【映画】リリーのすべて | 目指せ!脱コミュ障

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「リリーのすべて」 ("The Danish Girl") を観ました。

心が切り裂かれるような映画でした。

考察/感想を書きます。(私の考えだから違う可能性も大いにあり)

 

① ゲルダがリリーを支え続ける理由 

ゲルダは夫アイナーのことが好き。アイナーの顔/身体を有してるリリーの中に、ゲルダはアイナーの面影を感じずにはいられない。最初は、アイナーの中で「リリー」の存在が大きくなるにつれ、戸惑いを隠せず、 "I need my husband back" とリリーにすがる。だが、リリーは、"I'm sorry"と全く協力的ではない。目の前にいるのに、戻ってこないアイナーへの葛藤 (やるせなさ?) が終始物語から伝わってくる。そして、ゲルダは、「リリーはアイナーの形見」として、リリーを一個人として認め ("You're not insane"と支える)、守ることを決意する("I promised Ainer that I'll protect Lily"という台詞が作中に存在する)。

 

② なぜアイナーは戻ってこないのか

リリーの台詞に、下記のようなものがある。

"God made me a woman. Doctor is curing me from my disguise."

性同一性障害の方の気持ちをよく表した台詞だと思う。

リリーにとって、アイナーは真の姿ではなく、社会に適応するために身にまとっていた「変装」だった。「自分を自分として愛する」ためには、偽の姿であるアイナーは死ななくてはならない。ゲルダが自身にアイナーを重ねて愛し続けていることを自覚しながらも、ゲルダの望みに応えられないのは、「アイナーは幻」であって、永遠にゲルダに応え続けることができないから。演技し続けるのって、心苦しいし、つらいじゃん。

 

③リリーはちょっと自己中心的すぎるのではないか

リリーは、ゲルダに養われている。ゲルダは、リリーの意思を尊重し、リリーがパーティーに来ないことを咎めない。でも、リリーは、手術についてゲルダが客観的な意見を述べたり、薬を飲む量が増えていることを指摘しても、耳を貸さず、自分で全てを決めてしまう。

先述の"I promised Iner that I'll take care of Lily."という台詞には、 "But Ainer is dead. I have to take care of myself, Lily. I have my life."と返す。Yes you do have your life, but why won't you at least think about Gerda who worries about you ! と言いたくなる。リリーは、ゲルダが自分を支え続けてくれることに感謝しながらも、罪悪感や息苦しさを感じていたのかもしれない。 

 

④ ゲルダの苦しみ

リリーの誕生という未知の現象を、周囲から隠し、一人で背負い続けたゲルダに畏怖の念を禁じを得ない。(当時はwhat comes out in the house has to stay inside the houseって文化があったのかもしれないけど。) 「得たいの知れないもの」ってだけで恐怖 (ストレス大) だし、それを全て背負い込むのは気が狂いそうになるはず。リリーの純朴な笑顔を向けられるたびに、ゲルダの表情が固まるのは、すごくよくわかる気がした。

でも、もし私がゲルダだったら、リリーに "I know you love Ainer, but I have to let him go." とか言われたら、泣いちゃいそうだ。

リリーがゲルダに向けて言う "What you draw is what I become. You made me beautiful. You made me strong. Such a power in you."って台詞も、ゲルダは素直に喜べないだろうなぁと思った。

 

⑤ ゲルダがlesbian/bisexualだった可能性

このサイトに、「ゲルダがlesbian/bisexualだったから、リリーの性転換に積極的だった!」「どっちかというとアイナーよりゲルダが女性になることを望んでいたらしく、女性同士の恋愛を好んでいたみたい」「夫の女装に抵抗はなかった」との意見が書かれている。この意見は、偏見にまみれていると思う。

まず、自分がlesbianの絵を描くからといって、夫に「女になってほしい」と思うわけではない。私も百合ものは割と好きな女性である(絵面が綺麗だと思う)。でも、好きになるタイプは、ガッツリ「男」っぽい顔立ちの男性である。確かに、ゲルダは「中性的」で「引っ込み思案」のアイナーのことが好きであり、アイナーの中の女性っぽさに惹かれている可能性は大いにあるが、だからといって「女性になってくれたほうが自分の性的指向と一致して嬉しい」と思っているかは不明である。作風と性的指向を直結させるのは安直過ぎる。

さらに、男女の両方を愛するから「bisexual」なのであり、女性を愛する「lesbian」と並列で表記する意味がわからない。「女性同士の恋愛もありだし、男性も好きだからbisexual」で終了で良いじゃん。書いた人のLGBTへの理解のなさが伺える。

また、「夫を女装させてパーティーに連れて行く」っていうのも、「遊び」である。だから、ゲルダの性的指向とは直結しないと思う。この遊びは、ストレートの男女が、ふざけて女子同士、男子同士でキスしたり、女装/男装するのと同じノリなのでは。特に、女性同士の性的な描画を得意とする画家なら、当時の価値観的にもかなり「自由」で「ぶっとんでる」女性だったと思う。

まぁ、ゲルダが (当時の価値観に囚われない) 「自由」な女性だったからこそ、自分の考えを断固として抱き、リリーを支えることが出来たというのは非常に納得がいく。

 

⑥リリーが「統合失調症」と診断されていたことについて

性同一性障害に理解のある医者に出会うまで、リリーは医師たちから "insane"と言われ、統合失調症との診断を下されていた。確かに、統合失調症の特徴的な陽性症状に、「妄想」がある。だから、「統合失調症」と診断されたことも不思議ではない。

ただ、ここで、ふと「妄想」って言葉の広さに気づくことが出来た。エピソードを聞いた精神科医が、「妄想」って判断するのは容易である。でも、だからといってリリーに抗精神病薬が効いたとは思えないし、抗精神病薬の処方が最適な手段ではないと確実に言える。統合失調症の疫学研究が難航している理由に、「実は統合失調症は『症候群』である」という説がある。リリーの件は、まさにいい例だと感じた。

患者が幸せな社会生活を送るために、治療はある。そう考えたとき、「妄想/思い込み」を亡くすのではなく、「妄想/思い込み」の実現の手助けをするというアプローチがあるのだということに気づいたのは大きな成果だと感じた。