”お父さんに 復讐するために成功しました。” | ハッピーナビゲーター・カウンセラー 弓明子(ゆみあきこ)

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あなた本来の本質の輝きでこれからの毎日を生きていきましょう。

弟から見た私と母の関係から、いかに私の記憶が、自分の思い込みにより都合よくゆがめられ強調されて記憶されているか、を、検証しましたが

 

今度は、成幸小説家として活躍している 弟・犬飼ターボと父との関係のターンです。

 

「お父さんに復讐するためにビジネスで成功を目指していた」

 

弟ターボと父の関係が、私からはどう記憶されているか。

 

 

まずは弟視点を読んでみてください。

そして戻ってきてくださいね。

読んできました?

 

姉が言うのもなんですが、さすが、プロの小説家。

 

ここまで完璧に考察してあると、もう充分な気もするのですが、

 

 

今回のテーマは

 

「記憶の捏造」

 

人は自分の思い込みに都合のいいように記憶している。

 

記憶が、いかに曖昧でいい加減なものかということ。

 

 

この検証も含めて、せっかくなので、私の記憶も並べていきましょう。

 

 

☝🏻お父さんってどんな人?

 

 

 >ブログ引用

1、幼いころの父の印象は二つ

 ①よその人

 

うちの父は、猛烈なサラリーマンで朝7時前には出社し、帰ってくるのは夜9時。

 

土曜日も当然に仕事に行き、日曜日も出社することがありました。

 

そんな状況だったので、父とは顔を合わせることがほとんどなく、時々見かけるよその人という感じでした。

 

 

ええええええええーーー🤣🤣🤣

そう来るか!??🤣🤣🤣

 

 

 

父は平日の朝は7時前に出勤、帰りは夜9時過ぎで、深夜になることもザラ、それでも終わらず、日曜日も出勤になることが多く、たまの休みの日も、趣味に出掛けていて、家にほとんど居ませんでした。

 

が、

 

 

父はどんな天候でもロードバイクで出勤 

 

その時、母に起こされ玄関でお見送りすると、お土産に父からサイコロキャラメルを渡されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、通勤途中の道がリビングの窓から見えて

 

「お父さん、いってらっしゃーい」

 

と、大きな声で叫びながら手を振っていました。

 

そうすると父が片手を離して、手を上げてくれるんですよね。

嬉しかったですね。

今思い出しても温かい気持ちになり、父への感謝が溢れてきます。

 

毎朝7時前、今思うと寝ているお宅もあったでしようから、相当ご近所迷惑でしたでしょうね🤣(笑)(笑)(笑)

 

 

 

それは、家族のために働いているのに、仕事仕事で、子どもたちとほとんど会えない父のために、せめて朝だけでも会わせてあげたいと、母が編み出したと聞いたような記憶があります笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

おがあざぁーーーん笑い泣き笑い泣き笑い泣き

なんて素敵なおがあざんなんだぁーーーーー笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

 

大人になってから父から聞いたのですが、

サイコロキャラメルは、子どもたちにお見送りしてもらうのが嬉しくて、父が忙しい合間を縫って、買ってくれていたそうです。

 

当時お店では、いつもたくさんサイコロキャラメルを買う父のために、多めの在庫を用意してくれていたと、嬉しそうに教えてくれました。

 

 

なので、ターボも父に毎朝会ってサイコロキャラメルをもらっていたと思います。

 

そういえば、ターボが幼稚園の頃かな?

突然、母に起こされても起きて来なくなり、父の見送りはせずにギリギリまで寝ているようになった記憶があります。

でも、サイコロキャラメルはちゃっかり貰っていたんじゃないかな?

幼すぎて覚えていないのかもしれないですね。

 

 

確かお見送りは、父が車で通勤するようになるまで続けていたと思います。

父がマイカー通勤は楽だったけれど、家の窓からのお見送りがなくなったのは寂しかったと言っていました。

 

 

そして、スポーツカーの展示会?にも、ターボが外車が大好きだからと、連れて行って貰っていましたよ。

父も車好きだったと思います。

父は弟と共通の趣味が持てたことをとても喜んでいた記憶があります。

 

 

>ブログ引用

②怖い

 

そして、突然に怒ります。

 

家では口数が少なかったのですが、何か行儀が悪いときなど

 

「ドゥ!」と大きな声を出すのと当時にテーブルを叩くのです。

 

飛び上がりました。

 

その前に注意もされたのかもしれませんが、その声とテーブルの印象が強すぎるためか残っていません。

 

 

 

 

 

あれ?そうでしたっけ?

 

私の父の印象は、物静かで怒鳴らないし、気分では決して怒らない人なのです。

 

父に叱られた時は、きちんとなぜ叱られたか?を説明してくれるので、怖くありませんでした。

 

 

そして、我が家はしつけの厳しい家でした。

けれど、私の記憶だと、しつけに厳しかったのは母です。

 

食事の時は正座

箸は正しく持つこと

箸の上げ下ろし

食事の前には「いただきます」を言うこと

背筋を伸ばし肘をついて食べないなど

夜は9時に寝る

 

 

それは、母の実家から受け継いだもので、

 

母も母の姉たちも食事の時のマナーが悪いと、父親(私とターボの祖父)からいきなりピシャリと物(確かものさし)で手の甲を叩かれたそうです。

 

当時それがとても怖かったけれど、大人になってからとても役に立ったので、子どもたちにも厳しくしつけたと言っていました。

 

それは母の兄弟も同じで、母方のいとこたちは、食事のマナーがとても行き届いていました。

 

 

そう言えば、

 

お正月とお盆に母方の祖母の家に集まるのですが、その前は母が特に神経質になっていたと思います。

 

ターボは母が怒っても正座はしないし、全然平気で遊び食べをしていたので、実家に行ってターボひとりだけが、お行儀悪かったらどうしようと、母が嘆いていた記憶があります。

 

 

いつもはしつけに父を巻き込まない母も、この時だけは父に泣きついていたのではなかったかしら?

 

母が、「男の子のしつけにはお父さんじゃないと(ダメなんだ)」と、言っていた記憶があります。

 

 

 

>ブログ引用

さらに、2回ビンタされたことがあります。

 

道路でお尻をだして女の子をからかったのと、近所の空き地でボヤ騒ぎを起こしたという理由はあるのですが、「こっち来い」と言われて座っている父に近づくと、説明なしにいきなりほほを叩かれました。

 

叩かれると体が覚えてしまうんですよね。

 

父の近くに寄るはなんとなく怖かったのを覚えています。

 

 

 

それは怖かったでしょうね。

私は父に叩かれた記憶はありません。

 

 

 

いや、、、9時に寝ないとお尻ペンペンの刑でした(笑)

物心ついてからは、お尻を叩かれるのが嫌で恥ずかしくて、必死で9時までに布団に入った記憶が蘇ってきました(笑)

なんて微笑ましいんでしょう💕

 

 

「ほら、9時だぞー」

 

と、おどけて言う父の声を聞いて、

 

 

「きゃーーー(笑)(笑)(笑)」

 

と言いながら、2階へ駆け上がって行く記憶が蘇ってきました。

 

ターボも一緒にキャーキャー言いながら、2階までふたりでダッシュしましたね。

 

 

 

 

 

 

思い出すと懐かしさと愛おしさで涙が溢れてきます。

 

 

 >ブログ引用

そして、中学に入ると父とはなぜか心の距離が開いてしまって話せなくなっていました。

 

 

不思議ですね。

父は、ラジコン飛行機が趣味で、仲間の模型屋さんへ暇さえあれば行っていたのですが、

 

その頃、機動戦士ガンダムのプラモデルが発売。

当時、関節が動かせる可動式プラモデルとして、大人気だったそうで、入手困難なものだったそうなのです。

 

父は、弟が喜ぶだろうからと、機動戦士ガンダムのプラモデルをコネをフル活用して、優先的に売ってもらい、弟にプレゼントしていました。

 

弟に、何が欲しいか聞いては、嬉しそうにお土産を渡していたのを羨ましく思っていました。

 

 

やがて、弟が彩色にも興味を示すと、共通の趣味が持てたことをとても喜び、模型屋さんへ弟を連れて行っては、塗料など子どものお小遣いでは、到底揃えられないものを買ってあげていました。

 

弟がジオラマに手を出し始めたのも、その模型屋さんに展示してあったジオラマに感動したからだったと思います。

 

父と弟で共通の趣味で盛り上がっているのを羨ましく思っていた記憶があります。

 

 

そう言えば、父に、私にはお土産はないのかと言ったら、私にもガンダムのプラモデルを買ってきてくれました。

 

ガンダムのホワイトベースでした真顔

ガンダム好きだったけどね

プラモデルはそこまでじゃないのよねあせるあせる

 

 

次に、女の子っぽいものが欲しいとねだったら、

 

ホームセンターで縁がプラスチック製の鏡を2つ買ってきてくれました。

 

 

こんなの

 

 

 

 

 

 

そして、済まなそうに、女の子の欲しいものは分からないから、お母さんに買ってもらいなさいと、言われました。

母に伝えても、買ってもらえなかったですけど。

 

 

弟ばかり大切にされていいなぁと、羨ましく思っていた記憶です。

 

 

 

>ブログ引用

父は本当に無口で、家に帰るとお酒ばかり飲み、話しかけてもテレビをぼうっと見ていました。

 

 

 確かにその通りです。

 

ただ、私は母にも突撃し続けていたように、父にも突撃し続けていたのです。

 

だから、父は無口なのですが、ご機嫌な日もあって、そんな日はポツポツと色んな話をしていました。

 

そして私は、そんな父の隣に座って、父にだけ一品多く出されるおつまみをお裾分けしてもらうのが楽しみで、母が台所仕事を終えるまでの間、父が晩酌している横(母の席)に張り付いていました。

 

父の隣の席の弟が羨ましくて、母に席替えをねだったけれど、席順はずっと固定でしたね。

 

弟は母の時のように諦めちゃったのでしょうか?

性格の相性の問題もあるのかもしれませんね。

 

 

>ブログ引用

  • 自分より上手く行く人がいると嫉妬しました。それは一番にならないとお父さんに褒めてもらえないからでした。
     

父は、弟はプラモデルが上手だ、才能がある、センスがいいと褒めていたと思います。
 
弟は泥団子も上手だと褒めてましたね。あれは母かな?
 
ザリガニ釣りもしましたね。
よく虫やらカエルやらを捕まえてきては、お庭で飼ってました。それも母かな?
 
 
弟はザリガニ釣りは父と行ったはず。
 (会社見学の時ですね。)
 
弟が捕まえたザリガニを見せると、
 
「ほうか、ほうか、ニッシッシ」
 
と、満面の笑顔でふざけて笑う父を思い出します。
 
 
>ブログ引用
  • 怠ける自分が嫌いでした。それは家でも仕事の勉強をするお父さんと比べていたからでした。
  • 週休6日なのにゆっくり休むことができませんでした。それは男はどれだけ働くかで価値が決まると父から学んでいたからでした。
確かに、父は働き者で、常に努力家でした。
仕事でパソコンを覚えることになり、毎晩分厚いテキスト片手に深夜まで勉強していました。
同性同士だと、比較しちゃいますよね。
それは苦しかっただろうと思います。
 
 
>ブログ引用
  • 結婚したらなぜか責任を感じて緊張していました。それはお父さんから男とは家族を支えるものだということを見て学んでいたから。
これは私は母の口癖も関係していると思います。
 
「男の子は一生家庭を支えて働かなきゃいけないから、好きな事を仕事にしなさい。」
 
「お父さんが朝から晩まで働いてくれているから、私たちは生活できるのよ」
 
と、よく話していたのを記憶しています。
 
  • 不安になる自分が許せませんでした。それは男は黙って家族を支えるという父の姿を見ていたから。
父は無口でしたもんね。
おちゃめでしたけど(笑)
 
>ブログ引用
  •   他人の力を借りず、自分の力で成功したいと思っていました。それはお父さんに認めてもらえなかったから。

 いや、めっちゃ可愛がられているように見えていたし、

男同士、共通の趣味で盛り上がっているように見えていましたよ。

息子が欲しかったから、生まれてきただけで喜んでましたよ。

 

 
☝🏻姉・弓明子から見た父親像
 
私から見た父は、
 
口数は多くなく、自分から話題を提供することはありませんでしたが、聞けばいろいろ教えてくれました。
 
私にとって家族の中でたったひとり、話せば分かり合える人でした。
 
 
朝から晩まで家族のために働いて、365日毎晩、お休みの日は昼間からリビングでテレビを観ながら晩酌を楽しんでいました。
 
お酒にはめっぽう強く、酔ってくると声が大きくなりますが、お酒で機嫌が良くなることはあっても、機嫌が悪くなることはありませんでした。
 
酔うとちょっとふざけておちゃめになります。
 
家の裏には大瓶のビールケースが山積みになっていて、酒屋さんが配達に来ていました。
 
 
 
 

☝🏻姉と弟で真逆の反応

 

>ブログ引用

3、原因がほぼお父さん

 

嫌だなと感じることを見つけて、その原因を探って解放していきます。

 

そこで行きつく原因がことごとくお父さんでした。

 

 

これは私と真逆

私はことごとく母が原因でした。

父が原因だったものはほんのちょっと。

今ではあった気がする、程度で何だったか思い出せません。

 

同じ両親の元に育ったのに面白いですね。

 

 

 

 >ブログ引用

  • 当時、お酒を一切飲みませんでした。それは、お酒をたくさん飲む父親が嫌だったからでした。
私はお酒大好きです。楽しく酔っ払う人も大好きです。そして毎晩晩酌する旦那さんと結婚しました。
今では、美味しいおつまみやお酒を手に入れては、成人した長男と3人でお酒、未成年の次男とお酒は飲めるけど苦くて美味しくないという娘は、ジュースで楽しんでいます。
 
 
  • 年上の男性が苦手でした。それはお父さんが怖かったから。
私は母との関係性を引きずり、女性全般が苦手でした。
 
 
  • 怒る人が嫌いでした。それは怒るお父さんが嫌いだったから。
私は無視する人が嫌いでした。それは母が急に無視するからでした。
 
 
 

☝🏻何が起きていたんでしょうか?

 

 

 >ブログ引用

結局、子供のころの記憶のお父さんと闘っていました。

 

 〜中略〜

 

父親は厳しい、怖い人だと思ってしまったので、ずっとその証拠を見つけてきたように思います。

 

 

 

 

 

 郊外の小さな一軒家に住む

 

サラリーマンの夫と、専業主婦の妻との間には

 

女の子と男の子がいました。

 

 

 

女の子は結婚して家庭に入り子宝に恵まれることが幸せ

 

男の子は、家庭を守るために一生働かなかればいけない、家族を養うことが男の幸せ

 

だと信じて、

 

サラリーマンの夫は、ひたすら働き

 

妻はワンオペ育児でも一生懸命できる限りのことをして

 

ふたりの子どもを育てました。

 

 

 

ということが、事実でしょうか。

 

 

そして、

 

父と母の性格や相性だけでなく

 

 

二人でよかれと思って採用していた家庭のルール

 

男とはこうあるべき

女とはこうあるべきという価値感も

 

こどもたちであるわたしたちに影響していたように感じます。

 

 

 

 

けれど、

 

4人共、全員が幸せになりたかったし、家族を幸せにしたかった

 

4人共、全員が、笑って楽しんで過ごしたかったし、家族に笑って楽しんでいて欲しかった

 

 

4人共、それぞれが、それぞれを愛していた

 

 

 

うまく伝わらなかったり誤解があったけれども

 

 

そのことが、

 

 

子どもたちが大人になってそれぞれの家庭を持ち

 

それぞれが悩んで、心の傷と向き合いひとつひとつ紐解くうちに

 

 

それぞれの気持ちを受け取れるようになった

 

 

そして、

 

 

幼い頃に注がれた分かりづらかった愛情も、

 

 

時を越え、受け取ることが出来た。

 

 

 

 

これも、真実の一つではないかな?

 

書いていると愛おしさで涙が溢れてきます。

 

 

 

 

 

 

 そして、

 

 

 

 >ブログ引用

まさか、こんなところに自分の天職が見つかるとは思いもしませんでした。

 

 

とことん極めていくところがターボらしい。

 

幼い頃、決して上手ではなかった絵はいつの間にかプロ級だし

 

小学生の頃、原稿用紙を埋められなかった作文が、今ではプロとして職業にしているし

 

お金を稼ぐと決めたら、フリーターから高額所得者になるし

 

感情解放をすると決めたら、とことん突き詰め研究し極めていく

 

 

 やると決めたら何にでもなれただろうし、なって来たよね。

 

凄いなって思うよ。

 

今回は、素敵なチャンスをありがとう。

 

ここに弟へ、公開ラブレター?を書き留めます。

 

 

 

 

 

そして、私も、自分の天職を見つけました。

 

 

自分の悩みと向き合い続けてきたことで深めてきた

「ハッピーナビゲートセッション」も

 

ずっと悩み続けてきた人間関係から見つけた、

心理学では教えてくれない初期設定の部分から図解する

 

「人間関係基本のき」セミナーも、

 

 

そこを深めて

 

人生を自分好みの人生にカスタマイズしていく

 

「人間関係基礎マスターコース」も

 

 

家族との時間と同じように

 

大切で愛しい私のライフワークになりました。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

あーあ、仕方ない

 

母へ白旗上げますか

 

 

 

 

読んでくれてありがとうございました。

 

何か、あなたの気付きに繫がりますように

 

 

 

 

 

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