多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである | 元J民の色々考察ノート

元J民の色々考察ノート

思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

エホバの証人の信者達が「忠実で思慮深い奴隷」を名乗る「統治体」「絶対的な服従」

貫いてきた結果、色々と大変な事態が起きています。

 

「子供を懲らしめの鞭で打て」と命じられれば100発だってぶっ叩く。

「輸血はエホバが喜ばない」と指示されれば家族だろうと見殺しにする。

「排斥された家族には挨拶もするな」と命じられたら家族だろうが徹底的に関係を断つ。

「排斥された人を記念式に誘いましょう」と命じられたら手の平返しで擦り寄ってくる。

 

後ろ指を指されようが、迫害を受けようが、社会的な非難を浴びようが、

「忠実で思慮深い奴隷」の指示に従うため「ベストを尽くした」結果がこのざまです。

全員が好き好んで従ったわけでは無いはずです。疑問を抱いた人たちもいるでしょう。

しかし納得いかなくても」「理解できなくても」「従順に従いなさいと教わっているから

多くの信者が「自分で判断する」のではなく「上からの教え」を固守することを選びました。

 

ところで、聖書の中で「忠実で思慮深い奴隷」はどのような存在として描かれているのか。

それについて触れたいと思います。

 

 

そこで主が言われた。「主人が、召使たちの上に立てて、

時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。 

主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。 

よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 

しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき

そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、 

その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。

そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。 

主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、

多くむち打たれるであろう。 

しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。

多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。

 

ルカによる福音書12章42節-48節 

 

 

まず、私はエホバの証人の宗教指導者が「忠実で思慮深い奴隷」を自称していることに対して

否定する気はありません。

 

宗教団体には教義を説く「教え手」がいるのは当然であり、

信者達の秩序を守るためのルールを制定したり、

教団内外のあらゆる問題に対処するための「管理者」も必要です。

規模が大きくなれば、組織全体の指揮系統を統括する「本部」のリーダーが必要になります。

 

エホバの証人の宗教指導者も、教材を作成し、組織を管理し、宗教活動を指揮していますので

彼らの「立場」そのものに異議を唱えるつもりはないし、そのような立場にもありません。

 

提起したい問題点は、以下の2点です。

 

・権力と立場を持っている者は、大きな責任も負う

・聖書中に予告されている『忠実で思慮深い奴隷』は

 常に絶体に正しい存在であると保証されていない

 

まずは一点目について。

 

エホバの「統治体」の「権力」や「立場」が、組織内で極めて高位に設定されていることは

言うまでもないことです。

「羊とやぎ」についての解釈の考察でも触れましたが、

宗教指導者達は自分達が「キリストの兄弟」であるとした上で、

「自分達」に忠実に従い、精力的に支援することで羊として救われると教えてきましたので、

実質的に「万民の救済は我々に従うか否かに依存している」と主張していることになります。

 

―――これだけではありません。

エホバの証人は1914年以降「神の王国は支配している」と教えてきました。

エホバの証人が「中立を保つ」――政務活動を行ったり政治運動に参加することのみならず

選挙での投票、国家や校歌の斉唱まで禁止される――ことを命じられているのは

「神の王国」と関連付けられています。

たとえば「神にずっと愛されるために」という書籍の5章では、

「外国に駐在する大使は現地の政治に関わらない」という例が挙げられています。

実在する「神の王国」に所属しているから、この世の政治に関わるなと言いたいのでしょう。

 

この指示を出している「統治体」の母国語は「Governing Body」です。

管理機関、運営組織、理事会など一般的な「管理者のグループ」を意味するようですが、

「Governing」には文字通り「統治する、支配する」の意味もあります。

※「Governing Body」で画像検索するとJW統治体の顔写真が大量に出てくるあたり、やっぱりJW統治体を指すことが多いのかな?

現在キリストが地上に存在していない以上、

「神の王国」でキリストの「共同支配者」として「王」となるとされる「統治体」は、

現存する「神の王国」の支配者であり最高権力者自称していると言い換えられます。

「お前らの支配者はお前らの国の政治家ではなく俺達!」と主張しているんですね

 

ということは・・・

キリストは「わたしを通してでなければ父のもとにくることはできません」(ヨハネ14:7)と

言われていますが、

エホバの証人も「統治体を通してでなければ救われません」と、教えられているわけです。

信者達にとって「神の王国を代表する地上の組織」の最高指導者は、まさに神の代理です。

だから皆がエホバの「経路」だからこそ服従しなければないという義務感を抱いています。

 

 

つまり彼らが判断を誤れば、信者全体が判断を誤ります。

彼らが「神の不興を買えば」信者全員が巻き込まれます。

だからこそ責任感を持つべきでした

 

 

―――「狼少年」というイソップ寓話があります。

羊の見張り役の少年が「狼が来たぞ」という虚偽で騒動を起こすことを繰り返していたから、

本当に狼がやってきたときには誰からも信じてもらえず、羊は全て食べられたという話です。

 

「もし」エホバの証人が本当に「真のクリスチャン」だと「仮定」した場合。

「組織」「大患難」「千年統治」の開始時期について間違った情報の発信を繰り返し

それにより失望させられた多くの人々が信仰を捨てたにハルマゲドンが起こるとしたら、

「組織」は間違いなくキリストから責任を負わされるでしょう。

「神の代表者」が真実を誤認させるとは、そういう血の罪です。

 

「世代」に関する見解の改変の繰り返しは有名なのであえては掘り下げません、が

「間違ってしまったことは仕方ない」にしても、

宗教指導者は間違った期待感(または恐怖感)を抱かせたことを謝罪しましたか?

文化の違いゆえ「ごめんなさい」を言う発想そのものがないにしても、

間違った情報を信者全体に広めたことを組織が犯した重大な過失と認めましたか?

 

災害時に避難を呼びかける「警報」は被害の大小にかかわらず必要な存在ですが

組織が行ったこととはまったくわけが違います。

信者に求められていたのは「命を守るための一時的な緊急避難」ではありません。

組織の求める生き方―――「宗教活動にできる限りの時間を費やし、迫害にも耐え忍ぶ

これを最後まで続けなければならないのに、タイムリミットが幾度も変わるのですから、

延期される期待は心を病ませます。

 

この手の話題で、組織の中で何度も耳にしたのは「『時』に信仰を抱くのは間違っている」という意見です。

たしかに「自分が期待していた時期までに終わりが来ないなら信仰を捨てる」というのは

本当の意味での信仰心とは言えないかもしれません。だとすれば、そのような考え方を助長する者、

つまり具体的なタイムリミットを吹聴して、偽の「時」に信仰を抱かせるように皆を煽った人間が一番悪い。

 

組織の上層部は昔から今に至るまで、組織としての公式な発言に

責任が伴うという認識そのものを持っていないように思います。

 

だから同じ失態を繰り返すし、

それが失態だと明らかになっても、謝罪することも後悔することもなく、

インスタントの「新しい光」を恥じらいもなく吹聴します。

 

は目的に関する理解を漸進的に明らかにされる」と言っていますが、

右往左往する公式見解でたくさんの人を振り回したにそれを言うことは

自分の判断ミスを神になすりつけている行為だと分かっているのでしょうか。

 

組織の管理者としての責任感そのものを持っていないから、

組織内で「打ち叩かれ」た人々の存在も気にしていません。

その件で体制の制度を咎めだてされても、批判されたことに対する不服を表明するだけで

被害者の声を受け止めようとすらしないのでしょう。

 

いずれにせよ与えられたものが大きい者は、より大きな責任も負わされると書かれています。

発言に責任を担う気が無いのであれば、はじめから「神の経路」として神と信者の間に自分を

置いて、信者が自分達に依存する状況を作るのは控えるべきだったのではないでしょうか。

 

 

そして二点目

聖書の予告は「忠実で思慮深い奴隷」が常に絶対的に正しい存在とは保証していません

 

聖書の中で「神」「キリスト」「王国」「忠実で思慮深い奴隷」決定的に異なっている点。

「忠実で思慮深い奴隷」は、不徳を致して処分される可能性について書かれています。

 

もし統治体が本当に神から「忠実で思慮深い奴隷」として任命されていると「仮定」する場合。

彼らが、に、絶対に正しい選択をするという保証はされていないことを、従う立場の人々は

認識しておく必要があります。

 

 

この考え方は、宗教全体にも当てはまります。

聖書によれば、「神の民」つまり神様との契約により庇護を受けていた国民は

古代イスラエル人だけであり、旧約聖書の「ストーリー」部分のほとんどは

古代イスラエル人の歴史の変遷にかかわるものです。

 

聖書によると、神様は「神の民」イスラエル人をエジプトの隷属状態から開放し、

肥沃で住みやすい土地に導き入れ、周辺の敵国との戦争では勝利を与えました。

しかし、イスラエル人が「諸国民」―――エホバの証人の言うところの「世の人間」――

以上邪悪になり、「神の名前」を汚した時は、

(エゼキエル書5章6節、36章21節-23節、43章8節)

「神の民」であるはずのイスラエル人だけが滅ぼされました

キリストの死後の、ローマ軍により実行された滅びについて言えば、

その時点でイスラエル人はすでに「神の民」では無くなっていました。

パウロはローマ人への手紙12章で「枝」と「接ぎ木」のたとえ話で、

「枝」にたとえられる者達が無用な存在として切り落とされ、

この手紙が送られた人々が、代わりとなる「接ぎ木」であると語りました。

聖書の神様は、改心の機会は幾度も与えますが、ひとたび完全に見限れば

躊躇いなく代わりとなるものを用意されるので、

「どこに所属しているか」は救いの条件とはならない、という教訓です。

 

そして、ローマ軍による侵略によって命を失ったユダヤ人は、

すべてが邪悪なわけでも、すべてがキリストに敵していたわけでもなかったはずです。

しかし彼らは、ただ「その場所」に居たという理由で、

「国全体」に向けられた断罪による裁きに巻き込まれてしまいました。

間違いなく「神の国」であったはずのエルサレムから逃げなければ救われなかったのです。

 

 

もし神が選び抜いた「真のクリスチャン」なるものが本当に存在すると「仮定」する場合。

「真のクリスチャンだから必ず保護される」などという「グループとしての救済」の保証は

されていません

それを構成する「人々」、もしくは「組織」そのもののいずれかが自分達の行いによって

神の名前を汚す事態になれば、全体として処分されます。

そうなると、一般の信者達も無関係ではいられません。自分自身を守るため、適切な行動が

求められます。

つまり、所属する宗教組織に対する信仰は、意味がありません

 

 

・・・・・・

 

宗教指導者は、組織の「秩序」を維持し、組織体制を「管理」するために存在します。

だから、その組織に所属することを望む立場の人間が、

指導者が組織内で定めている指針には従うべきである、というのは間違っていません

 

ただ「他人」に盲従する――自分の意思決定をすべて委ねる――のは愚かな考えです。

それによっていかなる不利益を被っても「他人」はいかなる責任も取ってくれません。

自分の命運に責任を負うのは自分自身です。

 

 

ユダヤ人の指導者やパリサイ人たちが、あまりにたくさんの戒めを作り上げているので、

あなたがたは、彼らをまるでモーセのようだと思っているでしょう。 

もちろん、彼らの言うことは、みな実行すべきです。言っていることは良いことなのですから。だが、やっていることだけは絶対にまねてはいけません。

彼らは言うとおりに実行していないからです。

 

マタイによる福音書23章2節、3節(リビンングバイブル)

 

 

「忠実で思慮深い奴隷」に対する信頼は、救済を保証するものではありません。

聖書によれば、かれらは完全無欠の存在ではありません。