私にとって
年末年始
は
品格
の
見直し
の
季節です
ので、
そのような本
を
一冊は読む
ということを
習慣にしている
のですが、
今年は
白洲正子
の
美しくなるにつれて若くなる
にしました。
解説
にも
書かれていたのですが、
思えば、
白洲正子
は
学者でもありませんし、
美術館の館長でもありませんし、
鑑定家でもありませんし、
人間国宝でもない
のですよね。
そういうものがない
という点では、
福田和也氏
がおっしゃるように
いわゆる
偉い
というものから
外れ、
まさに
白洲正子
として
生きた人
なのだろう
と思います。
福田氏
は
白洲正子の生き方
を
固定した一つの形
に納まるということではなく、
これしかない
という形で
露わになった
デーモン
に
どこまでも
つき従っていく
という構えが
出来たという
意味での、
完成
と
表現しています。
デーモン
は
小林秀雄
が
口にしたもの
のようですが、
玉は自分のために
磨かねばならぬ
そのための
学問であり、
教養であり、
文化であり、
知識である
という
白洲の言葉
と
呼応している
のだろうと
思いました。
脈々
と
受け継がれてきた
ものの
上に
きちんと
時間をかけて
じっくりと
積み上げること
その
積み上げたものが
その人の
スタイル
であり、
品格
となる
ということでしょうね。
それは
きっと
先人の智慧
について
深く
思いを巡らすこと
でもあるでしょう。
その日頃の鍛錬が
着こなし
マナー
あるいは
ちょっとした
日常会話
を
作っていく。
それを
人は
デーモンの現われ
と
とらえるのだろうなぁ
と。
そうやって
白洲正子
という人は
白洲正子
になった
のだろうと
思いました。
白洲正子
は
本書の中で、
文化
や
教養
などというものは、
一生かかっても
身につくかどうか
おぼつかない、
それほど
漠としたものであります。
其処から
覚悟してかからないかぎり、
いくら
考えてもあこがれても
なんとも仕様がないことです。
と書いていますが、
現代人の中には、
そんな
不確定なものなら、
お金
や
知識
や
最先端技術
や
最新情報
といった
より確実なもののほうがいい
と
思う人もいるのではないかしら?
と思います。
巻末に
ランティエ叢書
の
発刊の辞
が
掲載されており、
そこに、
生きるに値する人生を求めて。
と
書かれていましたが、
先ほどの
他に根拠を求める人
は
それが生きるに値する人生
なのか?
と問われたら、
胸を張ってそうだ
とはいえず、
自分がなした
社会貢献
や
稼いだ額
や
肩書
や
もっと低俗なところで行けば、
フォロワーの数
などを
あげつらって
デーモンを見失っている
ことを
露見してしまう
のかもしれませんね。
それは
ひとえに
見えない不安ゆえに
なのかもしれない
ですね。
写真は
我が子作
の
五惑星🪐
です。