暇つぶしに造り始めたタミヤ1/35一式砲戦車(ホニ車Ⅰ)⑲完成編1少年野砲兵学校所属車 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
遂に全4台が完成した一式自走砲ホニⅠ。
タミヤのキットも説明書も非常に素晴らしいと私は思うのですが、説明書に関しては、
幾つか疑問符が付く部分もあると思います。
 
そもそも、このキットのパッケージ商品名である「一式砲戦車」という名称ですが、私は
「一式自走砲」が正しいのではないかと思います。
理由は、基本的に戦車隊の配属ではなく、砲兵隊の所管であったこと。
砲戦車とは、戦車隊が所管する車両の名称であり、野砲兵学校や砲兵連隊に主に配属
されたことから考えると、やはり一式自走砲の方が辻褄が合うように思います。
 
さて、一式自走砲(ホニⅠ)ですが、分かっているようで分からないことが多い車両です。
そもそも、何の為に作ったのか?
1939年より開発に着手。1941年試作車完成ということだけは間違いないようですが、
1.第二次世界大戦劈頭1939年のポーランド侵攻で、ドイツ陸軍の自走化部隊(機甲師団)
の活躍に影響された
2.ノモンハン事件で強大なソ連戦車隊と対決した結果
 
という大きく二つの経緯が挙げられることが多いみたいです。
 
私は、この一式自走砲の成り立ちと、ドイツ軍のⅢ号突撃砲(前期の短砲身A~F型)を
比較すると、経緯は前者ではないかと思います。
○Ⅲ号突撃砲(ドイツ):主力戦車Ⅲ号戦車の車台に7.5センチ砲を積んだ自走砲
○一式自走砲(日本):主力戦車九七式中戦車の車台に7.5センチ砲を積んだ自走砲
 
思いっきり対戦車自走砲に特化したⅢ号突撃砲でさえ、戦車兵ではなく突撃砲兵と
いう区分をしていたことを考えると、「戦車ではなくて自走砲」という感が強いです。
搭載したのが九〇式野砲(口径7.5センチ)というのも、砲兵隊の所管であることを
示しています。これが、対戦車自走砲として開発したのであれば、もっと口径の小さい
九四式37ミリ速射砲(九五式軽戦車も同じ口径)や一式47ミリ速射砲(九七式中戦車)
を積んだことでしょう。
 
どちらにしても、「歩兵も砲兵も自走化(トラック化)して戦車と同じスピードで進撃」という
世界的な陸軍機械化の流れに影響されたのは間違いなさそうです。
間違っても「アメリカのM4シャーマン戦車に勝つ為に7.5センチ砲を積んだ」わけでは
ありません。
 
さて、最初から話が長くなりましたが、一式自走砲の謎といえば、他にも生産台数が
はっきりしないこと。ほぼ同じ車台に10センチ榴弾砲を積んだ姉妹車ホニⅡと合わせて
138両というのが一般的です。
日本の自走砲としては比較的多いものの、全体としては少ない印象です。
1941年に一式自走砲として制式採用されたホニⅠ(「ホ」は自走砲、「ニ」はイ、ロ、ハ、ニ
で4番目に開発されたことを示す)でしたが、生産は一向に進みませんでした。
タミヤの説明書にあるように、各種資材が航空機に優先的に割り振られたこともあると
思いますが、もう一つは本家ドイツの自走砲の開発や運用が何度も迷走したように、
一式自走砲も「作ってみて、一応予定通りのものが完成したけど、実際にどう使ったら
いいか迷っていた」のもあったのではないか、と思います。
同じようなケースとして、1939年に完成したにもかかわらず、「前作九七式戦闘機が
優れている」とされ、対米英蘭開戦まで制式採用されなかった同じ陸軍の一式戦闘機・
隼や、運用が二転三転した海軍の一三試双発戦闘機(後の夜間戦闘機・月光)を
思い出すのは私だけではないと思います。
生産のGOサインが出たのは、戦局が悪化しつつも絶望的ではなかった(と思われていた)
1943年後半からだったとされています。
「あらゆるアメリカ軍戦車と撃破しえた唯一の日本軍戦闘車両」と戦後評された一式自走砲
でしたが、戦局に影響を与えるには戦場に送られたも数があまりにも少なすぎました。
 
 
完成編1:少年野戦砲兵学校所属車。
実は、ちょっとこの所属も少し変かな?と思っています。
あんまり詳しくないけど、陸軍少年○○学校と名がつくのは、だいたい戦車とか飛行兵
とか、技術革新で新しく生まれた分野が多くて、伝統的な兵科、例えば歩兵科、砲兵科、
工兵科、騎兵科なんかはあんまり聞きません。
調べたら(ネットだけですが・・・笑)、陸軍野戦砲兵学校というのが千葉県にあり、開戦後
は少年兵の生徒隊が編成されたそうで、迫撃砲隊、自走砲隊が編成されたそうですから、
「陸軍野戦砲兵学校・少年兵生徒隊」なのかな?と思います。
 
どうでもよいことかもしれませんが・・・・(笑)。
 
 
九七式中戦車と並ぶ、一式自走砲。