2022.6.4二人のシゲマサ:島原の乱の遠因、松倉重政と島原の乱鎮圧軍を率いた板倉重昌の墓 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)

 

先日の、くさせんり師匠との島原ドライブの続きです。

 

松倉重政と板倉重昌ってどんなイメージの人物でしょうか?

松倉重政は、島原藩初代藩主。

キリシタン弾圧の名目で、住民に暴政を敷き、重税を課して息子の松倉勝家の時代に

島原の乱が勃発する遠因を作った人物。

 

そして、板倉重昌は勃発した島原の乱を鎮圧する為に幕府軍を率いて原城を包囲するも、

功を焦って戦死した人物。

どちらも、地元・島原の目線からすると、外部からの忌むべき侵略者のようにも

受け取れるようにも思えます。

 

 

そんな二人が期せずして共に眠っている場所があります。

島原市の江東寺です。

 

 

松倉重政は元々、大和国(奈良県)の戦国大名・筒井順慶の家臣だったとされます。

 

(松倉氏は興福寺の宗徒・筒井順慶の一族に仕えた)

 

筒井順慶は織田信長の傘下に入り、更に、本能寺の変後に豊臣秀吉に従いますが、

順慶の死後、息子の筒井定次は伊賀国(三重県)に転封されると、松倉重政は地元に

残り、豊臣家の直参となりました。

 

(関ヶ原の合戦後、松倉重政は島原半島の日野江城を与えられた)

 

関ケ原の戦い、大坂の陣ではいずれも徳川家康に従い、大和五条→肥前日野江4万石

に加増されて初代島原藩主となります。

ここまでは良かったのですが、名城・島原城築城と、徳川幕府の対外政策、キリスト

教禁教政策の変化が松倉家の運命を暗転させます。

 

徳川幕府初代将軍・徳川家康の時代:

キリスト教は禁止だけど、貿易優先でいいですよ~!

 

といった感じだったのが、

 

徳川幕府二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の時代:

キリスト教禁教を徹底し、その為なら貿易も禁止!!

 

というように、禁教政策が厳しくなっていきます。

 

(キリシタン大名・小西行長)

 

そうなると、元々キリシタン大名であった有馬晴信が治めていた島原や、小西行長が

治めていた南肥後(宇土・天草)には多くのキリスト教信者がいたため、統治に影響

が出てきます。

 

島原を治めていた松倉重政も、恐らく最初から暴政を敷き、重税を課す意図は無かった

のではないか、と思うのです。

松倉重政自身、さほど高い身分の出身と言えるのか?重政が仕えた筒井順慶の一族自体、

興福寺門徒衆から成り上がった特異な戦国大名家ですし、重政がいた大和国は、室町幕府

が「治めにくくて守護を任命できない!」と嘆いたところですしね。

しかも、重政が島原入封前に治めた大和五条では、重政は名君と慕われていたそうです。

 

しかし、三代将軍・徳川家光にキリスト教禁教推進を督促されると、松倉重政の治世は

一気に厳しい態度になりました。

 

徳川家光といえば、大昔の三田村邦彦さんの時代劇を思い出しますが、実際の徳川家光は、

確かに徳川幕府と江戸城の全容を完成に導いた有能な将軍だったかもしれません。

しかし、あの時代劇ような爽やかな人物ではなく、乳母・春日局の強烈な刷り込みで独善的で

根拠のない自信に満ちた不安定な人物だったのではないか、と思います。

ちょうど、機動戦士ガンダムシリーズのギュネイ・ガスや、マシュマー・セロといった強化人間みたいな人だったんじゃないかな?

父・秀忠の死後、加藤忠広(加藤清正の子)を改易し、実弟・徳川忠長を切腹させた徳川家光。

 

関ケ原の合戦以降、徳川家に従い、れっきとした外様大名(笑)である松倉重政にとって、

特に後ろ盾は無く、幕府の歓心を買うことが幕藩体制を生き残る方法だと思うようになり、

やがてそれが過激な行動になっていきます。

実高4万石の島原を検地して10万石と報告したり(火山のある島原半島は、もともと耕作に

有利ではないとされる)、更に驚くべきことに、当時スペイン領となっていたフィリピンの

ルソン島を「キリスト教徒の策源地なので、遠征軍を派遣し、占領したい」という気宇壮大な

計画を徳川幕府に上申し、築城中の島原城を遠征軍の根拠地にすることを提案したといいます。

 

住民にも重税・暴政を敷き、家を建てれば囲炉裏銭、窓銭、棚銭、戸口銭を取り立て、子供

が生まれれば頭銭、死人が出れば穴銭を課し、従わないものは水牢、雲仙火口に突き落とす、

蓑を着せて火を点ける、といったおぞましい方法で処刑したと云います。

 

1630年、幸か不幸か、ルソン遠征を目前にして松倉重政は亡くなりました。

息子の松倉勝家は、父・重政の政策を見直すどころか、更に推し進め、領民の生活を圧迫。

1637年10月、とうとう領民が蹶起し、島原の乱が勃発してしまいました。

 

 

松倉重政が残した「分不相応な名城・島原城」は真価を発揮し、万余の一揆軍を撃退する

ことに成功しました。しかし、ここまででした。

もはや37000人にまで膨らんだ島原・天草の一揆軍を松倉家で独力で鎮圧することができる

はずもなく、徳川幕府からの鎮圧軍に頼ることになりました。

辛うじて島原の乱は鎮められたものの、松倉勝家はその苛烈な統治、重税を幕府から厳しく

断罪され、江戸時代を通じて唯一、大名として斬首され、松倉家も改易、取り潰しとなりました。

 

この結果は、「キリシタン領民を迫害することで幕府に評価してもらおう(かなり狂気の

統治姿勢ですが)」と考えていたと思われる松倉重政にとっては、まさに青天の霹靂であった

ろうと思います。

 

司馬遼太郎曰く「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」

 

そんな松倉重政ですが、今でもきちんと江東寺に墓所が立ち、しかも、1792年の震災で

墓石が流出した際にも江東寺の住職が墓石を再建(36年後ですが)した、という歴史に

いささか驚きました。

 

 

こちらは、もう一人のシゲマサ、板倉重昌の墓所。

 

板倉重昌は、桃山時代の1588年、徳川家康の側近、板倉勝重(通称、板倉伊賀守。

後の徳川幕府・京都所司代)の次男として生まれました。

もう、戦国武将とは呼べない世代ですが、晩年の徳川家康に仕えた側近の一人であり、

大坂の陣では豊臣方との交渉役も務めました。

九州に国替えの代官として赴任した経験もあり、後に三河深溝藩・1万5千石の大名に

なりました。

 

(島原・天草の一揆軍は廃城となっていた原城に立て籠もった)

 

島原・天草の領民37000人が蜂起し、島原の乱が勃発すると、板倉重昌は九州での経験

を買われて、九州の諸大名を指揮する指揮官(上使)として派遣されることになります。

 

(佐賀藩藩主・鍋島勝茂は「幕府の上使に必ずとも従わなくてよい」という書状を出している)

 

勇躍、島原半島の原城に乗り込んだ重昌でしたが、九州には熊本54万石の細川忠利、

福岡52万石の黒田忠之、薩摩72万石の島津家久、佐賀36万石の鍋島勝茂といった、錚々

たる外様の大大名が並んでおり、小大名の板倉重昌の指示に積極的に従わず、鍋島勝茂

などは、後日の恩賞(領地加増)を意識して家中に抜け駆けを指示する有様でした。

 

 
 
 

※小学館 学習まんが 少年少女 日本の歴史 より・・・・

 

逆に、小西行長や有馬晴信の旧臣(武士)も参加していた一揆軍の練度は高く、士気

でも幕府軍に勝っていました。

約5万の幕府軍は、一揆軍が立て籠もる原城に総攻撃をかけましたが、都度、撃退され

ました。

 

 

更に、重昌を驚愕させる報告が入ります。徳川幕府の閣僚であり、将軍・家光の側近、

老中・松平信綱(知恵伊豆)が新たな総大将として、7万もの増援軍を率いて出発

した、との連絡が入ったのです。

 

重昌は焦ります。

このままでは指揮権を奪われるどころか、何ら戦果が上がっていないことに対して

咎めを受けるかもしれない・・・・。

 

 
 
 

翌1638年正月、板倉重昌率いる幕府軍は総攻撃をかけます。

重昌自身、直卒の手勢を率いて原城に突撃をかけましたが、やはり幕府軍は連携に欠け、

板倉重昌自身も鉄砲の直撃を受けて戦死、幕府軍は5000人以上の死傷者を出して大敗

しました。

 

 

重昌と共に従軍していた、子の松倉重矩は、到着した老中・松平信綱の指揮下で戦い続け、

原城陥落時には、鍋島勝茂軍と共に抜け駆けで攻撃を仕掛け、謹慎処分を受けたものの、

一揆軍の将・有家監物を一騎打ちで討ち取り、父の仇を晴らしたと云います。

その後、板倉重矩は京都所司代や老中といった徳川幕府の要職を歴任しました。

 

この板倉重昌の墓所も、1792年の地震で墓石が流出し、板倉重昌の家系である三河・

板倉家では墓の再建を島原藩の縁者に依頼し、1817年、ようやく再建が成ったそうです。

 

 

尚、板倉重昌が戦死した原城跡にも、板倉重昌の碑が建っており、重昌の最期を伝えています。