九州国立博物館「室町将軍~戦乱と美の足利十五代~」(太宰府天満宮/足利尊氏/足利義満/足利義政) | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)

 

昨日は、母や弟と太宰府市の九州国立博物館に行ってきました。

 

 

特別展「室町将軍~戦乱と美の足利十五代~」

つまり、室町幕府の足利将軍十五代・240年の歴史展ということで、各地の博物館や

寺社から国宝級の茶道具や掛け軸、甲冑や刀剣類、文書類が多数集められて

展示されていました。

 

 

勿論、そんな貴重な品々は撮影が禁止されていて、こちらの日明貿易(勘合貿易)の

勘合符と呼ばれる割札の展示位しか撮影できませんでしたが・・・。

 

 

撮影可能で嬉しかったのは、足利将軍家の菩提寺であった京都・等持院が収蔵する

足利幕府将軍13人の木像。

 

 

初代・足利尊氏:源頼朝と同じく源氏の家系で、鎌倉幕府の有力御家人であった足利

家に生まれ、後醍醐天皇・楠木正成ら鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、一度は鎮圧軍の

大将として出陣したものの、鎌倉幕府を見限って後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府の

六波羅探題(京都の出先機関)を攻略。建武の新政では最大の功労者とされました

が、後に各地の武士に持ち上げられる形で、公家中心の建武の新政に対して公然

と反旗。一度は京を追われたものの、逆に九州他各地の武士団を味方につけて京を

奪回。吉野へ脱出した後醍醐天皇の南朝に対し、光厳天皇の系統である北朝を擁立

して対抗、征夷大将軍に任命されて幕府を開きました。

その後、対立した弟の直義を粛清する等して幕府政治の安定に努めますが、南北朝

の戦禍が続く中、亡くなりました。

 

 

二代・足利義詮:父・尊氏に従い、各地を転戦。その一方で、軍事に追われる尊氏に

代わって足利幕府の行政を担い、足利家の跡継ぎとして、二代将軍として、幕府の

基礎を固めました。

 

 

三代・足利義満:わずか9歳で足利幕府第三代将軍に就任しましたが、細川頼之・

斯波義将といった有能な管領に支えられ、足利幕府の全盛期をもたらしました。

義満が建てた将軍の住まいは「室町殿」と呼ばれ、足利幕府は室町幕府とも称され

ます。土岐氏や山名氏、大内氏といった有力大名を討伐して力を弱める一方、

中華帝国・明との交易で莫大な利益を得、祖父・尊氏以来の懸案であった南北朝の

合一(正平一統)を実現して南北朝時代に幕を下ろし、国内に平和をもたらしました。

出家後は京都・北山に北山山荘(鹿苑寺金閣)を築き、華麗な北山文化の中心と

なりました。

 

 

四代・足利義持:義満の生前、将軍職を譲られ、第四代将軍に就任。

実弟の足利義嗣、鎌倉府の足利満隆、上杉氏憲らを粛清し、幕府と将軍の権限強化

に努めました。また、父・義満が始めた日明貿易を中止し、義満とは違う政治姿勢を

見せましたが、息子で第五代将軍の足利義量(よしかず)が早逝すると、自身は

出家した法体のまま政治を行い、後継将軍の指名を拒否する等、奇妙な行動が

目立ちました。死の間際、後継将軍を4人の弟から籤引きで選ぶことに同意し、弟で

六代将軍・足利義教登場の道を開きました。

 

 

五代・足利義量:父・義持が出家し、第五代将軍に就任しましたが、あくまで政治の

実権は父・義持が担っており、そのせいか若くして酒浸りとなり、19歳で亡くなった

といいます。

 

 

六代・足利義教:万人恐怖・悪御所・籤引き将軍・還俗将軍、多くの渾名を持つ将軍

です。還俗将軍の渾名の通り、義教は天台宗の僧として仏門に入っており、「天台

開闢以来の逸材」と称される程の高僧でした。天台宗の総本山である比叡山延暦寺

の住職である天台座主の地位にも就いています。

兄で第四代将軍・足利義持の死後、他の3人の兄弟との間で籤引きによって将軍に

指名され、第六代将軍に就任しました。

義教は、父・義満の時代を理想として将軍や幕府の権威を高める為、少弐氏や

大友氏といった幕府に反発的な勢力の討伐や、各大名家の家督問題に介入し、

敵対するものを厳しく処罰していきました。その一方で、日明貿易を復活させています。

何度も将軍家に対して反抗した鎌倉公方の足利持氏(足利家の分家)を攻め滅ぼし、

幼い子供たちも処刑した他、料理人や庭師といった庶民、皇族や公家に対しても厳しく

接し、弾圧しました。義教の恐怖政治は、一時的に幕府の権威を立て直しましたが、

義教は守護大名・赤松満祐の手で暗殺されてしまいました。

 

 

七代・足利義勝:父・義教の暗殺に伴い、わずか8歳で第七代将軍に就任しましたが、

在任8カ月余りで病死。弟の義政が次代将軍になりました。

 

 

八代・足利義政:兄・義勝の死に伴い、将軍職に選出されますが、幼い将軍が続いた

ことで、乳母や母の実家・日野氏、細川氏や畠山氏、山名氏といった有力大名が

干渉することになり、義政が指導力を発揮することは困難でした。

当初は、幕府権威の再建を目指して御所の改築や名物の蒐集に努めていた義政

ですが、次第に政治家としてよりも文人としての立場が優先するようになり、最初の

男子が早逝した後は、弟の足利義視に将軍職を譲ることを考えるようになります。

しかし、間もなく正妻の日野富子が男児(後の九代将軍・足利義尚)を出産。

義政を挟んで弟・義見と、子・義尚との間で日野富子、管領・畠山政長、細川勝元、

山名宗全、大内政弘といった有力者を巻き込んで、後継将軍問題は応仁の乱へと

繋がっていきます。10年に及ぶ戦いで京都は完全に荒廃。

しかし、義政は度重なる飢饉や一揆、戦乱を放置して自身の集大成である東山山荘

(慈照寺銀閣)の造営に着手。息子・義尚が九代将軍に決まり、京都に平和が戻って

間もなく、その九代将軍・足利義尚が戦地で死去。

すっかり力を落とした義政は銀閣の完成を見届けることなくこの世を去りました。

 

 

九代・足利義尚:足利義政にとって待望の男児として誕生。しかし、それに伴って発生

したのは、叔父・足利義視との間での将軍後継問題であり、応仁の乱でした。

西軍の総帥・山名宗全と、東軍の総帥・細川勝元が相次いで亡くなり、応仁の乱も収束。

義尚が九代将軍となりましたが、幕府に背いて領地の横領などを繰り返す近江の六角氏

討伐に自ら出陣。そのまま戦陣で亡くなりました。24歳の若さでした。

 

 

十代・足利義稙:応仁の乱で九代将軍・足利義尚と将軍の座を争った、足利義視の

子です。足利義尚の早逝で、足利義教-足利義政-足利義尚と続いてきた系統は

絶え、十代将軍には足利義政の甥で、足利義尚の従弟である義稙が就任しました。

しかし、義稙の立場は弱いもので、最有力の守護大名で管領の細川政元や、陰の

実力者・日野富子(足利義政夫人)らには好まれず、遠征で京都を離れた間に

十一代将軍として、従弟の足利義澄が就任してしまいました。

やがて、日野富子が亡くなり、細川政元が家来に暗殺されると、これを好機とみて

細川政元の養子・細川高国や、山口の守護大名・大内義興らを率いて京都に

攻め込み、直前に足利義澄が死去したこともあり、将軍に復位しました。

しかし、将軍・義稙を凌ぐ力を持ち始めた管領・細川高国との間で対立が深まり、

京都を追われ、勢力を盛り返せないまま亡くなりました。

 

 

十一代・足利義澄:義澄の父・足利政知は、八代将軍・足利義政の異母兄にあたり、

足利義教の時代に滅ぼされた鎌倉公方・足利持氏の子・足利成氏(古河公方)に

対抗して伊豆に進出し、堀越公方と称されました。

義澄は前将軍・足利義稙同様、九代将軍・義尚の従弟にあたることから、十代将軍

を選ぶ際にも候補に上りましたが、十代将軍には義稙が就任しました。

しかし、義稙は義母である日野富子や管領・細川政元と対立して京都を追われ、

新将軍として義澄が十一代将軍の座に就きました。

ところが、日野富子が亡くなり、頼みの細川政元も暗殺されると、前将軍・義稙が

西国の有力大名・大内義興らを率いて上京。義澄は船岡山の合戦でこれを迎え

撃ちますが、決戦の前に病死しました。義稙が将軍に復帰したものの、子供は無く、

義澄の子、足利義晴・足利義維は義稙に保護され、以後の将軍は全て義澄の子や

孫たちとなりました。

 

 

十二代・足利義晴:十代将軍・足利義澄の子として生まれましたが、前将軍・足利義稙

との決戦直前、義澄は死去し、義澄一党も戦いに敗れました。

復位した将軍・足利義稙は、管領の細川高国と対立して追放され、高国が新たな

将軍候補として目を付けたのが義晴でした。しかし、義晴の時代になると、将軍は

有力者に後援を受けて就任し、支援勢力が敗れれば京都を追われるという状態が

日常になっていました。京都周辺を押さえる有力者が細川高国→細川晴元→三好長慶

と変わる度に地方へ避難する人生であり、息子の足利義輝に将軍職を譲った後、

亡くなりました。

 

 

十三代・足利義輝:足利義晴の子で、父の生前に将軍職を譲られました。当時最大の

有力者であった阿波出身の武将・三好長慶と対立し、父同様に度々近江などへ

脱出していましたが、後に長慶と和睦。

その後は、一時的に安定した幕府体制を確立することが出来ました。

この結果、権威の復興として各地の有力大名・毛利輝元・伊達輝宗らに自身の「輝」

の字を与え、長尾景虎(後の上杉謙信)には関東管領就任を認め、後に上杉輝虎

と名乗らせています。

しかし、三好長慶の死後、三好氏の重臣である松永久秀や三好三人衆は義輝を

危険視して館を襲撃。剣術の名手であった義輝は、畳に蒐集品の名刀を10本余り

突きさし、刃がこぼれると、次の刀を取って寄せ手を次々に打ち倒したとされますが、

衆寡敵せず、討たれたと云います。

 

 

十四代・足利義栄:十三代将軍・足利義輝を暗殺した三好氏の重臣・松永久秀や

三好三人衆は、義輝の実弟であった足利義昭の命も狙いましたが、これには失敗。

義昭は京都を脱出しました。

畿内を経済力・軍事力で制圧した三好家も、将軍の存在は必要であり、その為に

十二代将軍・足利義晴の兄弟である足利義維・義栄父子をを本拠地・阿波から堺に

招きます。この為、義栄は堺公方・阿波公方とも呼ばれました。

しかし、辛うじて京都を脱出し、全国の大名に加勢を求めていた前将軍の弟・足利

義昭を報じて織田信長が上洛を開始。更に、三好三人衆と松永久秀が争っていた

こともあり、三好長慶の跡を継いだ三好義継や三好三人衆は信長に悉く敗北。

松永久秀も信長に投降し、支援者を失った義栄は間もなく亡くなりました。

正式な室町将軍に含まない考え方も存在し、木像がありません。

 

 

十五代・足利義昭:最後の室町幕府将軍です。兄・義輝が暗殺されると、一旦京都を

避難し、朝倉義景をはじめ、各地の有力大名に支援を求めます。織田信長に奉じられ、

京都に入り、十五代将軍に就任するも、義昭には政治的実権が無く、間もなく信長と

対立。本願寺顕如・武田信玄・朝倉義景・浅井長政・松永久秀・武田信玄らに呼びかけ、

いわゆる信長包囲網を築きますが、肝心の武田信玄が三方ヶ原合戦後に死去。

逆に苦境を脱した信長によって京都を追放され、足利幕府十五代・240年の歴史に

幕を閉じました。しかし、義昭は信長と戦っていた毛利輝元の庇護を受け、本能寺の変

で信長が横死すると、新たに天下統一を進める豊臣秀吉は、義昭と対面。前将軍と

して京都に戻ることが出来、一万石級の大名として秀吉の御伽衆として、相談相手に

なったとされます。1597年、死去。

 

 

足利将軍について勉強が終わった後は、太宰府天満宮に移動。

このエスカレーターって本当に迫力ありますよね。

 

 

だざいふ園も魅力的だけど、暑いし、パス(笑)。

 

 

太鼓橋や、炭鉱王・伊藤傳右衛門が寄贈した鳥居を眺めつつ・・・・

 

 

梅が枝餅と、ざるそばで腹ごしらえした御来欧音一行でした。

勿論、やす武さんです!!