長崎街道を巡る旅(8)田代宿(鳥栖市/対馬藩)~郷土を知らずして世界を語れましょうや!?2017 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
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筑前六宿と呼ばれた、黒崎~原田を過ぎると、当時の国境を越え、肥前国に
入ります。最初の宿場がこの田代宿になります。
江戸時代後期の記録では、「人家500件計、茶屋、宿屋多し」ということで
大変栄えた宿場だったようです。

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田代の町は、対馬藩領であり、藩主宗氏の飛び地として田代代官所が置かれ
ていました。現在、跡地は田代小学校になっています。

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田代代官所跡地に面した旧長崎街道の一部は、JR鳥栖駅を迂回する形で、
鳥栖スタジアムや小郡市方面、国道3号線、国道34号線、九州道鳥栖JC
を結ぶルートになっています。地元銀行がしっかりあることからも、
この地が未だに交通の要衝であることが分かります。

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田代代官所の周囲に広がる寺社町。ここは田代・八坂神社。

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浄土真宗・浄覚寺。

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浄土宗・西清寺。真宗は多いですが、浄土宗って実はあまり見たことないです。

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見事な楼門が印象的な天台宗・昌元寺。
当地の古い地名である、昌元寺町の由来となった古刹のようです。

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対馬藩校・東明館への入口跡。
東明館の名称は、現在でも地元の有名進学校に継承されています。

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上使屋跡。
上使屋とは、文字通り幕府の役人(上使)やオランダ商館長等が休憩・宿泊
した公的施設でした。

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民家の敷地に建てられた「広及舎跡」の立て看板。
廃藩置県後も遺った、対馬藩主・宗氏の広大な私有地を管理するために
発足した組織なんですね。現在でいうところの不動産管理会社のはしり。
旧代官所のスタッフ?が移動したというのが面白いです。

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幕府からのお触れなどを掲示した高札場跡。
かつては、この傍らに一里塚(約4キロごとに置かれた塚情の道路標識)が
設置されていたといいます。

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隣接する原田宿・驫木宿へ荷物を運ぶ人足・馬の乗り継ぎをした問屋場跡。
現在は、鳥栖を代表する企業・久光製薬の敷地の一角になっています。

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1655年以降に出来た、驫木宿方面へと延びる新道へと入っていきます。
赤い歩道は久光製薬が好意で自社の敷地上に設けた歩道です。珍しいですね。
法的には一般の道路ではない旨の鳥栖市の告知があります。

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鍋島直大や島津斉彬も宿泊したであろう、本陣跡。
目を閉じると、往時の賑わいが聞こえてきそうです。

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田代外町天満神社。江戸時代に地中から菅公(菅原道真)の像が出現する
という瑞祥が起こり、天満宮を勧進したそうです。

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田代宿の追分石。
「右さが、左くるめ」とはっきり刻まれていて実に面白いです。
田代宿西構口のはずれにあたり、驫木宿方向と、久留米藩(有馬氏)への
分岐点でした。交通事故による石の損傷を防ぐためか、ガードを被せた
ことで、字が読みにくくなっているのは残念です。

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少し足を伸ばして鳥栖駅と鳥栖スタジアムに挟まれた旧鳥栖機関区跡地へ。
現在は石碑が建つのみですが・・・

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往時はこれほど賑わっていました。
ちなみに、現在の長崎本線が出来る際、本来は長崎街道の要衝であった、
田代宿に鹿児島本線と長崎本線の接続駅が出来るはずでしたが、当時の
地元有力者の力で、鳥栖駅で接続する形になったそうです。

鉄道の町、鳥栖の歩みはここから始まったんですね・・・。

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長崎市で保存されていたC57形蒸気機関車C57-100の晴れ姿もありました。
もう撤去済でしょうか?