少弐政資に続いて、息子の少弐資元が多久に追い詰められて非業の最期を
遂げると、資元の子、少弐冬尚が跡を継ぎます。
冬尚の時代、少弐氏は宿敵・大内氏との戦いで頭角を現した重臣の龍造寺家兼
(龍造寺隆信の曽祖父)が台頭し、主家である少弐氏を凌ぐ勢力を誇るように
なります。
このような状況を苦々しく思っていた同じく重臣の馬場頼周は、少弐冬尚に
進言して龍造寺一門の大半を粛清。高齢の龍造寺家兼は筑後に引退させられ
ました。
しかし、人望と智謀を備えた名将・龍造寺家兼は一族の仇を討たんと密かに
準備を進めて蜂起。馬場頼周は小城で討たれ、少弐冬尚は家臣であるはずの
龍造寺氏と屈辱的な和睦を結ばざるを得ませんでした。
その後、龍造寺家兼の曽孫で、水ケ江龍造寺家出身の龍造寺隆信が龍造寺家
当主に収まったことで龍造寺一門に内紛が起こると、少弐冬尚は東肥前十九将
と呼ばれる国人衆、高木氏・八戸氏・小田氏などを誘って龍造寺隆信を再び
筑後に追放します。
龍造寺隆信は再び勢力を回復。以後、少弐氏を仇敵として憎み続け、遂には
江上武種・神代勝利・小田政光といった少弐冬尚を支えていた武将たちも
悉く龍造寺隆信に敗れて追い詰められた少弐冬尚は、江上武種の庇護を受けて
いた勢福寺城で自害。
鎌倉幕府の鎮西奉行まで務めた博多・大宰府・肥前の支配者・少弐氏は
遂に滅亡します。1559年のことでした。
この神埼市の真正寺は、勢福寺城の麓にあり、少弐冬尚の墓所がある古刹です。
以前から弟と行きたいと話していた、少弐氏最後の当主・少弐冬尚の墓所を
県道沿いで発見!感激です。
「三前二島(豊前・筑前・肥前と壱岐・対馬)の太守」と称された少弐氏最後の
当主の墓所というには、塔頭が一つ建つだけの寂しい場所ですが、盆前という
こともあってか、綺麗に草取り・清掃されていたのは救いでした。
龍造寺氏の跡を襲って江戸時代に佐賀の支配者となった鍋島氏でさえ、少弐氏を
顕彰することは喜ばなかったと思いますので、その様な時代を乗り越え、今まで
この墓所がきちんと守られてきたことに感激しました。
おまけ;少弐冬尚の意向を受け、龍造寺氏攻撃に参加した綾部鎮幸の居城
だった綾部城跡(綾部神社)。