、中兄の扶羅韓もまた別に数万の部衆を擁して、大人となった。建安中に太祖曹操は幽州を平定すると、歩度根は軻比能等と烏丸校尉閻柔を介して、献物を上貢した。後に代郡烏丸の能臣氐らが叛き、扶羅韓に属したいと求め、扶羅韓は万余騎を率いて、彼らを迎えた。桑乾に着いたときに、氐らは議論をした。扶羅韓の部衆は軍規がゆるやかなので、このままでは済まないであろうと見た。更に人を遣し軻比能を呼ぶ。

軻比能はすぐに万余騎を率いてきて、まさに共盟して誓うべきだと言う。軻比能は便ちに会上にて、扶羅韓を殺し、扶羅韓の子泄歸泥と部衆をことごとく軻比能に帰順させた。軻比能は自ら泄歸泥の父を殺したが、特に泄歸泥を厚遇した。歩度根はこれにより、軻比能を怨んだ。

文帝が践祚し、田豫を烏丸校尉としし、持節、護鮮卑と併せて昌平に駐屯させた。歩度根は遣使して馬を献上し、帝に拜して王となった。後にしばしば軻比能と更に攻撃し合い、歩度根の部衆は、ますます寡弱になり、其の部衆万余落率いて、太原郡、雁門郡で勢力を保った。

こうして歩度根は人を使わして、泄歸泥を招呼させて言った。「汝の父は軻比能の所で殺された。仇を返さず、反対に怨む家に属している。今、汝を厚遇しているといっても、汝を殺そうとする計略である。我と還るべきでだ。我と汝は血を分けた間柄であり、どうして仇と共にいるのか?」

これで泄歸泥は自分の部落を率いて、歩度根の所に逃げて帰参する。軻比能はこれを追ったが追いつかなかった。

黄初五年、歩度根は宮廷に詣でて貢献し、厚く賞賜を頂いた。この後一心に辺境を守り、寇害を為さなかった。ところが軻比能の部衆が強盛となった。明帝は即位後、辺境の平和を望み、戎狄の征伐を止めて、両部に羈縻政策をとった。

青龍元年に至り、軻比能は歩度根を誘って、深く和親を結んだ。これによって歩度根は泄歸泥及び部衆ことごとくを率いて、軻比能をたのみとし、并州を寇鈔して官吏や民を殺戮した。明帝は驍騎將軍秦朗を派遣して、征伐をした。これで泄歸泥は軻比能に叛し、部衆を率いて降った。歸義王を拜して、幢麾、曲蓋、鼓吹を賜って、并州に昔のように居ることができた。歩度根は軻比能に殺された。


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建安中・・・後漢の第14代皇帝、献帝・劉協時代の元号。196~220年

桑乾・・・現代の河北省張家口市蔚県北東部。

昌平・・・現代の北京市昌平区。漢代には上谷郡に属する県

文帝・・・魏の初代皇帝・曹丕。後漢の献帝から禅譲を受けて魏王朝を開いた。

田豫・・・後漢末期から三国時代の武将。劉備、公孫瓚、曹操に仕える。文帝・曹丕の時代、北方の蛮族が国境を騒がしたため、持節護烏桓校尉となり、牽招・解俊とともに鮮卑を監督するなど、北方の非漢民族である鮮卑族や匈奴族の対応などでも活躍した。

黄初五年・・・224年。

明帝・・・魏2代皇帝・曹叡。遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、群臣の反対を押し切って征討を決行し、鎮圧する。


羈縻・・・特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・県令などに任じ、彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させたもの。


青龍元年・・・233年。

幢麾・・・円筒の旗と指示の旗。軍の大将が所有するもの

曲蓋・・・将軍を表す印。

鼓吹・・・鉦鼓や笛を主楽器とする、古代の軍用の楽。軍の大将が所有するもの。



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