夫餘の歴史
・夫餘は元々玄菟郡に属していた。
・189年以降、公孫度が海東に勢力を広げ、外夷(夫餘、高句麗等)を威服させ、遼東郡に属させた。
・その当時の夫餘王は尉仇台であった。公孫度の宗女を妻にした。
・夫餘よりも高句麗、鮮卑の方が勢力が上であった。
・尉仇台の死後、簡位居が王となる。
尉仇台と簡位居の血縁関係が書いていないので、血のつながりがなかったのであろうか。王になれる家系が複数あったかもしれない。
・簡位居の死後、諸加は庶子の麻餘を共立した
嫡子では無い場合は、諸加が共立しないと王になれなかったのか、王になるためには諸加が共立が必要だったのかどちらかだろう。ただ、簡位居の場合、共立に関しての記述が無いので、前者の考えが有力かもしれない。
・大使の位居(当時の牛加の兄の子)がお金を使って施す政策を取り、民は支持した
・毎年京都に使者を送って貢献した。
公孫淵を滅ぼした後に、東夷の国々との交流が復活したので、その後の話でしょう。ということは、この京都は洛陽になる。
・正始中に幽州刺史母丘儉が高句麗を討った時に、玄菟太守の王頎を夫餘に派遣した。簡位居は大加を派遣して郊外で歓迎し、軍糧を提供した。
・末の叔父牛加に謀反を企てたので、簡位居は叔父とその子を殺して、財物を没収し、使・簿斂を遣わして官に送った。
時代が少し前に戻り、母丘儉が高句麗を討った時に簡位居は軍糧を提供し、魏に協力をしている。
末の叔父牛加(名は不明)とその子を謀反の罪で殺害し、財物を没収した。
夫餘は鮮卑、烏丸、高句麗と違って、攻めてきて略奪や殺戮をしなかったので、中国にとって脅威では無かった。燕滅亡後は毎年朝貢していて、高句麗征伐の時のように協力を得られる機会が多かったのだろう。
・昔の夫餘の習俗では、水害や干ばつのせいで、五穀が成長しなければ、王の責任とした。王を代えるべきと言ったり、殺すべきといったりした。
これは現在(魏の時代)ではしていないということでしょう。これは夫餘だけでは無く、世界的に昔はこういった習俗はよくありました。
・麻餘が死んで、その子依慮が六歳で王となった。
漢末から魏の夫餘王は下記のようになる
尉仇台--簡位居--麻餘--依慮
・漢の時、夫餘王を葬むる時に玉匣を用いていた。常にあらかじめ玄菟郡に預けていて、王が死んだ時に取りに行って葬った。
・公孫淵が滅ぼされた時、玄菟郡の倉庫にはまだ玉匣一具があった。
・夫餘の倉庫には玉璧、珪、瓚、数代の物が有る。代々伝えて宝としている。古老は先代の賜わった物だと言っている。その印の文は「濊王之印」と言う。
・国に古い城があって名は濊城といい、もしかすると元々濊貊の地で、夫餘王は其の中にいたのだろう。自ら「亡命者」と言うのは、そもそもそういったものなのだろう
民は棺を使わなかったが、王を葬る時には玉匣を使っていた。玄菟郡に預けていて、公孫淵が滅亡した時にも倉庫にあった。これは玉匣を作った後に、玄菟郡に預けたのでしょう。使い回しをするものではないので。
夫餘の倉庫には先祖代々、漢や魏から賜った物が保管されており、魏略によるとその倉庫も含めて未だ壊されたことは無いとあります。印も有り「濊王之印」と彫られています。
濊王之印は前漢・武帝時代の元朔3年(紀元前126年)に濊族の首長に与えています。300年以上大事に保存されていたのか、漢、新、魏から新しい物をもらっていたかわかりません。
濊城という古い城があり、名前から推測したのでしょう、元々濊貊の地で、夫餘王はその中にいた。亡命者というのは、濊貊の地から現在の地に逃げてきたのではないかという陳寿の考えです。
魏略からの引用で、夫餘の建国王の話を紹介しています。
・昔、北方に稾高離の国が有り、その王の侍婢が妊娠した。
・王は侍婢を殺そうとしたが、侍婢は「鶏の卵に似た気が天から降りてきて、妊娠した」といい、許される
・王は生まれてきた子を厠や馬小屋に捨てるも、動物たちが息を吹きかけて赤ん坊を守る。王は天の子ではないかと思い、母である侍婢に育てさせる。
・名は東明。馬の面倒を見ていて、弓の扱いが上手かった。
・王は国を奪われるのでは無いかと恐れ、殺そうとする。
・東明は逃げて、南の施掩水に行く。橋が無いので、弓を川面に射ると、魚やすっぽんが出てきて橋を作り、対岸へと行くことができた。その後魚とすっぽんは川の中に戻り、兵は追って来られなかった。
・夫餘の地へたどり着き、国を作った。
この建国話では、まったく濊族とは関係がないです。濊族を吸収した時に、当時の濊王から譲られたのか、それとも東明が国を作った時に濊族の協力があったか。いずれにせよ、印を大事にしていたということは、うばったものではなかったのでしょう。
次は高句麗伝を見ていきます
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