島原の乱の遠因となった名城・島原城(長崎県島原市) | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
江戸時代最後の内乱となった島原の乱。宗教戦争の様に描かれることも多いこの内乱の
遠因に、島原城築城があったことはあまり知られていません。
 
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島原藩主・松倉家の石高は4万石。しかし、城に近づくと、分不相応な巨城であったことが
分かります。この本丸石垣の高さだけでも築城に莫大な労力を要したことが一目瞭然です。
 
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堂々たる復元天守。初代島原藩主・松倉重政はキリシタン弾圧政策の一環として、
カトリックの拠点となっていたルソン島攻略を計画していたといわれ、この島原城も
肥前名護屋城のような遠征軍兵站基地とすることを企てていたともいいます。
 
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天守閣内部は郷土資料館/キリシタン資料館となっています。
 
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同じく復元建物の西櫓。結局、松倉重政はルソン出陣直前に病死し、キリシタン弾圧政策
を更に強力に推進した子の松倉勝家の代にキリシタン農民らが一斉蜂起。
父が遺した島原城は、攻め寄せた一揆軍を撃退したことで名城としての片鱗を見せました。
しかし、その島原城築城が農民たちを一揆に駆り立てたのは歴史の皮肉でした。
 
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口之津町から城内に移設保存されたという御馬見所。
 
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島原の乱後、幕府は外様大名を島原の地に置くことを避け、高力氏→松平氏→戸田
→松平氏の譜代大名が代々入りました。
 
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行ったのは丁度去年の梅雨の時期で、紫陽花が綺麗でした。
そろそろもう一雨欲しいですね。