2021.11.3師匠と廃線跡巡礼!④阿蘇大宮司家を支えた名将・甲斐宗運(甲斐親直)の御船城跡 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
 
かつての山鹿温泉鉄道が走っていた山鹿・植木エリアから、熊延鉄道が走っていた
益城エリアへ向かう私と師匠。
路線バスも、産交バスの西工96MC 日野ブルーリボンⅡ(松橋営業所→山鹿営業所)から・・・・
 
 
熊延鉄道を前身とする熊本バスに変わりました!
日野レインボーHR 10.5メートル車ですね。
 
 
御船小学校に到着しました。
 
 
隣接する城山公園は、戦国時代の名将・甲斐宗運の居城だった御船城の城址です。
 
 
甲斐宗運は1515年、阿蘇氏(阿蘇大宮司家)の重臣の家に誕生。
長じて阿蘇氏を支える宿老となり、同じ阿蘇氏の家臣で、阿蘇氏に背いた御船氏を征伐。
 
イメージ 2
 
以前訪問した際には、この場所に皇紀2600年を記念して、御船商工会が寄贈した
立派な鳥居があったのですが、老朽化か災害か、撤去されていました。
 
 
御船氏の居城だった御船城主に収まった甲斐宗運は、豊後の大友宗麟・人吉の相良義陽
との同盟を堅持して阿蘇氏の安泰を図ったといいます。
 
 
小高い丘の上が御船城址となります。
その後、甲斐宗運は阿蘇家安定の為、裏切り者は同じ甲斐一族のものでっても許さず、
外部から侵入してきた隈部氏・城氏・鹿子木氏らの大軍を撃退する等、八面六臂の
活躍を見せました。
しかし、頼みの大友宗麟が耳川の合戦で敗れると、阿蘇家と甲斐宗運の立場も微妙に
なり、しかも今度は水俣城の合戦で島津氏に敗れた相良義陽が同盟を破棄して矢部に
攻め込む等、自体は急転します。
響野原の戦いで相良義陽を敗死させたものの、かつての盟友の死と時代の流れに築いた
甲斐宗運は「阿蘇家滅亡まで3年」と呟いたといいます。
やがて、相良氏や隈部氏と同様に宗運が仕える阿蘇氏も島津氏に従うことになりましたが、
のらりくらりと島津氏の要求をかわして阿蘇氏の独立を保ったといいます。
亡くなったのは1585年、豊臣秀吉が九州征伐(島津征伐)に出陣する1年余り前の
ことでした。
その後、息子の甲斐親英は一度は島津氏に奪われた御船城を奪回したものの、隈部親永
らに同調して肥後国人一揆に参加し、佐々成政や天下人秀吉に無謀な戦いを挑んで敗れ、
自害。ここに甲斐氏は滅びたのでした。
 
 
こちらは、熊本バスの前身・熊延鉄道の社長・田副清氏の胸像。
 
 
もう一つ、こちらは熊延鉄道をバス会社として転換させ、現在の熊本バスの礎を築いた
次代社長・田副敏郎氏を顕彰する碑。
最初に南熊本=砥用間で開業した熊延鉄道、そして熊本バスにとっては、御船は
創業の地なんですね・・・。
 
ちょっと甲斐宗運よりも、熊本バスのイメージが強い御船城跡でした(苦笑)
唯一甲斐宗運という名前が出ていた宗運門にて・・・。