後漢の末期に、北辺の各郡には烏丸大人がいた様子がわかります。
遼西烏丸大人、丘力居(部衆五千余り) 王を称した
上谷烏丸大人、難樓(部衆九千余り) 王を称した
遼東属国烏丸大人、蘇僕延(部衆千余り) 峭王と称した。
右北平烏丸大人、烏延(部衆八百余り) 汗魯王と称した。
時系列で見てみると
中平四年(187年)、中山太守張純が反乱を起こして、丘力居らと連携して北部の四郡を荒らし回る。
中平五年(188年)、劉虞を幽州牧として赴任。北部異民族への懐柔策を取る。
中平六年(189年)、張純殺害され、その首級を劉虞の下に届けられた
丘力居死去。子の樓班が幼かったので、蹋頓が後を嗣ぐ。
初平2年(191年)~、袁紹と公孫瓚の戦いが始まる。
蹋頓は袁紹に遣使。袁紹は蹋頓、難峭王、汗魯王を単于とした。(英雄記では遼東屬國率衆王頒下、烏丸遼西率衆王蹋頓、右北平率衆王汗盧維)
建安十一年(206年)、曹操、柳城へ進軍し、蹋頓、袁尚を破る。蹋頓戦死、袁尚、袁煕、速附丸、樓班、烏延は遼東へ逃走。逃走した5名は公孫康に捕らえられ、斬首。
烏丸は降伏し、曹操軍の中に編入し、共に戦うようになる。
魏略より
景初元年(237年)、幽州刺史毌丘儉が遼東を討った時、右北平烏丸単于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留葉が降伏。二人とも袁尚と共に遼西に逃げた者。
こうしてみると劉虞、袁紹と友好関係を築いていた時は特に略奪行為は行っていないようである。
この時期は黄巾の乱が起こって、各地で反乱が起こっていた時期。劉虞が強攻策ではなく、懐柔策をとったのはわかります。ただ、公孫瓚は強攻策を唱え、丘力居の使者を捕らえて殺したりと妨害をしていました。このあたりが、袁紹と公孫瓚が争ったときに、蹋頓が袁紹と手を結ぶようになった一因かも知れません。
袁紹と友好関係にあったからこそ、子の袁尚、袁煕を保護して、曹操と対立したのだろうか。
それとも序文で冒頓単于の再来と長老達に言われていた蹋頓は自らの力を過信したのか、わかりませんが、結果的に曹操に大敗してしまう。
結果、魏にのみ込まれて、魏軍として編成されてしまう。しかし一部は遼東で勢力を保っていたことが、魏略の注釈でわかる。
後漢末期の状況は以上のように書いてある。それ以前の情報は序文の注釈、王沈著の魏書に習俗と共に記載がありますが、それは次回に。