神の国で一番小さい者でも、ヨハネよりずっと偉大なのです② | 元J民の色々考察ノート

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前回は、タイトルに掲げているこの言葉が

バプテスマのヨハネが天国に行く資格が無いことを証明する根拠になるかどうか、

という考察をしました。

 

ただ、この聖句を着眼点にして、キリスト以前の善人と

キリスト以後のクリスチャンの間に線引きをする考えを否定する気はありません。

そのような考え方には、聖書中に根拠が存在しています。

 

その上で、聖書においてキリスト以前の善人の行き先が「地上」ではなく

「天国」が妥当と思える根拠として、下記の聖句を紹介します。

 

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。

まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、

そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。

 

ヘブル人への手紙11章13節-16節 (1955  口語訳)

 

パウロはヘブライ人への手紙の中で、アブラハム、ノア、エノクなど、

豊かで華やかな俗世に浸らず、神の望みに従ってストイックに生きた人達について挙げ、

彼らはこの地上を一時的な仮住まいとしか見ておらず、

天にある故郷に帰ることを期待していた、としています。

 

この言い回しを見る限りでは、アブラハム達『自身』は、

「天的な希望」を抱いていたとも受け取れます。

 

しかし、同じヘブライ11章の後半では、

彼らは天国に行かなかったと思わせるような章があります。

 

さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、

約束のものは受けなかった。

神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、

わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

 

ヘブライ11章39節-40節 (1955  口語訳)

 

使徒言行録2章34節では、「ダビデは天に昇っていない」とも言われています。

それでは、キリスト以前の善人達は、

天国に召される資格が無いと解釈するべきなのでしょうか。

 

前回の記事でも書いていますが、

前提として、人類はキリストの死によって永遠の命を得る希望を与えられたというのが

キリスト教の基本となる教えです。

それを前提に考えると、ヘブライ人への手紙が書かれた当時のクリスチャンが

天国に行く資格を得たのは、キリストの死より後であると言えます。

つまり・・・

 

ヘブライ11章39節~40節が言おうとしていることは、

当時のクリスチャンは、キリストの死によって「天的な希望」を

最初に享受することができるグループとなった―

一方で、彼らの世代より以前のキリスト以前の善人達は、

死んだ時点では天国に行く資格が与えられていなかった―

 

もしキリスト以前の善人達と、キリスト以後のクリスチャンの間に線引きをするなら

このように解釈する方が不自然はないように、個人的には感じます。

 

この線引き、および復活の時期については、聖書の読者一人一人および各宗派によって

多少なり解釈が分かれると思われるので、決めつけるような発言はできません。

(当然エホバの証人に近い解釈も存在します。エホバの証人の方が真似ていると言うべきか?)

 

ただ、キリスト以前の善人が皆絶対に天の国に行くことが無いと断定してしまうのは、

普通に聖書を読む限りでは、無理があります。

 

私がエホバの証人を信じることができなくなった主要な理由の一つが、

「天的な希望を持つグループ」と「地的な希望を持つグループ」に切り分ける

解釈に対する疑問でした。

特に、現在のクリスチャンが「油注がれた144,000人」と「それ以外の大群衆」に

二分されるという考え方は、

今も、エホバの証人固有の数ある教えの中で一番問題のある教理だと考えています。

 

このあたりについては、またいずれ。

 

 

 

ちょっと余談になります。

 

今回ご紹介したヘブライ人への手紙に登場する「天のふるさと」というワードは、

エホバの証人の使用する聖書だと、英語訳では(たぶん新旧いずれも)

a better place, that is, one Belonging to heaven」となっているのですが、

参照資料付き聖書(以前に配布されていた黒色版)の和約は

天に属する場所、と訳しています。

それに対し、最新版の新世界訳聖書では、

と関わりのある場所、と訳が変わっており、キリスト以前の義人たちの行き先が

天ではないという主張を強調する目的で意訳している可能性が考えられます。