習俗


・夫餘と同様に、歌や舞を喜び、国中の邑落で夕暮から夜にかけて男女が集まって、互いに歌ったり遊んだりする。

・大きな倉庫は無い。各家に桴京という小さな倉がある。

・清潔好きで、蔵で酒を造るのを好んでいる。集会や祭りで使ったのだろう。

・夫餘と異なって、跪拜する時は片足を伸ばす。

・10月に東盟という祭りをする。衣服は皆錦、繡、金銀で自らを飾って、大加、主簿は幘、小加は折風をかぶる。隧神を迎えて、国の東の隧穴の上に還して祭り、木隧を神坐に置く。


・牢獄は無い

・有罪は諸加の評議で決まり、有罪者は死罪。妻子は没収され奴碑になる。

夫餘と同様に厳しい。有罪とは殺人だけであろうか?盗みも死罪となるとより厳しい。


結婚

・婚姻は言葉で取り決める

・結婚が決まると、妻の実家の母屋の裏に婿屋という小さな住居を作る。

・夫は夕暮れに妻の家の玄関に行き、名を名乗って、跪拜し妻と宿泊できるようにお願いをする。何度もお願いをすると、妻の父母は聞き入れて、婿屋の中で宿泊をし、傍に銭や帛を整える。

・子が産まれて、成長してから妻と夫の実家に帰る

烏丸、鮮卑もそうだが、結婚後は妻の実家で過ごすようである。期間はそれぞれ違っている。夫餘伝は特に記載は無かったが、同様と思われる。


葬儀

・結婚するとすぐに葬儀用の衣を作っていく。

・厚葬で金銀財幣を葬儀時に使い尽くす。

・石を積んで墓とし、周りに松や柏を並べて植える。


高句麗の馬は小型で登山に適している。山稜が多い地形に合った馬がいて、それを繁殖させたのだろう。隣接している沃沮や東濊は高句麗に服属している。


小水貊という国について触れている。西安平県の北に小水があり、高句麗の別種がそこに国を作った。貊弓という弓を生産している。大水とは鴨緑江と思われるので、小水とはその支流と考えられます。高句麗と遼東郡に周りを囲まれていた国と推測できる。



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地理


遼東郡から東に千里の所にある。玄菟郡とも多少は接していたのかもしれない。後の記述で玄菟郡に属していたとあるので。

国の広さは夫餘と同じだが、戸数は少ない(夫餘は8万、高句麗は3万)。

北は夫餘に接していて、挹婁と接していないので、夫餘の真南にあったと推測できる。

東は沃沮と、南は朝鮮(朝鮮半島北部地域)、濊貊と接している。

丸都の下に都があるとあるので、丸都は山か丘の名前なのだろうか。


位置関係を図にすると以下の通りになる



大きい山や深い谷が多く、平原や湿地が無く、耕作するには適していないので、収穫量は、十分ではない。夫餘と違って戸数が少ないのは、食糧事情や地理も関係している。


山や谷に沿って住居を作り、谷川の水を飲んでいる。山村のようなイメージだろうか。


習俗


収穫量が少ないのもあって、食は節約をしている。宮室を修理するのを好むのは、おそらく修理が終わった後、駄賃として食料が配布されるからだろう。食糧事情が悪いので、遼東郡や玄菟郡等に略奪しに行かざるを得なかったのが真相か。その略奪物を、宮室を修理後に配布していたと思われる。


家の左右に建物を建て、鬼神(高句麗人の信仰していた主神)を祭り、又霊星、社稷を祀っている。霊星はよくわからない。先祖と星々を合わせたようなものなのだろうか?それとも鬼神に従する神々か?


東夷の言い伝えでは、夫餘と同じ民族なので、言語、諸事の多くは夫餘と同じである。ただその気性、衣服は異なっている。住んでいる環境が違っているので、時代が進むにつれて気性や衣服は変わってきたのだろう。官は夫餘とは名称が違っている。

身分の高い人、低い人のなかでもそれぞれ階級がある。


五族(涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)があって、これが高句麗の支配者層を形成したと思われる。昔は涓奴部が王を出していたが、魏の時代には桂婁部が王を出している。絶奴部は代々王妃を出している。

王の宗族(桂婁部)で大加は皆、古雛加と称している。元々王となっていた涓奴部の正統な後継者も、古雛加を称することができる。王にはなれないが、王族に準じた扱いになっていて、宗廟を立てることも許されている。

絶奴部は代々の王と婚姻をし、加古雛と号している。古雛加の間違いだろうか?


官には相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人がある。對盧がいたら沛者は置かず、沛者がいたら對盧は置かない。

諸大加は使者と皁衣先人を置くことができ、王にその名前を報告している。集会時には王家の使者、皁衣先人と同列に座ることができない。


耕作をしない支配層は1万いる。(全戸数の三分の一)下戸は遠くから米糧や魚、塩を担いで、支配層に納めている。




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毌丘儉伝の高句麗征伐の所を見ていきます。


【原文】

青龍中帝圖討遼東以儉有幹策徙爲幽州刺史加度遼將軍使持節護烏丸校尉率幽州諸軍至襄平屯遼隧右北平烏丸單于寇婁敦遼西烏丸都督率衆王護留等昔隨袁尚奔遼東者率衆五千餘人降寇婁敦遣弟阿羅槃等詣闕朝貢封其渠率二十餘人爲侯王賜輿馬繒綵各有差公孫淵逆與儉戰不利引還明年帝遣太尉司馬宣王統中軍及儉等衆數萬討淵定遼東儉以功進封安邑侯食邑三千九百戸正始中儉以高句驪數侵叛督諸軍歩騎萬人出玄菟從諸道討之句驪王宮將歩騎二萬人進軍沸流水上大戰梁口梁音渇宮連破走儉遂束馬縣車以登丸都屠句驪所都斬獲首虜以千數句驪沛者名得來數諫宮臣松之按東夷傳沛者句驪國之官名宮不從其言得來歎曰立見此地將生蓬蒿遂不食而死舉國賢之儉令諸軍不壞其墓不伐其樹得其妻子皆放遣之宮單將妻子逃竄儉引軍還六年復征之宮遂奔買溝儉遣玄菟太守王頎追之世語曰頎字孔碩東萊人晉永嘉中大賊王禰頎之孫過沃沮千有餘里至肅慎氏南界刻石紀功刊丸都之山銘不耐之城諸所誅納八千餘口論功受賞侯者百餘人穿山漑灌民賴其利


【書き下し文】

青龍中、帝遼東討つと圖る。儉、幹策有るを以て、徙して幽州刺史と爲し、加えて度遼將軍使持節護烏丸校尉とす。幽州諸軍を率いて襄平に至り、遼隧に屯した。右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留等は昔、袁尚に隨い、遼東に奔げた者。衆五千餘人を率いて、寇婁敦降り、弟阿羅槃等を遣し闕に詣り朝貢す。其の渠率二十餘人を封じ、侯王と爲し、輿馬繒綵を賜い、各差有り。公孫淵逆し儉と戰い、利せず引還す。明年、帝太尉司馬宣王を遣って、中軍及儉等衆數萬を統いて淵を討つ。遼東定まり、儉功を以て進んで安邑侯に封じ、食邑三千九百戸とす。

正始中、儉高句驪數侵叛するを以て、諸軍歩騎萬人を督し玄菟を出て、諸道從り之を討つ。句驪王宮歩騎二萬人將いて、沸流水の上に進軍し、大いに梁口「梁の音は渇」で戰い、宮は連破し走る。儉遂に馬を束ね車を縣ね、丸都を登るを以て、句驪の都する所を屠る。斬獲首虜千を以て數う。句驪の沛者、名を得來、數宮を諫む。「臣松之東夷傳按べて、沛者は句驪國の官名」宮其の言に從ず、得來歎いて曰う。立って見ると此の地、將に蓬蒿生えんとす。遂に食さず、而くて死す。國を舉げて、これを賢とす。儉諸軍に令し、其の墓壞さず、其の樹伐さず、其の妻子得る皆之を遣わし放つ。宮單し妻子將いて逃竄す。儉軍を引いて還える。

六年復たこれを征し、宮遂に買溝に奔る。儉、玄菟太守王頎遣わし之を追わす。「世語曰う、頎字は孔碩、東萊の人。晉の永嘉中大賊の王禰は頎の孫。」沃沮過ぎ千有餘里、肅慎氏の南界に至り、石に紀功を刻み、丸都の山に刊み、不耐の城と銘す。諸の誅や納する所八千餘口、論功の受賞で侯なる者百餘人。山を穿ち漑灌し民其の利を賴た。


【日本語訳】

青龍中に明帝は遼東を討とうと図った。毌丘儉は才能や策略が有るとして、荊州刺史から幽州刺史として、加えて度遼将軍使持節護烏丸校尉とした。幽州諸軍を率いて襄平に行き、遼隧に駐屯した。右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留らは昔、袁尚に従っていて、遼東に逃げてきた者である。軍五千余人を率いて、寇婁敦が降ってきた。弟の阿羅槃らを遣して宮殿に詣らせて朝貢した。その渠率二十余人は侯王に封じられ、輿、馬、繒綵を賜わった。各々差が有った。公孫淵は迎撃し、毌丘儉と戦ったが勝利できずに引き返した。翌年、明帝は太尉司馬懿を派遣して、中軍及び毌丘儉ら軍数万人を率いて、公孫淵を討った。遼東は平定され、毌丘儉は功により、進んで安邑侯に封じられ、食邑三千九百戸となった。

正始中、毌丘儉は高句驪がしばしば侵叛していたので、諸軍歩騎万人をせき立てるように玄菟郡を出て、諸道は従って高句驪を討った。高句驪王宮は歩騎二万人を率いて、沸流水のほとりに進軍し、大いに梁口「梁の音は渇である」で戦い、宮は連敗し逃げた。毌丘儉は遂に馬を束ね、車を連ねて丸都を登り、高句驪の都を攻め滅ぼした。斬った首や捕虜は千を数えた。高句驪の沛者、名は得來はしばしば宮を諫めた。「臣松之、東夷傳を調べて沛者は句驪國の官名であった」宮は諫言に耳を貸さなかった。得來は嘆いて言った。「立って見ているこの地、まさに草ぼうぼうの野原と化すだろう。」遂に食事をしないようになり、そして死んだ。国を挙げて、これを賢人とした。毌丘儉諸軍に命令を出し、得來の墓壞さず、そこに植えられている樹を伐採せず、彼の妻子を捕らえた場合は解き放つようにと。宮は単独で妻子を連れれて逃げ隠れた。毌丘儉は軍を引いて帰還した。

正始六年また高句驪を征伐し、宮は遂に買溝に逃げた。毌丘儉は玄菟太守王頎を派遣し宮を追討させた。「世語の注釈、王頎、字は孔碩で東萊の人。晋の永嘉中の大賊の王禰は王頎の孫である。」沃沮を過ぎて千有余里、肅慎氏の南界に至って、石に功績を刻み、丸都の山に刊み、不耐の城と銘した。罪人を処刑したり、収納する者八千余口、論功の受賞で侯になった者百余人いた。山にトンネルを掘って漑灌し、民はその利益を得ることができた。

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青龍中・・・233~237年


襄平・・・現在の遼寧省遼陽市中心部


正始中・・・240~249


正始六年・・・245年


世語・・・魏晋世語。西晋の郭頒撰と言われる



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【原文】

高句麗在遼東之東千里南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接都於丸都之下方可二千里戶三萬多大山深谷無原澤隨山谷以爲居食澗水無良田雖力佃作不足以實口腹其俗節食好治宮室於所居之左右立大屋祭鬼神又祀靈星社稷其人性凶急善寇鈔其國有王其官有相加對盧沛者古雛加主簿優台丞使者皁衣先人尊卑各有等級東夷舊語以爲夫餘別種言語諸事多與夫餘同其性氣衣服有異本有五族有涓奴部絕奴部順奴部灌奴部桂婁部本涓奴部爲王稍微弱今桂婁部代之漢時賜鼓吹技人常從玄菟郡受朝服衣幘高句麗令主其名籍後稍驕恣不復詣郡於東界築小城置朝服衣幘其中歲時來取之今胡猶名此城爲幘溝漊溝漊者句麗名城也其置官有對盧則不置沛者有沛者則不置對盧王之宗族其大加皆稱古雛加涓奴部本國主今雖不爲王適統大人得稱古雛加亦得立宗廟祠靈星社稷絕奴部世與王婚加古雛之號諸大加亦自置使者皁衣先人名皆達於王如卿大夫之家臣會同坐起不得與王家使者皁衣先人同列其國中大家不佃作坐食者萬餘口下戶遠擔米糧魚鹽供給之其民喜歌舞國中邑落暮夜男女羣聚相就歌戲無大倉庫家家自有小倉名之爲桴京其人絜清自喜喜藏釀跪拜申一脚與夫餘異行步皆走以十月祭天國中大會名曰東盟其公會衣服皆錦繡金銀以自飾大加主簿頭著幘如幘而無後其小加著折風形如弁其國東有大穴名隧穴十月國中大會迎隧神還於國東上祭之置木隧於神坐無牢獄有罪諸加評議便殺之沒入妻子爲奴婢其俗作婚姻言語已定女家作小屋於大屋後名婿屋婿暮至女家戶外自名跪拜乞得就女宿如是者再三女父母乃聽使就小屋中宿傍頓錢帛至生子已長大乃將婦歸家其俗淫男女已嫁娶便稍作送終之衣厚葬金銀財幣盡於送死積石爲封列種松柏其馬皆小便登山國人有氣力習戰鬭沃沮東濊皆屬焉又有小水貊句麗作國依大水而居西安平縣北有小水南流入海句麗別種依小水作國因名之爲小水貊出好弓所謂貊弓是也王莽初發高句麗兵以伐胡不欲行彊廹遣之皆亡出塞爲寇盜遼西大尹田譚追擊之爲所殺州郡縣歸咎於句麗侯騊嚴尤奏言貊人犯法罪不起於騊且宜安慰今猥被之大罪恐其遂反莽不聽詔尤擊之尤誘期句麗侯騊至而斬之傳送其首詣長安莽大悅布告天下更名高句麗爲下句麗當此時爲侯國漢光武帝八年高句麗王遣使朝貢始見稱王至殤安之間句麗王宮數寇遼東更屬玄菟遼東太守蔡風玄菟太守姚光以宮爲二郡害興師伐之宮詐降請和二郡不進宮密遣軍攻玄菟焚燒候城入遼隧殺吏民後宮復犯遼東蔡風輕將吏士追討之軍敗沒宮死子伯固立順桓之間復犯遼東寇新安居鄉又攻西安平於道上殺帶方令畧得樂浪太守妻子靈帝建寧二年玄菟太守耿臨討之斬首虜數百級伯固降屬遼東嘉平中伯固乞屬玄菟公孫度之雄海東也伯固遣大加優居主簿然人等助度擊富山賊破之伯固死有二子長子拔奇小子伊夷模拔奇不肖國人便共立伊夷模爲王自伯固時數寇遼東又受亡胡五百餘家建安中公孫康出軍擊之破其國焚燒邑落拔奇怨爲兄而不得立與涓奴加各將下戶三萬餘口詣康降還住沸流水降胡亦叛伊夷模伊夷模更作新國今日所在是也拔奇遂往遼東有子留句麗國今古雛加駮位居是也其後復擊玄菟玄菟與遼東合擊大破之伊夷模無子淫灌奴部生子名位宮伊夷模死立以爲王今句麗王宮是也其曾祖名宮生能開目視其國人惡之及長大果凶虐數寇鈔國見殘破今王生墮地亦能開目視人句麗呼相似爲位似其祖故名之爲位宮位宮有力勇便鞍馬善獵射景初二年太尉司馬宣王率衆討公孫淵宮遣主簿大加將數千人助軍正始三年宮寇西安平其五年爲幽州刺吏毌丘儉所破語在儉傳


【書き下し文】

高句麗は遼東の東千里に在り、南は朝鮮、濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接する。都は丸都の下に於いて、方二千里ばかり、戶は三萬、大山、深谷多く原や澤無し。山谷に隨るを以て居と爲し、澗水を食す。良田無し、佃作に力めると雖も、口腹を實たすを以て足さず。其の俗は食を節し、宮室を治すを好む。居する所に於いて、この左右に大屋を立て、鬼神を祭り、又靈星、社稷を祀る。其の人性は凶急で善く寇鈔す。其の國王有り、其の官相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人有る。尊卑は各等級有り、東夷の舊語に以て夫餘別種と爲し、言語、諸事多く夫餘と同じ。其の性氣、衣服は異有り。
本は五族有り、涓奴部、絕奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部有り。本は涓奴部が王と爲し、稍し微弱となる。今、桂婁部之に代わる。漢の時、鼓吹、技人賜り、常に玄菟郡に從い、朝服、衣幘を受け、高句麗令が其の名籍を主した。後に稍し驕恣し復た郡に詣らず、東界に於いて、小城を築き、朝服、衣幘を其の中に置き、歲時に來て之を取る。今胡は猶お此の城の名を幘溝漊と爲す。溝漊は句麗の者で城の名也。其の官を置き、對盧有り則ち沛者を置かず、沛者有り、則ち對盧を置かず。王の宗族、其の大加は皆、古雛加と稱す。涓奴部、本は國主。今、王爲らずと雖も、適統の大人は古雛加を稱すを得る。亦、宗廟を立て、靈星、社稷を祠るを得る。絕奴部、世に王と婚し、加古雛と號す。諸大加亦自ら使者、皁衣先人を置き、名を皆王に於いて達し、卿大夫の如く、この家臣會同起く、坐すこと王家の使者、皁衣先人と同列を得ず。其の國中大家は佃作らず、坐して食す者萬餘口、下戶遠く米糧、魚鹽を擔いで、之を供給す。
其の民歌舞を喜び、國中の邑落、暮夜男女羣れ聚い、相い歌戲就く。大倉庫無く、家家自ら小倉有り、この名を桴京と爲す。其の人、絜清を自らの喜とし、藏で釀すを喜む。跪拜、一脚を申し、夫餘と異なる。皆走るを以て步き行く。十月に天を祭り、國中大會す。名は東盟と曰う。其の公會、衣服は皆錦繡金銀で以て自ら飾る。大加、主簿は頭に幘を著る。幘の如く後の其れ無し。小加は折風を著る。形は弁の如し。其の國の東大穴有り。名は隧穴。十月國中大會し、隧神を迎え、國の東上に於いて還して之を祭り、木隧を神坐に於いて置く。牢獄は無く、有罪は諸加の評議で便に之を殺し、妻子を沒入し、奴婢と爲す。其の俗は婚姻は言語で作り已に定むと、女家は大屋の後に於いて小屋を作り、名を婿屋とし、婿は暮に女家の戶外に至り、自ら名し跪拜し女と宿に就くことができるように乞う。是の者の如く、再三女の父母乃ち聽き使い、小屋の中で宿に就く。傍で錢帛を頓え、子、産まれるに至り、已に長大す、乃ち婦を將いて家に歸る。其の俗、淫。男女已に嫁娶す便ち送終の衣を作り稍す。厚葬で金銀財幣を死を送るに於いて盡くす。石を積み、封じるを爲し、松柏を列して種える。其の馬皆小さく登山に便す。國人は氣力有り、戰鬭に習し、沃沮や東濊は皆これに屬す。又小水貊有り。句麗、國を作るに大水に依って居す。西安平縣の北に小水有り、南流して海に入る。句麗の別種、小水に依り國を作り、因って之の名を小水貊と爲す。好い弓を出し、所謂る貊弓は是也。
王莽は初め高句麗兵を發し以て胡を伐す。行こうと欲さず、彊廹し之を遣す。皆塞を出て亡く、寇盜を爲す。遼西大尹・田譚は之を追擊し、殺される所と爲す。州郡縣は句麗侯騊に於いて咎を歸す。嚴尤奏して言う。貊人法を犯す、罪は騊に於いて起こさず。且ず宜しく安慰す。今猥りに之の大罪を被す、恐らく其れ遂に反く。莽は聽かず、詔で尤に、之を擊たす。尤、句麗侯騊を期で誘い、至って之を斬す。其首を傳送し長安に詣らす。莽大いに悅び、天下に布告し、名を高句麗から更え、下句麗と爲す。當に此時、侯國と爲す。漢光武帝八年、高句麗王は遣使し朝貢す。始めて王と稱すを見る。
殤安の間に至り、句麗王宮、數遼東に寇す。更ち玄菟に屬す。遼東太守蔡風、玄菟太守姚光、宮を以て二郡の害と爲し、師を興して之を伐す。宮詐って降り和を請う。二郡進めず。宮密に軍を遣わし玄菟を攻め、候城を焚燒し、遼隧に入り吏民殺す。後に宮復た遼東を犯す、蔡風輕く吏士を將いて之を追討するも軍敗れ沒す。宮死して子の伯固立つ。順桓の間、復た遼東を犯し、新安、居鄉に寇し、又西安平を攻め、道上に於いて帶方令を殺し、畧して樂浪太守の妻子を得る。
靈帝の建寧二年、玄菟太守耿臨が之を討ち、虜數百級を斬首し、伯固は降り遼東に屬す。嘉平中、伯固は乞うて玄菟に屬す。公孫度、之海東の雄也。伯固、大加の優居、主簿の然人等を遣って、度を助け、富山賊を擊ち、之を破る。伯固死して、二子有り。長子は拔奇、小子は伊夷模。拔奇は不肖で國人は便ち伊夷模を共立し、王と爲す。伯固の時より、數遼東に寇し、又、亡胡五百餘家を受ける。建安中、公孫康軍を出して之を擊ち、其の國を破り、邑落を焚燒す。拔奇は兄なのに立て得なかった爲怨み、涓奴の加と與に各下戶三萬餘口を將いて康に詣って降り、還って沸流水に住む。降胡も亦伊夷模に叛き、伊夷模更ち新國を作る。今日の所在が是也。拔奇遂に遼東に往す。子有り句麗國に留まり、今の古雛加、駮位居が是也。其の後復た玄菟を擊ち、玄菟と遼東合擊し之を大破す。
伊夷模は子無し。灌奴部と淫し、子生まれる。名は位宮。伊夷模死して立ち、以て王と爲す。今、句麗王の宮是也。其の曾祖名は宮。生まれて能く目を開け視る。其の國人は之を惡んだ。長大するに及び、果たして凶虐、數寇鈔し、國の殘破を見る。今の王、地に生まれ墮ち亦能く目を開け人を視る。句麗では相似を呼んで位と爲す。其の祖と似る故、之の名を位宮と爲す。位宮力、勇有り、便ち鞍馬し善く獵射す。景初二年、太尉司馬宣王、衆を率い公孫淵討つ、宮は主簿の大加遣わし、數千人將い郡を助ける。正始三年、宮は西安平寇し、其の五年幽州刺吏毌丘儉に破れる所と爲す。語は儉傳に在り。


【日本語訳】

高句麗は遼東の東千里にあって、南は朝鮮、濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接している。都は丸都の下にあって、方二千里ばかり、戸は三万。大山、深谷が多く平原や湿地が無い。山や谷に沿って住居を作り、谷川の水を飲んでいる。良田は無く、耕作に力をいれても、腹を満たすには足らない。

その習俗は食を節約し、宮室を修理するのを好む。居住している所の左右に大屋を立てて、鬼神を祭り、又霊星、社稷を祀っている。その性格はかたくなで悪く、よく寇鈔をする。その国には王がいて、官には相加、對盧、沛者、古雛加、主簿、優台丞、使者、皁衣先人がある。尊卑のそれぞれに等級が有り、東夷の旧語に夫餘と別種とあり、言語、諸事の多くは夫餘と同じである。その気性、衣服は異なっている。
元々五族が有って、涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部という。昔は涓奴部が王となっていたが、次第に勢力が弱くなった。今は桂婁部が代わって王になっている。

漢の時に、鼓吹、技人賜り、常に玄菟郡に従って、朝服、衣幘を受けて、高句麗令がその名籍をつかさどった。後に次第に驕恣して郡に詣ることがなくなり、東の国境に小城を築いた。朝服や衣幘を小城の中に置いて、歳時が来るとこれを取りにきた。今高句麗はこの城の名を幘溝漊と呼んでいる。溝漊は高句麗の言葉で城の意味である。

官を置き方で、對盧がいる時は沛者を置かない、沛者がいる時は對盧を置かないことになっている。王の宗族で大加は皆、古雛加と称している。涓奴部は元々国主であった。今は王ではないといっても、正統な大人は古雛加を称することができる。また、宗廟を立てて、霊星、社稷を祠ることもできる。絶奴部は代々の王と婚姻をし、加古雛と号した。

諸大加は自ら使者と皁衣先人を置き、名を皆王に知らせており、中国の卿大夫のようにである。この家臣は集会時に、王家の使者、皁衣先人と同列に座ることができない。大家は耕作をせずに、座って食べる者は万余口いて、下戸は遠くから米糧や魚、塩を担いで、大家に供給している。
民は歌や舞を喜び、国中の邑落で夕暮から夜にかけて男女が集まって、互いに歌ったり遊んだりする。大倉庫は無く、家々には自分用の小倉がある。この小倉の名を桴京と言っている。

人々は清潔を自らの喜びとし、蔵で酒を作るのを好んでいる。跪拜する時は片足を伸ばし、夫餘と異なっている。皆走るように歩いている。十月に天を祭り、国中で集会をする。名は東盟と言っている。その公会では、衣服は皆錦、繡、金銀で自らを飾っている。大加、主簿は頭に幘をかぶる。それは幘のようであるが、後の布が無い。小加は折風をかぶる。形は花びらのようである。その国の東に大穴が有って、名は隧穴という。十月国中集会する時に、隧神を迎えて、国の東の上に還してこれを祭り、木隧を神坐に置く。

牢獄は無く、有罪は諸加の評議ですぐに有罪者を殺し、妻子を没収して、奴婢とする。その習俗は婚姻は言葉で定め、それが決まると、女の家は大屋の後に小屋を作る。名を婿屋といい、婿は夕暮れに女の家の玄関に行き、自ら名を名乗り、跪拜し女と宿泊できるようにお願いをする。何度もお願いをして、女の父母は聞き入れて、小屋の中で宿泊をし、傍に銭や帛を整える。子が産まれて、成長してから妻と家に帰る。その習俗は淫らである。男女が結婚するとすぐに死後の衣を作っていく。厚葬で金銀財幣を死を送る時に使い尽くす。石を積んで封じており、松や柏を並べて植える。

その馬は皆小さく登山に適している。国人は気力有り、戦闘に慣れていて、沃沮や東濊は高句麗に属している。又小水貊がいる。高句麗が国を作るのに大水に沿って住んでいた。西安平県の北に小水有って、南に流れて海に入る。高句麗の別種が小水に沿って国を作ったので、名を小水貊とした。いい弓を生産していて、いわゆる貊弓はこれである。
王莽は最初、高句麗から兵を徴発して胡を征伐しようとした。しかし高句麗兵は行こうとせず、強迫して活かせた。しかし皆塞を出てから逃亡し、盗賊となった。遼西大尹の田譚はこれを追撃したが、殺されてしまい、州郡県は高句麗侯騊の咎にした。厳尤は奏して言った。「貊人法を犯した。罪は騊の起因ではない。まず安慰したほうがよろしいでしょう。今みだりにこの罪をかぶせると、恐らく反乱を起こします。」王莽はは奏上を聞かず、詔でもって厳尤に、騊を討つように命じた。厳尤は高句麗侯騊を期日を決めて誘い出し、騊を斬った。彼の首を伝送して長安に送った。王莽は大いに悦んで、天下に布告し、名を高句麗から下句麗とした。まさにこの時、侯国になった。漢の光武帝八年に高句麗王は遣使して朝貢した。始めて王と称したのはこのときである。
殤帝と安帝の間になって、高句麗王宮はしばしば遼東郡に寇した。あらためて玄菟郡に属した。遼東太守蔡風、玄菟太守姚光、宮が二郡の害をなしてるとし、軍を興してこれを征伐する。宮は偽って降伏し和を請うたので、二郡の軍は進めなかった。宮は密かに軍を派遣して玄菟郡を攻めて、候城を焼き討ちにして、遼隧に入って官吏や民衆を殺した。後に宮はまた遼東に侵攻してきた。蔡風は軽く考え、吏士を率いて追討するが、軍は敗れて戦死した。宮が死ぬと子の伯固が後を継いだ。

順帝と桓帝の間、また遼東を侵攻してきて、新安、居郷を寇した。又西安平を攻めて、道上で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を略奪した。
霊帝の建寧二年、玄菟太守耿臨が高句麗を討ち、捕虜数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。熹平中、伯固は願い出て玄菟郡に属した。公孫度が海東の雄であるとして、伯固は大加の優居、主簿の然人等を遣して、公孫度を助けて、富山賊と戦って、これを破った。

伯固が死んで、二子がいた。長子は拔奇、次子は伊夷模という。拔奇は不肖で国人はすぐに伊夷模を共立して、王となった。伯固の時より、しばしば遼東に寇して、又、亡胡の五百余家を受け入れた。建安中、公孫康は軍を出して高句麗を擊ち、国を破って、邑落を焼き討ちした。拔奇は兄なのに王に立てられなかったのを怨んでたので、涓奴部の加と共に各下戸三万余口を率いて公孫康に詣って降った。還って沸流水のほとりに住んだ。降った胡もまた、伊夷模に叛いたので、伊夷模改めて新国を作る。今日の所在がこれである。拔奇は遼東に往んだが、子は高句麗国に留まり、今の古雛加の駮位居がそうである。その後また玄菟郡を攻めてきたが、玄菟郡と遼東郡は合同で戦い、これを大破した。
伊夷模は子はいなかった。灌奴部の女と通じて、子が生まれる。名は位宮といい、伊夷模が死後、王となった。今の高句麗王の宮がそうである。その曽祖父も名は宮。生まれてすぐ目を開けて見る。高句麗人はこれを嫌った。成長すると、凶暴残虐になり、しばしば寇鈔して、国が壊れるのを見ることになった。今の王は生まれてから又すぐ目を開けて人を見る。高句麗では相似を位としている。その先祖と似ているので、名を位宮とした。位宮は力、勇が有り、馬を良くあやつり、狩猟で弓矢を使っていた。景初二年、太尉の司馬懿が軍を率いて公孫淵討った。宮は主簿の大加遣わして、数千人率いて助けた。正始三年、宮は西安平県を寇した。正始五年に幽州刺吏毌丘儉に破れた。その事は毌丘儉伝に記載がある。


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卿大夫・・・周時代の貴族階級の官称。大夫は諸侯の一族や功臣が任命され、卿は大夫中の有力者が任命された。



幘・・・中国で、髻を覆い隠し、髪を包むのにつけた頭巾



西安平県・・・遼東郡に属している県。現在の遼寧省丹東市付近


殤安の間・・・106~107年


順桓の間・・・144~146年


建寧二年・・・169年


熹平中・・・172~178年


亡胡・・・匈奴のことか


建安中・・・196~220年


沸流水・・・遼河の支流の渾河か


景初二年・・・238年


正始三年・・・242年




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夫餘の歴史


・夫餘は元々玄菟郡に属していた。

・189年以降、公孫度が海東に勢力を広げ、外夷(夫餘、高句麗等)を威服させ、遼東郡に属させた。

・その当時の夫餘王は尉仇台であった。公孫度の宗女を妻にした。

・夫餘よりも高句麗、鮮卑の方が勢力が上であった。

・尉仇台の死後、簡位居が王となる。


尉仇台と簡位居の血縁関係が書いていないので、血のつながりがなかったのであろうか。王になれる家系が複数あったかもしれない。


・簡位居の死後、諸加は庶子の麻餘を共立した


嫡子では無い場合は、諸加が共立しないと王になれなかったのか、王になるためには諸加が共立が必要だったのかどちらかだろう。ただ、簡位居の場合、共立に関しての記述が無いので、前者の考えが有力かもしれない。


・大使の位居(当時の牛加の兄の子)がお金を使って施す政策を取り、民は支持した

・毎年京都に使者を送って貢献した。


公孫淵を滅ぼした後に、東夷の国々との交流が復活したので、その後の話でしょう。ということは、この京都は洛陽になる。


・正始中に幽州刺史母丘儉が高句麗を討った時に、玄菟太守の王頎を夫餘に派遣した。簡位居は大加を派遣して郊外で歓迎し、軍糧を提供した。

・末の叔父牛加に謀反を企てたので、簡位居は叔父とその子を殺して、財物を没収し、使・簿斂を遣わして官に送った。


時代が少し前に戻り、母丘儉が高句麗を討った時に簡位居は軍糧を提供し、魏に協力をしている。

末の叔父牛加(名は不明)とその子を謀反の罪で殺害し、財物を没収した。


夫餘は鮮卑、烏丸、高句麗と違って、攻めてきて略奪や殺戮をしなかったので、中国にとって脅威では無かった。燕滅亡後は毎年朝貢していて、高句麗征伐の時のように協力を得られる機会が多かったのだろう。


・昔の夫餘の習俗では、水害や干ばつのせいで、五穀が成長しなければ、王の責任とした。王を代えるべきと言ったり、殺すべきといったりした。


これは現在(魏の時代)ではしていないということでしょう。これは夫餘だけでは無く、世界的に昔はこういった習俗はよくありました。


・麻餘が死んで、その子依慮が六歳で王となった。


漢末から魏の夫餘王は下記のようになる

尉仇台--簡位居--麻餘--依慮


・漢の時、夫餘王を葬むる時に玉匣を用いていた。常にあらかじめ玄菟郡に預けていて、王が死んだ時に取りに行って葬った。

・公孫淵が滅ぼされた時、玄菟郡の倉庫にはまだ玉匣一具があった。

・夫餘の倉庫には玉璧、珪、瓚、数代の物が有る。代々伝えて宝としている。古老は先代の賜わった物だと言っている。その印の文は「濊王之印」と言う。

・国に古い城があって名は濊城といい、もしかすると元々濊貊の地で、夫餘王は其の中にいたのだろう。自ら「亡命者」と言うのは、そもそもそういったものなのだろう


民は棺を使わなかったが、王を葬る時には玉匣を使っていた。玄菟郡に預けていて、公孫淵が滅亡した時にも倉庫にあった。これは玉匣を作った後に、玄菟郡に預けたのでしょう。使い回しをするものではないので。

夫餘の倉庫には先祖代々、漢や魏から賜った物が保管されており、魏略によるとその倉庫も含めて未だ壊されたことは無いとあります。印も有り「濊王之印」と彫られています。

濊王之印は前漢・武帝時代の元朔3年(紀元前126年)に濊族の首長に与えています。300年以上大事に保存されていたのか、漢、新、魏から新しい物をもらっていたかわかりません。

濊城という古い城があり、名前から推測したのでしょう、元々濊貊の地で、夫餘王はその中にいた。亡命者というのは、濊貊の地から現在の地に逃げてきたのではないかという陳寿の考えです。


魏略からの引用で、夫餘の建国王の話を紹介しています。

・昔、北方に稾高離の国が有り、その王の侍婢が妊娠した。

・王は侍婢を殺そうとしたが、侍婢は「鶏の卵に似た気が天から降りてきて、妊娠した」といい、許される

・王は生まれてきた子を厠や馬小屋に捨てるも、動物たちが息を吹きかけて赤ん坊を守る。王は天の子ではないかと思い、母である侍婢に育てさせる。

・名は東明。馬の面倒を見ていて、弓の扱いが上手かった。

・王は国を奪われるのでは無いかと恐れ、殺そうとする。

・東明は逃げて、南の施掩水に行く。橋が無いので、弓を川面に射ると、魚やすっぽんが出てきて橋を作り、対岸へと行くことができた。その後魚とすっぽんは川の中に戻り、兵は追って来られなかった。

・夫餘の地へたどり着き、国を作った。


この建国話では、まったく濊族とは関係がないです。濊族を吸収した時に、当時の濊王から譲られたのか、それとも東明が国を作った時に濊族の協力があったか。いずれにせよ、印を大事にしていたということは、うばったものではなかったのでしょう。


次は高句麗伝を見ていきます




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