高慢な者は卑しい者とされ、謙遜な者には大きな名誉が与えられるのです。 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

私はエホバの証人の組織に交わっていた頃からずっと、

「(エホバの証人以外の)間違った宗教全体が〝大いなるバビロン〟である」

という解釈を疑問視していました。

 

十代の頃、縁あってプロテスタントの一派の方々と関わる機会がありました。

牧師と大学?の教師?を兼任されておられる方とお話させて頂いた時は、

正直言って聖書そのものの知識(理解度ではなく)に精通されているとは感じませんでしたが

結局のところ同じ「源」から学んでいるわけですから、悪い印象は一切ありませんでした。

特に、敬虔な信徒様の多くが布教に関係なく慈善・福祉の活動に精力的に励んでおられる

ことに深い感銘を受けました。

 

仏教については今も昔も詳細な知識などありませんが、

キリスト教(主に中世から近世のカトリック)ほど血生臭い権力主義なイメージはないし、

悟りを目指して欲を捨てていく?生き方を説く教えそのものも、有害に思えませんでした。

 

だから世界中の宗教団体すべて

邪悪な「大いなるバビロン」として裁かれるのは違和感しか無かったんです。

 

というわけで「大いなるバビロン」ついての話をします。

今回、批判的な意見は控えめ。

 

 

 二人の男が祈るために神殿へ行きました。

人は自尊心が強く、あくまで自分を正しいと主張するパリサイ人、

もう一人は、人のお金をだまし取る取税人でした。 

パリサイ人は心の中で祈りました。

『神様。ありがとうございます。私はほかの人々、

特に、ここにいる取税人のような罪人ではありません。

人をだましたこともなければ、姦淫したこともありません。 

一週間に二回は必ず断食し、全収入の十分の一もきちんと献金しています。

一方、取税人は遠く離れて立ち、目を伏せ、悲しみのあまり胸をたたきながら、

『神様。罪人の私をあわれんでください』と叫びました。 

よく言っておきますが、罪を赦されて帰ったのは、パリサイ人ではなく、この罪人のほうです。高慢な者は卑しい者とされ、謙遜な者には大きな名誉が与えられるのです。

 

ルカの福音書18章10節-14節 (リビングバイブル)

 

 

エホバの証人の組織は

 

① エホバが世界中の国々を指す〝獣〟を使って

  間違った宗教全体を指す〝大娼婦〟を滅ぼしつくすように仕向ける

 

残った地上のエホバの民を、世界中の国々の連合体が総攻撃をかける

 

③ エホバがぶちきれててきをみなごろしにしてハッピーエンド

  ちなみに天に召される144,000人も参戦すると仰られているので

  要は自分達もジェノサイドしまくるゾってことですかね?

 

自分達にとって都合が良すぎる妄想としか思えない未来予想図を公式教義にしてきました。

 

人間は未来を言い当てることができないというのはエホバの証人自らが証明してきた事実であり

彼らの予言が100%当たらない!と断言することもできないので

大いなるバビロンこと大娼婦についての解釈が正しいかどうかについて考察をしていきます。

【〝大娼婦〟の〝姦淫〟】

ヨハネの黙示録17章の2節、18章の3節では、

大娼婦が地の王達と姦淫を犯したと書かれています。

 

文脈的に、〝娼婦〟という語は生計を立てるための生業として行っている女性というよりは

みずから放縦かつ下品に誰かれ構わず交わる淫らで不誠実な女性を指していると思われます。

 

エホバの証人の刊行物のいくつかは、エゼキエル16章を例に挙げて

古代イスラエルが神の民として神との契約関係にありながら、神に頼らず他の周辺諸国と同盟を

結ぶという「不倫」のようなな行為を、黙示録の大娼婦の売春行為と関連付けています。

古代イスラエルと同じで、宗教が政治・国家と関わることを不倫だと考えているわけですね。

 

ということは、「アブラハムの神」を信奉する一神教を除く全宗教が〝姦淫を犯す娼婦〟の

定義から外れます。

「アブラハムの神」を崇拝しているのはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教で、

そのすべてが旧約聖書を聖典や啓典として扱っていますが、

旧約聖書の神は「万物の創造者」ではあるものの、アブラハム契約により神の民として選んだ

イスラエル国民だけの崇拝対象であり、他の諸国の多神教や偶像の崇拝を基調とする異教とは

聖書の中ですら、ほぼほぼ接点がありません。

だから出エジプト記によるとエジプトのファラオが「(イスラエル人の)神とは一体何者だ」と

馬鹿にした発言をしています。

神から偶像崇拝を禁忌として禁じられていたのも、「神の民」とされるイスラエル人だけです。

出エジプト記以降の神は、他民族に対しては、彼らがイスラエル人と何らかの接点が無い限り

みずから「神」として振舞い、崇拝を求めるような描写がほとんどありません。

異国に介入する場合は、概ねイスラエル人を守ったり、目に余る暴虐行為を止めるためです。

基本的に異国の異教徒は何を崇拝していようが我関せずというわけです。

 

キリストの到来により「イスラエル人だけの宗教」ではなくなり全人類に道が開かれましたが

使徒パウロはローマ人への手紙で下記のように述べています。

 

神は一人一人に、その行いにふさわしい報いをお与えになります。 罪を犯し続ける人には、

ユダヤ人にも外国人にも、同じように悲しみと苦しみが降りかかります。 

反対に、神に従う人にはだれであっても、神からの栄光と栄誉と平安とがあります。 

神はすべての人を公平に扱われるからです。

外国人が罪を犯した場合、たとえ彼らが文字に書かれた律法を知らなくてもさばかれます。

彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。その心の中には、

律法が書かれているのです。つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、

また時には弁護したりするわけです。

ユダヤ人が罪を犯した場合は、神が彼らを罰せられます。

律法が与えられているのに従わないからです。

彼らは何が正しいかを知りながら、実行しません。結局のところ、

なすべきことを知りながら実行しない人はさばかれるのです。 

神の命令によって、キリスト・イエスが、すべての人の心の奥底に潜む思いや動機を

さばかれる日が、必ず来ます。このことは、私が伝えている神の偉大なご計画の一部です。

 

ローマ人への手紙2章6節、9節-16節(リビングバイブル)

 

裁きの基準は人間一人一人が己の良心に従っているかどうかで決定されると書かれており、

神から律法が与えられている人々は、その律法に従っているかどうかで判決が下されると

書かれています。

 

エホバの証人が言うように神がご自身の宗教と政治と関与を望まれないとみなすとすれば

それは「聖書の神」を崇拝するグループだけに当てはめるべきでしょう。

他の宗教は「聖書の神」を裏切って「不貞行為」をしているわけではありません。

あえてキリスト教的に断罪するとすれば「偶像崇拝者」にあたるかもしれませんが、

モーセの律法下にいた古代イスラエル人の「偶像崇拝」とは意味合いが全く異なります。

 

エゼキエル等の旧約聖書中の事例をもとにして

宗教が政治国家と関わること自体を神に対する不貞行為だと考えるのであれば、

アブラハムの宗教以外の全宗教とは無関係の話なので、

〝姦淫〟を犯している〝大娼婦〟になぞらえるのは不適切であると断言できます。

 

 

【〝大娼婦〟の〝殺戮〟】

 

黙示録の17章6節および18章24節では、

大娼婦が地上で殺害された全ての人間の殺戮に関連しているとし、その重罪を責めています。

特に注目すべきなのは、聖徒(聖なる者)とイエスの証人血に酔っているという部分です。

この大娼婦は、神から見て心の正しい人々を好き好んで殺害する存在ということになります。

 

もし「聖徒とイエスの証人」が、エホバの証人の多くが思っている通り、

「エホバの証人」および1世紀のクリスチャンと「小麦」と呼ばれる善人達だと仮定したら。

世界中のほとんどの宗教が「大娼婦」から除外されます。

「エホバの証人」を虐殺したり、信者達の命を危険に晒すほど激しい迫害をした宗教組織は

仮に存在するとしても、非常に限定されるからです。

宗教上の理由に関わりなく信者達「エホバの証人」や過去のクリスチャン達を「殺害した

ことが問題なのであれば、東アジアの諸宗教は完全に無関係であると断定できるでしょう。

 

「聖徒とイエスの証人」が字義通り、古今東西を問わず神から見て心の正しいクリスチャン

全体を指す、と考える場合には解釈が分かれるかもしれません。

宗教改革により生まれたプロテスタントには「大娼婦バビロンはローマ・カトリックである」

と断罪をする人達がいますが、

エホバの証人の成り立ちを考えると、それぞれの提唱する解釈に通じるものがありますね。

 

 

大娼婦の特徴は

 

・「地の王たち」と無節操で淫らな不貞行為を繰り返している

 

・ 預言者、聖徒、イエスの証人達を積極的に殺害してきた

 

以上の2点です。

 

少なくとも日本の神道や仏教は明確に当てはまりません。

キリスト教の諸宗派の中でも新しいグループの多くは、やはり該当しないでしょう。

だから当然「エホバの証人が大いなるバビロンである」というのも妥当ではありません。

 

じゃあ、上記の2点に当てはまる団体があるとすれば一体なんなのか?

―――かなり候補が絞られます。

 

ただ自分自身が属していた宗教以外の組織・団体に対しては、批判的なレッテル貼りは極力

したくないので、そっちの考察は書きません。

 

 

エホバの証人は、

エホバの証人以外の間違った宗教全体は

古代バビロン由来の信仰や慣行の影響を受けているから「大いなるバビロンである」

という理由付けをしています。

 

これは、純粋な悪意に基づいたレッテル貼りです。

まず聖書そのものに根拠が一切ありません。

考古学、歴史学上の情報を持ち出して、自分達にとって都合の良い解釈をしているだけです。

自分達だけを持ち上げて、他の思想の人々すべてを貶めようとする意図しか感じられません。

 

そもそも、これはエホバの証人も主張していることではありますが、

多くの宗教は互いに対立し合い、時には殺し合いまでしてきました。

キリスト教について言えば、全く同じ神を崇拝しているにも関わらず信仰の形態が異なるので

思想の相違による激しい衝突が起きるのは不自然ではありません。

あらゆる宗教を寛容に受け入れる日本人には分かりにくいことかもしれませんが、

一神教の多くの敬虔な信徒にとって、信仰、信条は異教徒と相容れるものではないのです。

 

そんな多種多様・玉石混合・有象無象の、星の数ほど無数に分かれている宗教団体を、

全部ひっくるめて「偽りの宗教の世界帝国」呼ばわりするのは道理にかなっていません。

 

 

ちなみに。

 

今現在、主流な宗教の多くは、過去に起こした問題の数々に、真摯に向き合っています。

 

たとえばローマ教皇。

かつてカトリック教徒がカナダの先住民族の子供たちを施設に強制収容して虐待したことを

現地に出向いてみずから謝罪しています。

彼自身がその蛮行に携わったわけではありませんが、組織の代表者として責任を負いました。

戦後、教皇達はありとあらゆる形で、カトリックが行ってきた所業—

 

―十字軍の虐殺、ガリレオの地動説、聖職者による性被害—

 

―について、組織としての非を認めたり、謝罪してきました。

 

 

エホバの証人として育ったがゆえの偏見を抜きに見ても、

ローマ・カトリック教会の歴史ははっきり言って血塗られています。

組織として絶大な権力を持った上で、国や組織の内外の無数の人々を傷つけてきました。

 

しかし、だからこそ、その罪とは、個人としては無縁であるはずの近現代の教皇達が、

組織の代表者として、組織としての責任を認め、被害者に謝罪し、和解を求めています。

 

グローバル化によって多種多様な思想が入り乱れる現代、

図体が極めて大きい国際的な教団だからこそ、世間体を重視しているのかもしれません。

組織に対する悪評は信者の立場を悪くします。だから大昔のことでも非は認めるのです。

 

かつてはいがみ合っていた他団体とも関係改善に努めています。

カトリックと東方正教会とは11世紀に互いを破門することで分離しましたが、

20世紀には互いの破門が解かれました。

近年では教皇と正教会の総主教の直接対談が行われています。

(これは当時猛威を振るっていたISの存在も関係しているようですが)

 

日本の仏教関係者も、太平洋戦争下で宗教組織として帝国に加担してしまったことには

重い責任があると公言している方達がいます。

 

今はあらゆる宗教が、負の遺産と向き合ってます。

 

 

エホバの証人は、

三位一体などの「異教」の要素を排除したから、自分達の崇拝だけが清いと思っているし

政治に関与していないから、自分達だけが「世のものではない」と誇っています。

 

そんなエホバの証人の刊行物「エホバへの清い崇拝 ついに回復される」の一部を紹介します。

 

エホバの聖なる名を汚(す)ような人達について、エホバがどう感じるか(中略)。

 キリスト教世界はその点でとりわけ大きな罪を負っています。

 無数の教会が、聖書の神に仕えていると主張しているからです。

 (中略)滅びを迎えることに、疑問の余地はありません」(166ページ)

 

何の希望もありません」(166ページ)

裁きが覆ることはありません。それらの宗教が許されることは無く、

 歩みを改める機会を与えられることもありません」(168ページ)

 

キリスト教諸宗派に対し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、徹底的な断罪が強調されています。

 

でも・・・

「エホバの聖なる名」を掲げているグループはエホバの証人しかいませんよ。

エホバの証人の組織は「エホバ」の名のイメージを良いものにしていますか?