【原文】

挹婁在夫餘東北千餘里濱大海南與北沃沮接未知其北所極其土地多山險其人形似夫餘言語不與夫餘句麗同有五穀牛馬麻布人多勇力無大君長邑落各有大人處山林之間常穴居大家深九梯以多爲好土氣寒劇於夫餘其俗好養豬食其肉衣其皮冬以豬膏塗身厚數分以御風寒夏則裸袒以尺布隱其前後以蔽形體其人不潔作溷在中央人圍其表居其弓長四尺力如弩矢用楛長尺八寸青石爲鏃古之肅慎氏之國也善射射人皆入因矢施毒人中皆死出赤玉好貂今所謂挹婁貂是也自漢已來臣屬夫餘夫餘責其租賦重以黃初中叛之夫餘數伐之其人衆雖少所在山險鄰國人畏其弓矢卒不能服也其國便乘船寇盜鄰國患之東夷飲食類皆用俎豆唯挹婁不法俗最無綱紀也


【書き下し文】

挹婁は夫餘の東北千餘里に在り。南は濱や大海、北沃沮と接す。未だ其の北極まる所知らず、其の土地は險しい山多し。其の人形は夫餘似る。言語は夫餘、句麗と同じではない。五穀、牛、馬、麻布有り。人は勇、力が多く、大君長は無し、邑落各大人有り。山林の間に處し、常に穴居る。大家は九梯深く、以て多い好む爲す。土氣寒く、夫餘に於いて劇す。其の俗養豬を好み、其の肉を食し、其の皮を衣とす。冬豬膏を以て身に厚さ數分塗り、以て風寒を御す。夏則ち裸袒し、尺布を以て隱し、其の前後を以て形體し蔽う。

其の人、不潔。溷作り、中央に在る。人は圍み、其の表で居す。其の弓長さ四尺、力は弩矢の如く。楛用い長尺八寸、青石を鏃と爲す。古の肅慎氏の國也。射る善く、人に射る、皆因に入る。矢に毒を施し、人に中ると皆死す。

赤玉と好い貂を出す。今の所謂、挹婁貂是也。漢より已來夫餘に臣屬す。夫餘、其の租賦重く責め。黃初中を以て之に叛き、夫餘數之を伐し。其人衆雖少し、所は險しい山在り、鄰國人其の弓矢を畏れ、卒に服能わず也。其の國便ち船に乘り寇盜し、鄰國之を患う。東夷、飲食類皆俎豆用いる、唯挹婁なし。法俗最も綱紀無き也。


【日本語訳】

挹婁は夫餘の東北千余里にある。南は浜や大海、北沃沮と接している。未だ北の極まる所は知らない。その土地は険しい山が多い。人の姿は夫餘に似ている。言語は夫餘、高句麗と同じではない。五穀、牛、馬、麻布がある。人は勇気があり、力が強く、大君長はおらず、邑落各々に大人がいる。山林の間に住んでいて、常に洞窟にいる。大きい家は九梯ほど深く、より深いのを好んでいる。風土は寒く、夫餘よりも厳しい。その習俗、猪を養うのを好み、その肉を食べ、その皮を衣としている。冬は猪の油を身体に厚く数分ほど塗り、風の寒を防いでいる。夏は上半身は裸で、尺布で隱し、その前後で身体を覆い隠している。

挹婁人は不潔である。トイレは中央に作り、人々はそれを囲んで、外側に住んでいる。使っている弓の長さは四尺、力は弩矢のようである。楛を用いて長く、尺八寸、青石を鏃に使っている。古の肅慎氏の国である。弓を射るのが上手く、人に射ると皆命中する。矢に毒を付けていて、人に当たるとと皆死んでしまう。

赤玉といい貂が名産である。今のいわゆる、挹婁貂がこれである。漢より以降夫餘に臣属している。夫餘の租賦重かったので、黄初中に叛乱をおこし、夫餘はしばしば挹婁を征伐した。挹婁人の軍は少なかったが、場所は険しい山があるので、隣国人(夫餘人)は弓矢を畏れて、ついに征服することができなかった。挹婁は船に乗って寇盜し、隣国(北沃沮)は思い悩んでいる。東夷は飲食には皆俎や豆を用いているが、唯一挹婁は使っていない。法、俗は最も綱紀はない。


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楛・・・ニンジンボク


黄初中・・・220~226年



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毌丘儉が高句麗討伐時

・高句麗王位宮は沃沮に逃げ隠れた

・毌丘儉は沃沮に軍を進めて位宮を撃った。

・沃沮の邑落は皆位宮を破った、首を斬った者や捕虜は三千余人であった。

・位宮は北沃沮に逃げ隠れた。


正始六年(245年)のことと思われます。沃沮は高句麗に臣従していましたが、毌丘儉軍が来ると、位宮を攻撃しました。魏からの工作が入っていたのか、魏が優勢なのを見て、魏についたのかはわかりません。

位宮は北沃沮に逃げます。毌丘儉伝の「買溝に奔る」が北沃沮になるのか?

北沃沮は別名を置溝婁というので、どちらか誤写したのでしょうか。「置溝」か「買溝婁」?

間違ってない可能性もあるとは思います。


北沃沮

・北沃沮は別名を置溝婁といい、南沃沮から、八百余里先にある。

・その習俗は南も北も皆同じで、挹婁と接している。

・挹婁は船に乗って略奪しに来る。

・北沃沮はこれを畏れて、夏の月は常に山奥の深い洞窟の中にいて、守備する。冬の月は海や川は凍結していて船は通れないので、山から下って村落に住む。


南沃沮とは東沃沮のことでしょうか?それとも東沃沮とは別か?

習俗に関しては変わらず、挹婁と接している。(おそらく北側で)

挹婁は船に乗って略奪しに来るというので、北沃沮と挹婁の境には高い山々があり、人や馬で容易に超えられないのでしょう。それで海路で略奪をしにきた。

夏の間は、略奪を恐れて山奥の深い洞窟の中にいて、冬の間は海が凍り略奪に来ないので、村に戻るといった生活をしている。これでは耕作があまりできない気がします。食料とかはどうしていたのでしょう。


海東の人について

王頎は位宮の追討に派遣される。東界の端に行き、そこの長老に質問した。「海東に人はいるのか?」

長老の答え

1.「国人がかつて漁のため乗船し、風に遭って、遭難し吹かれること数十日後、東に一つの島を発見し、上陸したら人がいた。言語は通じなかった。其の習俗は常に七月に童女を取って、海に沈めた。」

2.「一国がある。これもまた海中にある。全て女で男はいない。」

3.「一つの衣服を手に入れた。海中に浮いていたものだが、それは中國人の衣服のようだった。その両袖の長さは三丈あった。」

4.「又難破船が来たことがある。波打ち際の、海岸の端にあった。一人生存者がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じなかった。食事をせず死んでしまった。」

その領域は皆、沃沮の東の大海中にある。


序文や毌丘儉伝に東の端の大海に行き、長老に質問したことが記載されています。序文には異面の人が東にいるとしかありませんでしたが、ここでは4つの長老の説明と、王頎の質問も記載があります。


1.遭難して東に島をみつけ上陸して人がいたとのことで、樺太、北海道から北陸にかけての有人島でしょう。言葉は通じず、七月に小さな女の子を海に沈める風習があったようです。おそらく海の神様への生け贄でしょう。漁で生計を立てていたと推測できます。

言葉は通じなくても、船の修理を手伝ってもらったりして、この漁師は東沃沮に戻ることができ、村の人に話したのでしょう。


2.女だけの国がある。男達が長期間出かけている時に、沃沮人がきたのか、本当に女だけしかいなかったのかわかりません。


3.海から衣服を拾ったら、身の丈は中国人の服と同じであったが、両袖の長さが三丈(約1.3m)あった。

手がずいぶん長い民族だったのか、袖の長いのがいいという風習があったからなのか、祭りや儀式などで使う衣装だったのかはわかりません。沃沮人の印象は、腕の長い人が東の海の中にいるといったところでしょうか。


4.難破船が海岸に打ち上げられて、人がいた。うなじの中に顔があった。

うなじに顔とはホラーです。顔の入れ墨をうなじにしていたのなら、入れ墨で顔を書いていたと伝わっていると思います。それとも伝言ゲームみたいに代々伝わることで入れ墨の部分が無くなってしまったのでしょうか。それとも皮膚病で顔にみえるような所見になったのか。はっきりとはわかりません。

「うなじに顔」が序文にあった「異面の人」かもしれません。


以上の4つの話の国や人の領域は東の大海(日本海)にあると締めくくっています。


沃沮と海東の人々とは、遭難でお互いの領域には行くが、交易などの交流がなかったことがわかります。


次は挹婁伝を見ていきます。




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地理

・高句麗の蓋馬大山の東にあって、大海の浜に居住している。

・地形東北が狹く、西南は長く千里ばかりある。

・北は挹婁と夫餘、南は濊貊と接していて、戸数は五千である。


蓋馬大山は今の長白山地か長白山脈のあたりか?その東にあって、日本海に接している浜に住んでいる。東や北は狭く、西や南は長く約千里ほどある。


政治・言語

・王はいない。邑落ごとに長帥(部族長)がいる。

・言語は高句麗とほとんど同じだが、所々違ったところがある。

・不耐濊侯がいて、功曹、主簿、諸曹を置き、諸邑落の渠帥(長帥と同じか)は皆自らを三老と称していた。


王はいないが、侯がいて、昔の県国制度を使用している。

言葉はほとんど高句麗と同じとあるので、方言程度の違いでは無いかと思われる。

歴史

・漢初、朝鮮王衛満に沃沮は属する

・元封二年(紀元前109年)に衛氏朝鮮が滅亡し、漢が四郡に分けた時、沃沮城を玄菟郡とした。後に高句麗の西北に移る。

・楽浪郡に属した時に、単単大領の東を分けて、東部都尉が治め、不耐城は別の主領が東七県を治めた。その時に沃沮は皆県となった。

・建武六年(30年)、辺境の郡の都尉を廃止し、県の中の渠帥を県侯とした。不耐、華麗、沃沮の諸県は皆侯国となった。

・高句麗に臣従した


高句麗の支配

・大人を置き、使者(官名)を任命して治めていた。

・租税は大加が統括していて、貊布、魚、塩、海産物を納めさせた。

・美女を送らせて、下女や妾として、奴僕のように扱った。


高句麗に納める物を千里を運ばせたとあるので、高句麗の丸都から不耐城までの距離は千里である。

不足している食糧を東沃沮の税でまかなっていたのだろう。

美女も送っていたとのことで、従属する国の悲しさですね。


習俗

・土地は肥沃で、山を背にして海に向かっている。

・五穀を育てるのに良い土地で、耕田や種まきを上手にしている。

・人の性格は素直で強く勇敢である。

・牛馬は少なく、矛を持って歩兵戦に習熟している。

・食飲、住居、衣服、礼節は高句麗に似ている。


農業に適している土地だった。祭りもあったと思われるが、記載は無い。

人の性格は夫餘と同じで、矛を使った歩兵戦に習熟している。

食飲、住居、衣服、礼節は高句麗に似ているとあるので、夫餘、高句麗、沃沮は同じ民族と思われる。


結婚

魏略からの引用で、娘が十歳になると、婿を決める。婿の家に娘を送って、そこで養ってもらって妻となる。成人してから実家に戻り、お金が用意できたら夫の家に戻る。


葬儀

・大木で長さ十余丈の槨を作り、一方の端を開けて戸を作る。

・死者が出ると、わずかな土で覆うように仮に埋める。

・皮や肉がなくなると骨を取って、槨の中に置く。

・一家に一槨があり、共に葬られる。生前の姿のように木を刻み、死者と同じ数だけある。

・瓦䥶の中に米を置いて、槨の戸の端に、編んだ紐をつけて掛ける


1丈は約43cmなので、10丈は4m30cm。十余丈は5mくらいまでか?それくらいの大きさの槨を作り、一方の端には戸を付ける。沖縄のお墓のイメージで、それを木で作った物と想像する。

洗骨をして、槨の中に置くとありますが、土器にいれたのでしょうか?

一家に一槨があり、親族は皆共に葬られていて、生前の姿に似せて木像を作り、槨に安置している。

土器の中に米を入れて、紐に掛けて戸に掛けておく。お供え物としてだろうか、死後の世界でおなかがすかないようにという意味があるのか、色々想像できる。




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【原文】

東沃沮在高句麗蓋馬大山之東濱大海而居其地形東北狹西南長可千里北與挹婁夫餘南與濊貊接戶五千無大君王世世邑落各有長帥其言語與句麗大同時時小異漢初燕亡人衛滿王朝鮮時沃沮皆屬焉漢武帝元封二年伐朝鮮殺滿孫右渠分其地爲四郡以沃沮城爲玄菟郡後爲夷貊所侵徙郡句麗西北今所謂玄菟故府是也沃沮還屬樂浪漢以土地廣遠在單單大領之東分治東部都尉治不耐城別主領東七縣時沃沮亦皆爲縣漢光武六年省邊郡都尉由此罷其後皆以其縣中渠帥爲縣侯不耐華麗沃沮諸縣皆爲侯國夷狄更相攻伐唯不耐濊侯至今猶置功曹主簿諸曹皆濊民作之沃沮諸邑落渠帥皆自稱三老則故縣國之制也國小迫於大國之間遂臣屬句麗句麗復置其中大人爲使者使相主領又使大加統責其租賦貊布魚鹽海中食物千里擔負致之又送其美女以爲婢妾遇之如奴僕其土地肥美背山向海宜五穀善田種人性質直彊勇少牛馬便持矛步戰食飲居處衣服禮節有似句麗「魏畧曰其嫁娶之法女年十歲已相設許婿家迎之長養以爲婦至成人更還女家女家責錢錢畢乃復還婿」其葬作大木槨長十餘丈開一頭作戶新死者皆假埋之才使覆形皮肉盡乃取骨置槨中舉家皆共一槨刻木如生形隨死者爲數又有瓦䥶置米其中編縣之於槨戶邊毌丘儉討句麗句麗王宮奔沃沮遂進師擊之沃沮邑落皆破之斬獲首虜三千餘級宮奔北沃沮北沃沮一名置溝婁去南沃沮八百餘里其俗南北皆同與挹婁接挹婁喜乘船寇鈔北沃沮畏之夏月恒在山巖深穴中爲守備冬月氷凍船道不通乃下居村落王頎別遣追討宮盡其東界問其耆老海東復有人不耆老言國人嘗乘船捕魚遭風見吹數十日東得一島上有人言語不相曉其俗常以七月取童女沈海又言有一國亦在海中純女無男又說得一布衣從海中浮出其身如中國人衣其兩袖長三丈又得一破船隨波出在海岸邊有一人項中復有面生得之與語不相通不食而死其域皆在沃沮東大海中


【書き下し文】

東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り。大海の濱にて居す。其の地形東北が狹く、西南は長く千里可り。北は挹婁、夫餘と南は濊貊と接し、戶は五千。大君王は無し、世世邑落の各に長帥有り。其の言語、句麗と大くは同じ、時時小さく異なる。

漢初、燕の亡人衛滿が朝鮮の王の時、沃沮は皆これに屬す。漢武帝元封二年、朝鮮を伐し、滿の孫右渠を殺す。其の地を分け、四郡と爲し、以て沃沮城を玄菟郡と爲す。後に夷貊が侵する所と爲し、郡を句麗西北に徙す。今の所謂玄菟故府は是也。沃沮樂浪に屬すに還り、漢は土地廣く遠く在るを以て、單單大領の東を分け、東部都尉が治め、不耐城は別の主領東七縣を治む。時に沃沮亦皆縣と爲す。漢光武六年、邊郡の都尉省き、此を罷する由、其の後皆其の縣中渠帥を以て縣侯と爲す。不耐、華麗、沃沮の諸縣は皆侯國と爲す。夷狄更に相い攻伐し、唯不耐濊侯は今に至り、猶功曹、主簿、諸曹を置き、皆濊民之を作る。沃沮諸邑落の渠帥は皆自ら三老と稱す。則ち故の縣國の制也。

國小さく大國の間に於いて迫り、遂に句麗に臣屬す。句麗は復た其の中大人を置き、使者を使って爲し相い主領とした。又大加を使い統べ、其の租賦の貊布、魚、鹽、海中の食物を責め、千里擔い負い之を致す。又其の美女を送り、以て婢妾と爲し、之を奴僕の如く遇す。其の土地肥美で、山を背に海に向かい五穀に宜しく、田種に善い。人の性、質直彊勇で、牛馬少なく、矛を持ち步戰に便れる。食飲、居處、衣服、禮節は句麗に似る有り。「魏畧曰く、其の嫁娶の法、女年十歲已に相に許婿を設け、家に之を迎え長く養い、以て婦と爲す。成人に至り、更めて女家に還す。女家に錢を責め、錢畢えると乃ち復た婿に還る。」
其の葬、大木で槨を作り、長さ十餘丈、一頭開け、戶を作る。新たな死者、皆假りに之を埋め、才かに形を覆いしむ。皮肉が盡くと乃ち骨を取り、槨中に置き、家を舉げて皆一槨共にす。生形の如く木を刻み、死者に隨って數と爲す。又、瓦䥶有り、其の中に米を置き、槨の戶邊に於いて之を編んで縣ける。

毌丘儉、句麗を討つ。句麗王宮、沃沮に奔り、遂に師を進め之を擊つ。沃沮の邑落は皆之を破り、斬獲首虜は三千餘級。宮は北沃沮に奔る。北沃沮は一名を置溝婁といい、南沃沮を去ること、八百餘里。其の俗は南北皆同じで、挹婁と接す。挹婁は喜んで乘船し寇鈔す。北沃沮は之を畏れ、夏月は恒に山巖の深穴の中に在り、守備と爲す。冬月は氷凍し船道通らず、乃ち下り村落に居す。

王頎別れて遣し、宮の追討す。其の東界を盡くし、其の耆老に問う、海東に復た人有りや。耆老言う、國人嘗て乘船し魚を捕える。風に遭い、吹かれること數十日、東に一島を得て、上し人有り。言語は相い曉らず。其の俗、常に七月を以て童女を取り、海に沈む。又言う、一國有り、亦海中に在り。純て女で男は無し。又說く、一布衣得る、海中に從い浮き出た其の身中國人衣如く。其の兩袖の長さ三丈。又一破船を得る。波が出るに隨い、海岸邊に在った。一人有り、項中に復た面有り。生き得るも、之と語通じず、食せず死す。其の域皆、沃沮の東大海中に在り。


【日本語訳】

東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東にあって、大海の浜に居住している。その地形東北が狹く、西南は長く千里ばかりある。北は挹婁と夫餘、南は濊貊と接していて、戸数は五千である。大君王はいない。世々邑落の各々に長帥がいる。その言語、高句麗とほとんど同じだが、所々違ったところがある。

漢の初、燕の亡命人の衛満が朝鮮王の時、沃沮は皆衛満に属していた。漢武帝の元封二年に朝鮮を討伐し、衛満の孫衛右渠を殺した。朝鮮の地を四郡に分けた時に、沃沮城を玄菟郡とした。後に夷貊が侵攻してきたので、郡を高句麗の西北に移した。今のいわゆる玄菟故府はこの場所である。沃沮は楽浪郡に属した時に、漢は土地が広く遠くにあるので、単単大領の東を分けて、東部都尉が治め、不耐城は別の主領が東七県を治めた。その時に沃沮は皆県となった。漢光武六年、辺郡の都尉を廃止し、これを罷免したので、その後は県の中の渠帥を県侯とした。不耐、華麗、沃沮の諸県は皆侯国となった。夷狄は更に互いに攻撃し合ったが、唯一、不耐濊侯は今に至っても、なお功曹、主簿、諸曹を置いており、濊民は皆国を作っている。沃沮の諸邑落の渠帥は皆自らを三老と称していた。すなわち昔の県国の制度である。

国が小さく大国の間にあったので、高句麗に臣従した。高句麗は沃沮の中に大人を置き、使者を任命して治めていた。また大加が統括をして、沃沮の租税の貊布、魚、塩、海産物を納めさせ、千里を担いで高句麗まで運ばせた。又美女を送らせて、下女や妾として、奴僕のように扱った。土地は肥沃で、山を背にして海に向かっている。五穀を育てるのに良い土地で、耕田や種まきを上手にしている。人の性格は素直で強く勇敢である。牛馬は少なく、矛を持って歩兵戦に習熟している。食飲、住居、衣服、礼節は高句麗に似ている。「魏略からの引用。嫁取りの方法は、娘が十歲になると婿を決め、婿の家に娘を送り長く養って、婦とする。成人になってから娘の家に還す。娘の家にお金を要求し、お金を払い終えると、婿の家に還る。」
葬儀には、大木で長さ十余丈の槨を作り、一方の端を開けて戸を作る。新たな死者が出ると、皆仮にわずかな形で覆うように埋める。皮や肉がなくなると骨を取って、槨の中に置く。一家に一槨があり、共に葬られる。生前の姿のように木を刻み、死者と同じ数だけある。又、瓦䥶があり、その中に米を置いて、槨の戸の端に、編んだ紐をつけて掛ける。

毌丘儉が高句麗を討った時、高句麗王位宮は沃沮に逃げ隠れた。毌丘儉は軍を進めて位宮を撃った。沃沮の邑落は皆位宮を破った、首を斬った者や捕虜は三千余人であった。位宮は北沃沮に逃げ隠れた。北沃沮は別名を置溝婁といい、南沃沮から、八百余里先にある。その習俗は南も北も皆同じで、挹婁と接している。挹婁は船に乗って、喜んで寇鈔してくる。北沃沮はこれを畏れて、夏の月は常に山奥の深い洞窟の中にいて、守備する。冬の月は海や川は凍結していて船は通れないので、山から下って村落に住む。

王頎は位宮の追討に派遣される。東界の端に行き、そこの長老に質問した。「海東に人はいるのか?」長老は答えた。「国人がかつて漁のため乗船し、風に遭って、遭難し吹かれること数十日後、東に一つの島を発見し、上陸したら人がいた。言語は通じなかった。其の習俗は常に七月に童女を取って、海に沈めた。」又こうも言った。「一国がある。これもまた海中にある。全て女で男はいない。」又こうも説明した「一つの衣服を手に入れた。海中に浮いていたものだが、それは中國人の衣服のようだった。その両袖の長さは三丈あった。」「又難破船が来たことがある。波打ち際の、海岸の端にあった。一人生存者がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じなかった。食事をせず死んでしまった。」

その領域は皆、沃沮の東の大海中にある。


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元封二年・・・紀元前109年


光武六年・・・建武六年(30年)


瓦䥶・・・古代の三つ足の土器。穀物を蒸したりした。



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新から魏の高句麗の動き。


始建国四年(12年)・・・高句麗から兵を徴発して匈奴を征伐しようとした。高句麗兵は逃亡し、強盗となった。遼西大尹の田譚は討伐に出向いたが、殺害される。討穢将軍・厳尤(荘尤)、高句麗侯騊を斬って、首を長安に送る。王莽は、天下に布告し、名を高句麗から下句麗とした。


建武八年(32年)・・・高句麗王は遣使して朝貢した。始めて王と称した。


106~107年・・・宮はしばしば遼東郡に寇した。あらためて玄菟郡に属した。遼東太守蔡風、玄菟太守姚光は討伐に向かうが、策略により足止め。宮は密かに軍を派遣して玄菟郡を攻めて、候城を焼き討ちにする。


144~146年・・・伯固は遼東郡の新安、居郷を寇した。西安平を攻めて、道上で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を略奪した。


建寧二年(169年)・・・玄菟太守耿臨が高句麗を討ち、捕虜数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した


熹平中(172~178年)・・・伯固は願い出て玄菟郡に属した


中平六年(189年)以降・・・伯固は大加の優居、主簿の然人等を遣して、遼東太守公孫度を助けて、富山賊と戦って、これを破った


建安中(196~220年)・・公孫康は軍を出して高句麗を擊ち、国を破って、邑落を焼き討ちした。伊夷模の兄拔奇が公孫康に降伏した。


青龍中(233~237年)・・・毌丘儉、幽州刺史兼度遼将軍使持節護烏丸校尉となる。幽州諸軍を率いて襄平に行き、遼隧に駐屯した。右北平烏丸単于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留らが降伏してきた。


青龍五年/景初元年(237年)・・・公孫淵が毌丘儉郡を迎撃するも引き返す。


景初二年(238年)・・・太尉司馬懿が軍を率いて公孫淵討った。位宮は主簿の大加を援軍に送り助けた。


正始三年(242年)・・・位宮は西安平県を寇した。


正始五年(244年)・・・幽州刺吏毌丘儉に都を落とされ、高句麗は壊滅する


正始六年(245年)・・・幽州刺吏毌丘儉、再度高句麗を征伐。位宮は買溝に逃亡。毌丘儉は玄菟太守王頎を派遣し位宮を追討させた。


宮以降の桂婁部系統の高句麗王系図をまとめると以下になります。

106~146年の間、高句麗は遼東郡、玄菟郡を荒らし回っています。建寧二年(169年)に玄菟太守耿臨に討伐されてからは、荒らすのを止め、遼東郡に属し、後に高句麗の希望で玄菟郡に属します。

公孫度が遼東太守になってから、富山賊討伐に援軍を送っています。

伊夷模が王に共立されてからはまた荒らし回り、公孫康が討伐に出て打ち破られます。王になれなかった兄拔奇と、身を寄せていた匈奴の残党が叛いて、公孫康に降伏します。この時に伊夷模は改めて新国を作り、それが今の時代の高句麗であるとあります。

現在の王は位宮で、曽祖父の宮に似ているので、曽祖父と同じ名前になったとあります。

司馬懿が軍を率いて公孫淵討った時には援軍を送っています。魏からの切り崩し工作があったのでしょう。


毌丘儉伝で、前年に毌丘儉と公孫淵が戦い、勝利しなかったので公孫淵が引き返したとあります。毌丘儉が勝っていればそのまま進軍したと予想されることから、引き分けもしくは公孫淵に負けたのかもしれません。

右北平烏丸単于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留等の降伏も同時期に有り、これは烏丸伝の魏略からの引用と同じ事が記載されていました。


正始中の高句麗討伐は毌丘儉伝に詳しく書かれています。

玄菟郡から歩騎一万人を率いて出兵。位宮は歩騎二万人を率いて沸流水のほとりに進軍し、梁口で戦う。高句麗軍は連敗し、逃走。丸都山を登って、高句麗の都を攻略し、攻め滅ぼした。


この前に位宮に諫言した家臣についての記述があります。

沛者・得來は位宮にしばしば諫言したが、聞き入れられなかった。

「立って見ているこの地、まさに草ぼうぼうの野原と化すだろう。」と嘆いた。高句麗が壊滅状態になる未来の暗示です。食事を断って、抗議の死を選択し、死後国を挙げて賢人とされます。この話が幽州まで届いたのか、高句麗に入って知ったのかはわかりませんが、毌丘儉は得來の墓を冒とくしないように、得來の妻子を捕らえても解放するように通達を出します。


正始六年にまた、征伐に出ています。前年、位宮は単独で妻子を連れて逃げ隠れてたが、また勢力を復活させて、荒らし回っていたのでしょう。毌丘儉はまた打ち破り、位宮は買溝に逃げました。毌丘儉は玄菟太守王頎を派遣し宮を追討させました。「沃沮を過ぎて千有余里、肅慎氏の南界に至って」と東夷傳の序文にあった記載がここに出てきます。

石に功績を刻み、丸都の山に刊み、不耐の城と銘したとありますが、この石が毌丘倹紀功碑でしょうか?

山にトンネルを掘って漑灌し、民はその利益を得ることができたとあるので、農産物の収穫量がこの灌漑で増えたのでしょう。


次は東沃沮を見ていきます。



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