【本】砂の女 | 目指せ!脱コミュ障

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安部公房の「砂の女」を読んだ。

 

非常によく練られた小説だった。

科学的知見を元に砂の脅威を描き出しており、「砂の穴の中で生きる」という非現実を追体験できる。

そして、おそらく当小説一番の見所は、理不尽に自由を奪われた主人公の心情の変化を通じ描き出される「自由とは」「幸せとは」「人間とは」という壮大な命題であろう。

 

女は言う。「もう走るのに疲れたから。ここにきたんです。」 (※引用ではなくうろ覚え)

女の「走る」は、「戦火から逃げる」という意味である。この土地には「平和」があった。砂かきをしていれば衣食住に事欠かない (?) 「奴隷」としての生活に、彼女は大きな不満を抱いてなかった。

男にとって、「ここ」は、制限ばかりの「牢獄」であった。だから、ここから逃げようとしていた。しかし、月日が経ち、脱獄の機会が巡ってきた時、男は逃げなかった。振り返れば、外の世界にいた頃も、男は満たされていなかった。楽しいことも沢山あったが、不満なことも沢山あった。「自由」の中に、本当に「幸せ」があるのだろうか?

男は、「諦め」た後、新たな環境に「順応」し、「変化を拒絶」した。まさに、砂に殺されていく村と同じ思考回路である。村は、「狂気」を象徴しているわけでなく、「人間の自堕落な本質」を象徴しているのかもしれない。精神医学的な単語がありそうである。

 

男は、「いかにも」インテリであった。日本社会の男女性に与えられた力関係に基づく精神的強姦を嫌い、生徒および社会に対する教師の存在意義を悩んでいた。そして、男は、女を蔑んでいた。狂気に満ちた村の風習に疑いなく従う馬鹿な女。嘘をついてまで自分を誘惑する卑しい女。男も、当初は、現代社会の秩序に期待し、希望を捨てずにいた。だが、「自分」が社会から見たらちっぽけな存在であり、現代社会の救いの目から自分が既に抜け落ちていることに気づくと、男の自己中心度はどんどん増していった。精神的に追い詰められていたからというのもある。だが、女を性欲処理の道具と見なし、蔑みながらも抱く様子は、当初の男のイメージとは大きく異なる。

私たち「人間」は、社会の中で「理性」を形成&保持させられており、社会がなくなったら「自己中心的」な「野性」が抑えられなくなる動物であるのかもしれない。

 

著者の安部公房が東大医学部卒ということで、精神科医として臨床を診られた経験があるのかとても気になるところである。