食事や祭り、習俗について


・食事の時は、俎と豆といった脚付きの食器を使っていた。

・集会では献杯や返杯をし、両手を胸の前で組み合わせて礼をして段を上ったり降りたりする。

・殷の正月を使って天を祭り、国中で集会をし、連日飲食し歌舞する。これを迎鼓と言っていた。この時には、刑獄を止めて、囚人を解放する。


殷の正月を使っていたということは殷暦を使っていたということで、殷を信奉していたのか、殷の末裔だったのか、殷の後継者を自称していたのかはわかりません。魏の時代の正月より一月前を正月としていたと言うことです。何日間か国中で飲食をして歌舞する「迎鼓」という祭りをして、恩赦をしていました。豊穣を祈願したのか、新年を祝うだけなのかはわかりません。

両手を胸の前で組み合わせて礼をして段を上ったり降りたりする、というのはどういった意味があるのかは気になります。その意味も書いて欲しかったです。


通訳が言葉を伝える時には、跪いて手は地面につけて、ひっそりと話すということです。ひっそりと話すのはわかるとして、跪いて手を地面に付けながらとは、かなり変わった風習かなと思います。


兄が死んだら兄嫁を妻とするのは、匈奴や烏丸、鮮卑と同じです。遊牧民族の末裔でしょうか?


・道を行くと昼夜関係なく老人子供は皆歌っていて、一日を通じて声が絶えることはない。

かなりの歌好きですね。老人と子供だけなので、何か意味があったのでしょうか?


・軍事行動や天を祭る時に、牛を殺して蹄を見ることで吉凶を占う。蹄が割れていれば凶とし、合わさっていればは吉とする。敵がいれば、諸加は自ら戦い、下戸は共に兵糧を担いでいき、これを飲食す。


牛の蹄で、吉兆を占っていたようです。これに使うために、牛を大事に育てていました。


・弓矢、刀、矛を使って兵としていて、家々には自らの鎧や仗が有る。国の古老、自ら昔の亡命者と説明をする。城柵を皆円にして作り、牢獄に似たような作りである。


武器は弓矢、刀、矛を使っていました。家には自分の鎧や仗があるということで、民は皆戦士だったのでしょう。

古老は亡命者と説明していたということで、殷暦を使っているので、殷からの亡命者だったのでしょうか?

城柵は円に作って、堅牢だったようです。


・死んだ時、夏には皆氷を使う。人を殺して徇葬し、多き者は百を数える。厚く葬り、槨は有るが棺は無い。


夏に氷を使っていたのは腐乱を防ぐためで、氷は高い山の上から持ってきたのか、冬に切り出してどこかに保存していたのでしょう。身分の高い人の場合は殉葬の習慣があって、多い時には百人くらい。棺は無く、槨はあるというので不思議な風習です。何か意味があったのでしょうか。

魏略によると、喪が長いほど栄誉とされており、最大5ヶ月まで。亡者を祭る品物を言い争いしながら押しつけたり断ったりするのを礼節としている。喪に服する時は、男女は皆純白の衣類を着ていて、婦人は布の面衣を使用し、環珮を付けない。以上の風習は中国とおおよそ同じと記載があります。


衣装

・白い衣装を好んだようです。白布大袂、袍、袴があって、革鞜を履く。

・国を出る時には絹、刺繍、錦、毛織物を好み、大人は狐狸、狖白、黑貂の裘を加え、金銀で帽子を飾る。


国内では白い衣装を着ていたが、国外に行く時には絹、刺繍、錦、毛織物の衣装を着ていました。大人とは、官職に就いていた者でしょう、狐狸、狖白、黑貂の裘を加え、金銀で帽子を飾って、着飾っていたことがわかります。


刑罰

・殺人は死罪。家族は奴碑にされる

・窃盗は盗んだ物の価値の12倍のものを賠償する

・男女の淫行、婦人の嫉妬は、死罪

・嫉妬を最も憎んでいて、処刑した後の屍を国の南の山上に持って行き、腐爛させる。女の実家が遺体を回収したい場合は、牛馬を提供すれば引き取れる。


殺人の死刑はわかるとして、淫行(不倫でしょうか?)、婦人の嫉妬が死刑というのは驚きです。しかも処刑した後の死体を山に晒して腐乱させるとは、かなり厳罰にしています。遺体を回収する時には、家畜を提供しないといけないとは・・・。提示された家畜を提供できない場合は、そのままということでしょうか?

こういった罰があると言うことは、死体を墓に葬らず、野ざらしにされていると言うことは、かなりの恥辱だったのでしょう。


名産

・名馬、赤玉、貂、狖、美珠



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夫餘は長城の北にあって、玄菟郡から千里の所にある。


玄菟郡は時代によって場所が違ってくるので、何処になるんだろうか?


・永初元年(107年)に遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡とし、遼東郡に隣接していた旧玄菟郡を廃止、高句麗による領有を許可した。郡治の高句麗県も移った(現在の遼寧省瀋陽)。

・後漢末、遼東太守の公孫度が隣接する旧玄菟郡西端部から高句麗を駆逐した。

・正始5年(244年)毌丘倹を派遣して高句麗を大いに打ち破り旧玄菟郡西部は魏の領有となる。


現在の遼寧省瀋陽から北に約77kmの所にあったようだ


南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接しており、北に弱水が有り、広さは二千里四方(約154km×154km)くらいで戸数は八万戸であった。

簡略したものだとこういった感じでしょうか。

山陵が多くて、湿地が広く、東夷の地域で最も平坦で広いからでしょうか、五穀を育てるのに適している。

ただ五果(桃・李・杏・棗・栗)は育たないとあります。


君王がいて、官名は動物の名前を使っていて、馬加、牛加、豬加、狗加、犬使、大使者、使者がある。

諸加とは馬加、牛加、豬加、狗加の官名で、地方長官、州牧のような感じでしょうか。数百家~数千家の地域を統治しています。その下の邑落に豪民がいて、下戸は皆奴僕としている。


上から順に


君王

馬加

牛加

豬加

狗加

犬使

大使者

使者

豪民

下戸


といった身分制度のようです。



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【原文】

夫餘在長城之北去玄菟千里南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接北有弱水方可二千里戶八萬其民土著有宮室倉庫牢獄。多山陵廣澤於東夷之域最平敞土地宜五穀不生五果其人麤大性彊勇謹厚不寇鈔國有君王皆以六畜名官有馬加牛加豬加狗加犬使大使者使者邑落有豪民名下戶皆爲奴僕諸加別主四出道大者主數千家小者數百家食飲皆用俎豆會同拜爵洗爵揖讓升降以殷正月祭天國中大會連日飲食歌舞名曰迎鼓於是時斷刑獄解囚徒在國衣尚白白布大袂袍褲履革鞜出國則尚繒繡錦罽大人加狐狸狖白黑貂之裘以金銀飾帽譯人傳辭皆跪手據地竊語用刑嚴急殺人者死沒其家人爲奴婢竊盜一責十二男女淫婦人妒皆殺之尤憎妬已殺尸之國南山上至腐爛女家欲得輸牛馬乃與之兄死妻嫂與匈奴同俗其國善養牲出名馬赤玉貂狖美珠珠大者如酸棗以弓矢刀矛爲兵家家自有鎧仗國之耆老自說古之亡人作城柵皆員有似牢獄行道晝夜無老幼皆歌通日聲不絕有軍事亦祭天殺牛觀蹄以占吉凶蹄解者爲凶合者爲吉有敵諸加自戰下戶俱擔糧飲食之其死夏月皆用冰殺人徇葬多者百數厚葬有槨無棺「魏畧曰其俗停喪五月以久爲榮其祭亡者有生有熟喪主不欲速而他人彊之常諍引以此爲節其居喪男女皆純白婦人著布面衣去環珮大體與中國相仿佛也」夫餘本屬玄菟漢末公孫度雄張海東威服外夷夫餘王尉仇台更屬遼東時句麗鮮卑強度以夫餘在二虜之間妻以宗女尉仇台死簡位居立無適子有孽子麻余位居死諸加共立麻余牛加兄子名位居爲大使輕財善施國人附之歲歲遣使詣京都貢獻正始中幽州刺史毌丘儉討句麗遣玄菟太守王頎詣夫餘位居遣大加郊迎供軍糧季父牛加有二心位居殺季父父子籍沒財物遣使簿斂送官舊夫餘俗水旱不調五穀不熟輒歸咎於王或言當易或言當殺麻余死其子依慮年六歲立以爲王漢時夫餘王葬用玉匣常豫以付玄菟郡王死則迎取以葬公孫淵伏誅玄菟庫猶有玉匣一具今夫餘庫有玉璧珪瓚數代之物傳世以爲寶耆老言先代之所賜也「魏畧曰其國殷富自先世以來未嘗破壞」其印文言濊王之印國有故城名濊城蓋本濊貊之地而夫餘王其中自謂亡人抑有似也「魏略曰舊志又言昔北方有稾高離之國者其王者侍婢有身王欲殺之婢云有氣如雞子來下我故有身後生子王捐之於溷中豬以喙噓之徙至馬閑馬以氣噓之不死王疑以爲天子也乃令其母收畜之名曰東明常令牧馬東明善射王恐奪其國也欲殺之東明走南至施掩水以弓擊水魚鱉浮爲橋東明得度魚鱉乃解散追兵不得渡東明因都王夫餘之地」


【書き下し文】


夫餘は長城の北に在り、玄菟を去ること千里、南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と接し、北に弱水有り、方は二千里ばかり。戸は八萬、其の民は土著し、宮室、倉庫、牢獄有り。山陵多く、澤廣く、東夷の域に於いて最も平らで敞い。土地は五穀に宜く、五果を生ぜず。其の人麤大にして、性は彊勇、謹厚にして、寇鈔せず。國に君王有り、皆六畜を以て官を名づく、馬加、牛加、豬加、狗加、犬使、大使者、使者有り。邑落に豪民有り、下戸と名づけて皆奴僕と為す。諸加別れて四出の主で、道の大なる者は數千家の主、小なる者は數百家。食飲に皆俎豆を用ひ、會同し、拜爵し、洗爵し、揖讓して升降す。殷の正月を以て天を祭り、國中大會し、連日飲食歌舞す、名づけて迎鼓と曰ふ、是の時に於いて、刑獄を斷ち、囚徒を解く。國、衣に白を尚み、白布大袂、袍、袴在り、革鞜を履く。國を出づるに則ち繒、繍、錦、罽を尚み、大人は狐狸、狖白、黑貂の裘を加え、金銀を以て帽を飾る。譯人の辭を傳ふるに、皆跪き、手は地に據りて語を竊かにす。刑を用ふるに嚴急、人を殺す者は死、其の家人を沒して奴婢と為す。竊盜すれば一を十二を責む。男女は淫し、婦人は妒すれば、皆之を殺す。尤も妬を憎み、殺し已はりた尸は國の南の山上に之き、腐爛に至る。女の家得んと欲せば、牛馬を輸せば乃ち之に與ふ。兄死すれば嫂を妻とす、匈奴と俗を同じくす。其の國善く牲を養ひ、名馬、赤玉、貂狖、美珠を出す。珠の大なる者は酸棗の如し。弓矢刀矛を以て兵と為し、家家に自ら鎧仗有り。國の耆老、自ら古への亡人と説く。城柵を皆員に作り、牢獄に似たる有り。道を行くに晝夜無く老幼皆歌ひ、日を通じて聲絶えず。軍事有り、亦た天を祭るに、牛を殺し蹄を觀るを以て吉凶を占い、蹄解く者は凶と為し、合ふ者は吉と為す。敵有れば、諸加は自ら戰い、下戸は倶に糧を擔ひ之を飲食す。其の死すれば、夏月に皆冰を用ふ。人を殺して徇葬し、多き者は百數ふ。厚く葬り、槨有るも棺無し。
「『魏略』に曰く。その俗は、喪を停すること五ヶ月、久しいことを以て榮えありと為す。その亡者を祭るには、生ものが有り熟ものも有る。喪主は速やかに欲せず、而して他人はこれを強い、常に諍いして引き、此を以て節を為す。その喪に居るは、男女は皆純白にして、婦人は布の面衣を著け、環珮を去る、大よそ礼は中国と相い彷彿する也。」
夫餘は本、玄菟に屬す。漢の末、公孫度海東に雄張し、外夷を威服す。夫餘王尉仇台、更に遼東に屬す。時に句麗、鮮卑彊く、度夫餘を以て二虜の間に在り、妻は宗女を以てす。尉仇台死し、簡位居立つ。適子無く、孽子麻餘有り。位居死し、諸加は麻余を共立す。牛加の兄の子、名は位居、大使と為り、財を輕んじ、善く施す、國人之に附く、歳歳使を遣はして京都に詣り貢獻す。正始中、幽州刺史母丘儉句麗を討ち、玄菟太守王頎を遣はして夫餘に詣る、位居大加を遣はして郊迎し、軍糧を供す。季父牛加に二心有り、位居、季父の父子を殺し、財物を籍沒し、使簿斂を遣はして官に送る。舊、夫餘の俗、水旱は調はず、五穀熟せざれば、輒ち咎を王に歸す、或いは當に易ふべしと言ひ、或いは當に殺すべしと言ふ。麻余死し、其の子依慮、年六歳、立てて以て王と為す。漢の時、夫餘王葬むるに玉匣を用ふ、常に豫め以て玄菟郡に付し、王死すれば則ち迎へ取りて以て葬る。公孫淵伏に誅し、玄菟の庫に猶ほ玉匣一具有り。今夫餘の庫に玉璧、珪、瓚數代の物有り、傳世して以て寶と為す、耆老先代の賜はる所なりと言ふ「『魏略』に曰く。其の国は殷富で、先世自り以來、未だ嘗て破壞無し。其の印の文に「濊王之印」と言ふ、國に故城有りて名は濊城、蓋し本、濊貊の地、而して夫餘王其の中なり、自ら「亡人」と謂ふ、抑も似て有るなり。「『魏略』に曰く。舊志は又言う、昔、北方に稾高離の国なる者有り、其の王者の侍婢が身ごもることが有り、王は之を殺さんと欲す。婢云う、「雞子に如た氣有り下って来て、我故に身ごもる」。後に子が生まれると、王は之を溷の中に捐てる、豬が喙で以て之に嘘く。馬閑に徙すに至り、馬が氣を以て之に嘘き、死なず。王天子也と為すを以て疑い、乃くその母にこれを収め畜わせた。名は東明と曰い、常に牧馬を令す。東明は善に射ち、王は其国を奪われるを恐れ、之を殺さんと欲す。東明は走り、南の施掩水に至り、弓を以て水を撃つ、魚や鱉が浮いて橋と為った。東明は渡ることを得て、魚や鱉は乃に解散し、追兵は渡り得なかった。東明因りて夫余の地に都して王となる。

【日本語訳】


夫餘は長城の北にあって、玄菟郡から千里の所にある、南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接しており、北に弱水が有り、広さは二千里四方くらいである。戸数は八万、その民は土着していて、宮殿、倉庫、牢獄がある。山陵が多くて、湿地が広く、東夷の地域で最も平坦で広い。土地は五穀を育てるのに良く、五果は生育しない。人々は大柄で、性格は強く勇敢で、つつしみ深く、まじめで温厚であり、寇鈔はしなかった。国に君王がいて、皆六畜の名を使って官名としている。馬加、牛加、豬加、狗加、犬使、大使者、使者がある。邑落に豪民がいて、下戸は皆奴僕としている。諸加は別れて四出の主で、道の大きな者は数千家の主、小さい者は数百家である。

飲食に皆俎と豆を使っている。集会では献杯や返杯をし、両手を胸の前で組み合わせて礼をして段を上ったり降りたりする。殷の正月を使って天を祭り、国中で集会をし、連日飲食し歌舞する。これを名づけて迎鼓と言う。この時には、刑獄を止めて、囚人を解放する。国は、白い衣を好み、白布大袂、袍、袴があって、革鞜を履く。国を出る時には絹、刺繍、錦、毛織物を好み、大人は狐狸、狖白、黑貂の裘を加え、金銀で帽子を飾る。通訳が言葉を伝える時は、皆跪き、手は地面につけて、ひっそりと話す。刑は非常に厳しく、殺人は死罪、その家人を没収して奴婢にする。窃盗すればその十二倍の責任を負う。男女の淫行、婦人の嫉妬は、死罪。最も嫉妬を憎んでいて、処刑した後の屍を国の南の山上に持って行き、腐爛させる。女の実家が遺体を回収したい場合は、牛馬を提供すれば引き取れる。兄が死んだら嫂を妻とするのは、匈奴と同じ習俗である。

その国は生贄に使う家畜を大事に養っていて、名馬、赤玉、貂、狖、美珠が名産である。珠の大きい物は酸棗くらいある。弓矢、刀、矛を使って兵としていて、家々には自らの鎧や仗が有る。国の古老、自ら昔の亡命者と説明をする。城柵を皆円にして作り、牢獄に似たような作りである。

道を行くと昼夜関係なく老人子供は皆歌っていて、一日を通じて声が絶えることはない。軍事行動や天を祭る時に、牛を殺して蹄を見ることで吉凶を占う。蹄が割れていれば凶とし、合わさっていればは吉とする。敵がいれば、諸加は自ら戦い、下戸は共に兵糧を担いでいき、これを飲食す。

死んだ時、夏には皆氷を使う。人を殺して徇葬し、多き者は百を数える。厚く葬り、槨は有るが棺は無い。
「『魏略』からの引用。その習俗は、喪を止めるまで五ヶ月、久しいことを栄えありとしていた。亡者を祭るには、なま物や熟れた物がある。喪主はすぐには欲しがらないが、これを強いて提供しようとする。常に言い争って引き、これを礼節としている。喪に服する時は、男女は皆純白の衣類を着ていて、婦人は布の面衣を使用し、環珮を付けない。おおよその礼は中国と同じような物である。」

夫餘は元々玄菟郡に属していた。漢の末に、公孫度が海東に勢力を広げ、外夷を威服させた。夫餘王の尉仇台は遼東に属した。時に高句麗や鮮卑が強く、公孫度は夫餘が両国の間に在ったので、宗女の娘を夫餘王の妻とした。尉仇台が死んで、簡位居が立った。嫡子は無く、庶子の麻餘がいた。簡位居が死んで、諸加は麻餘を共立した。牛加の兄の子で名は位居が大使となって、財を軽んじて、善く施しをしたので、国人は支持した。毎年京都に使者を送って貢献した。

正始中に幽州刺史母丘儉が高句麗を討った時に、玄菟太守の王頎を夫餘に派遣した。簡位居は大加を派遣して郊外で歓迎し、軍糧を提供した。末の叔父牛加に謀反を企てたので、簡位居は叔父とその子を殺して、財物を没収し、使・簿斂を遣わして官に送った。

昔の夫餘の習俗では、水害や干ばつのせいで、五穀が成長しなければ、王の責任とした。王を代えるべきと言ったり、殺すべきといったりした。

麻餘が死んで、その子依慮が六歳で王となった。漢の時、夫餘王を葬むる時に玉匣を用いていた。常にあらかじめ玄菟郡に預けていて、王が死んだ時に取りに行って葬った。公孫淵が滅ぼされた時、玄菟郡の倉庫にはまだ玉匣一具があった。今、夫餘の倉庫には玉璧、珪、瓚、数代の物が有る。代々伝えて宝としている。古老は先代の賜わった物だと言っている。「『魏略』からの引用。その国は殷富で、先世より以来、いまだもって破壊されていない。」その印の文は「濊王之印」と言う。、国に古い城があって名は濊城といい、もしかすると元々濊貊の地で、夫餘王は其の中にいたのだろう。自ら「亡命者」と言うのは、そもそもそういったものなのだろう。「『魏略』からの引用。旧志は更に言う、昔、北方の稾高離の国が有り、其の王の侍婢が身ごもった、王は殺そうとしたが、婢が「鶏の卵に似た気が天から降りてきて、それで私は身ごもった」と言った。後に子が生まれると、王は赤ん坊を厠の中に捨てた。猪が口から息を赤ん坊に吹いた。馬小屋の仕切りに移すと、馬が赤ん坊に息を吹きかけて、死ななかった。王は天の子ではないかと疑い、その母に育てさせた。名は東明といい、常に馬の面倒を見ていた。東明は弓射に長けていて、王は国を奪われるのを恐れて、彼を殺そうとした。東明は走り去って、南の施掩水に至った。弓で水を撃つと魚やすっぽんが浮いてきて橋となり、東明は渡ることができた。その後、魚やすっぽんはすぐに解散し、追兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫余の地に都を作って王となった。

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弱水・・・アムール川最大の支流で、松花江のこと。

五穀・・・五つの穀物のこと。解釈は古来より一定せず。麻・黍・稷・麦・豆 (周礼)、稲・黍・稷・麦・菽(孟子)、稲・稷・麦・豆・麻(楚辞)など。

五果・・・桃・李・杏・棗・栗

六畜・・・馬・牛・羊・鶏・犬・豚

俎豆・・・昔の中国の祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき。転じて、礼法。

會同・・・人の集まり、集会。

拜爵・・・献杯のこと。

洗爵・・・返杯のこと。

揖讓・・・うやうやしく拱手(両手を胸の前で組み合わせる)の礼をすること。

升降・・・上ったり降りたりすること。

繍・・・模様や文字を糸で縫い込むこと。

罽・・・毛織物。毛織りの絨毯。

狖白・・・はオナガザルの仲間か?「狖」は黒色オナガザルのこと。

黑貂・・・クロテンのこと。ロシア、中国、朝鮮半島、日本からヨーロッパ東部まで広く分布している。

酸棗・・・ナツメの一変種。中国北部に自生、薬用に栽植される。果実はナツメより小さく、肉が薄く酸味が強い。

槨・・・墓室内部の棺を保護するもの。木槨・石槨・粘土槨・礫槨・木炭槨などがある。

環珮・・・腰に付けた飾り玉。珮は腰にさげる装飾品。

公孫度・・・後漢末期の群雄。董卓より遼東太守に任じられた。襄平の名門をことごとく滅ぼし支配を固める一方で、高句麗や烏丸を討伐し功績を挙げ曹操に賞され、武威将軍・永寧郷侯の地位を与えられた。

正始中・・・魏の3代皇帝斉王・曹芳時代の元号。240年~249年

母丘儉・・・三国時代の魏の武将。荊州、幽州・豫州・揚州の刺史を歴任する。公孫淵征伐を図ったが攻めきれず撤退。翌年に司馬懿の指揮下で公孫淵を破る。244年に高句麗に遠征し打ち破る。

公孫淵・・・三国時代の武将、燕王。 228年に遼東太守の座を継いだ時に、魏・明帝から揚烈将軍の官位を与えられている。魏と通じつつ密かに呉とも通じるなど、巧みな外交を見せ、呉から燕王に任じられた。遼東の地で自立したが、魏の司馬懿によって追討され滅んだ。

珪・・・諸侯に封じる時に、天子が授ける玉。珪璧とも言う。

瓚・・・純度の60%くらいの玉、玉でできた酒を酌むための柄杓



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烏丸、鮮卑伝が終わり、東夷伝に行く前にその序文があります。

魏より前の東と西の異国について記載されています。


・舜~周の間に西から白環、東から粛慎の朝貢があった。

・張騫の調査や西域都護を置いたので、西域のことが詳細にわかった。

・魏は漢時代のように西域を全て支配できなかったが、その地域の大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、疏勒、月氏、鄯善、車師は毎年朝貢があった。

・公孫淵が父祖から三世に渡って遼東を支配していて、東夷の事は委ねられていた。そのため東夷との交流は断たれ、東夷から中国へ使者を送ることもなくなった。


公孫氏の遼東支配は、公孫淵の祖父公孫度が董卓から遼東太守に任じられた頃から始まります。

家系図は下記の通りです。数字は後を継いだ順番です。





景初2年(238年)に明帝に命じられた司馬懿が遠征し、公孫淵を滅ぼします。その前に楽浪郡、帯方郡に海から軍を派遣して占領します。燕の背後を取ると共に、服属していた東夷の国々への牽制もあったのでしょう。事実、東夷の国々は魏に服属します。


正始5年(244年)に高句麗は魏に反抗したため、毌丘倹が遠征し次々と撃破していきます。東の粛慎の領域まで追撃し、東の大海まで達しています。今のロシア沿海州と日本海です。

そこの長老が、「異面の人が東方にいる」と言っています。異面の人とはどういった人達でしょう?

粛慎の人達と異なる顔を持つ民族なのか、入れ墨や化粧などを顔にしている民族なのか、色々想像が広がります。長老がそう言ったということは、粛慎の人達が異面の人の国に行ったことがあるのか、異面の人達が粛慎にきていたのかわかりませんが、何らかの交流があったのでしょう。

粛慎の人達から見て東というと、樺太、北海道、東北くらいまででしょうか。倭人と何らかの関係があるかも知れませんが、この文章のみではなんともいえません。


遼東を魏が直接支配することで、東夷との交流が復活し、西域同様に様々な国の情報を入手し、詳しく記録していきます。それがこの東夷伝になります。史記や漢書、漢記などに記載されなかった情報をこの魏書で更新、追記していくと最後に締めくくっています。


次は夫餘伝を見ていきます。



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【原文】

書稱東漸於海西被於流沙其九服之制可得而言也然荒域之外重譯而至非足跡車軌所及未有知其國俗殊方者也自虞暨周西戎有白環之獻東夷有肅慎之貢皆曠世而至其遐遠也如此及漢氏遣張騫使西域窮河源經歷諸國遂置都護以總領之然後西域之事具存故史官得詳載焉魏興西域雖不能盡至其大國龜茲于寘康居烏孫疏勒月氏鄯善車師之屬無歲不奉朝貢畧如漢氏故事而公孫淵仍父祖三世有遼東天子爲其絕域委以海外之事遂隔斷東夷不得通於諸夏景初中大興師旅誅淵又潛軍浮海收樂浪帶方之郡而後海表謐然東夷屈服其後高句麗背叛又遣偏師致討窮追極遠踰烏丸骨都過沃沮踐肅慎之庭東臨大海長老說有異面之人近日之所出遂周觀諸國采其法俗小大區別各有名號可得詳紀雖夷狄之邦而俎豆之象存中國失禮求之四夷猶信故撰次其國列其同異以接前史之所未備焉


【書き下し文】

書は「東は海に於いて漸せられ、西は流沙に於いて被る」と稱す。其の九服の制、得て言ふべき也。然れども荒域の外、譯を重ねて至るも、足跡車軌の及ぶ所非ずして、未だ其の國俗殊方なるを知る者有らざる也。虞より周に暨ぶ、西戎に白環の獻有り、東夷に肅慎の貢有り。皆、曠世して至り、其の遐遠也る此くの如し。漢氏に及んで張騫を遣わし西域に使いし、河源窮まり諸國を經歷し、遂に都護を置き、以て之を總領す。然る後西域の事具さに存す、故に史官は詳載を得る。魏興り、西域は盡くに至り能はずと雖も、其の大國、龜茲、于寘、康居、烏孫、疏勒、月氏、鄯善、車師の屬、朝貢を奉らざる歲無く、畧漢氏の故事如し。而して公孫淵、父祖に仍り三世遼東に有り、天子其の絕域の爲に、以って海外の事を委ね、遂に東夷と隔斷し、諸夏に於いて通ずるを得ず。景初中、大いに師旅を興し、淵を誅す。又潛かに軍を海に浮かべ、樂浪帶方の郡を收め、而る後、海表は謐然し、東夷屈服す。其の後高句麗背叛し、又偏師を遣わして討を致し、極遠に窮追して、烏丸、骨都を踰え、沃沮を過ぎ、肅慎の庭を踐み、東大海を臨む。長老說くに異面の人有り、日の出づる所に近し。遂に諸國を周觀し、其の法俗を采り、小大區別すれば、各に名號有り、詳紀すること得るべし。夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失い、之を四夷に求めるは猶ほ信す。故に其の國を撰次して、其の同異を列し、以て前史の所未だ備へざるを接す。


【日本語訳】

尚書は「東は海に進み、西は沙漠におよぶ」と称した。九服の制がうまくいったと言うべきである。しかし、荒域の外は、通訳を重ねて行っても、足跡や車軌の及ばない所があり、今だその国の習俗、異なった土地を知る者はいなかった。虞から周までに、西戎から白環の貢献が、東夷から肅慎の貢献が有った。皆、久しい間に、そのはるか遠くであるのは以上のとおりである。

漢代に張騫を西域に使者として送り、河の源まできわめ、諸国を巡り歩いた。その後都護を置いて、その領域を支配した。その後西域の事をつぶさに尋ねていったので、史官は詳しく記載することができた。

魏が興り、西域はすべて支配することはできなかったが、その地域の大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、疏勒、月氏、鄯善、車師が、朝貢をしなかった年は無く、ほぼ漢代の故事のとおりである。

しかし公孫淵が父祖から三世に渡って遼東を支配していた。天子は遼東が遠く離れた地域であった為、海外の事は公孫氏に委ねた。そのため東夷との交流は断たれ、東夷から中国へ使者を送ることもなくなった。

景初中に、大規模な遠征を行い、公孫淵を滅ぼした。又、ひそかに軍を海から行軍させ、楽浪郡、帯方郡を接収した。その後、海表は静かになり、東夷は屈服した。

その後高句麗は背叛したので、一部隊を派遣して討伐し、かなり遠くまで追撃した。烏丸や骨都を越えて、沃沮を過ぎ、粛慎の庭を踏み、東に大海を臨んだ。長老が説明するには、異面の人がいて、日の出る所に近い。諸国をあまねく観察し、その法、習俗を採り、小大を区別したら、おのおのに名号が有ったので詳しく記載することができた。夷狄の邦とはいっても、俎豆の象は存在している。中国は礼を失っていて、これを四夷に求めるのは信用できる。そこでその国を撰定し順序立て、その同異を列ねて、前史で未だ備えていなかった所を補完する。


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書・・・尚書。政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集。また一部、春秋時代の諸侯のものもある。宋代以降は書経。

九服の制・・・周代に、1000里四方の王畿を中心に、その外500里ごとに一服として分けた九つの区域。侯服・甸服(でんぶく)・男服・采服・衛服・蛮服・夷服・鎮服・藩服の九つをいう。九畿。

虞・・・は中国神話に登場する君主、舜。五帝の一人。姓は姚、名は重華、虞氏と称した。儒家により神聖視され、堯と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。

肅慎・・・は満州、沿海州に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。

張騫・・・前漢代の政治家、外交官。武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。

龜茲・・・かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県付近にあたる。タリム盆地の北側、天山南路に位置した

于寘・・・シルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国、ホータン王国のこと。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。

康居・・・かつて中央アジアにあったとされる遊牧国家。大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現代のカザフスタン南部にあたる。

烏孫・・・紀元前161年から5世紀にかけて、イシク湖周辺(現代のキルギス)に存在した遊牧国家。

疏勒・・・かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。現代の新疆ウイグル自治区カシュガル地区カシュガル市にあたり、タリム盆地の西端に位置する。

月氏・・・紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。

鄯善・・・中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部に、かつて存在した都市、及びその都市を中心とした国家である。現代の新疆ウイグル自治区チャルクリク。「さまよえる湖」ロプノールの西岸に位置し、シルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって、交易により栄えた。別名楼蘭。

車師・・・かつて東トルキスタンに存在したオアシス都市国家。古くは姑師といい、漢代に車師前王国、車師後王国などに分かれ、シルクロード交易の要所として栄えた。

公孫淵・・・三国時代の武将、燕王。 228年に遼東太守の座を継いだ時に、魏・明帝から揚烈将軍の官位を与えられている。魏と通じつつ密かに呉とも通じるなど、巧みな外交を見せ、呉から燕王に任じられた。遼東の地で自立したが、魏の司馬懿によって追討され滅んだ。

景初中・・・237年~239年。

俎豆・・・昔の中国の祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき。転じて、礼法。




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