紫式部 | ruriのブログ

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ちょうど某ドラマをやってるからって言うわけではないけど、、彼女の事も触れたいと思ってました。

ご存じ源氏物語の作者といわれてます。

平安中期、970年に生まれます。父親は藤原為時。母親は藤原為信の娘。兄弟は藤原惟規がいます。姉も一人いたらしいが、本名は不明。

成長して藤原宣孝の妻となります。そして娘(大弐三位、賢子)を産みますが、数年後に夫と死別します。

 

当時の女性は高貴な人でなかったら本名は明かさない掟?となってます。だから式部も本名は解りません。最近の説では幼名はもも、成長してからは香子(かおるこ、こうし)といわれてるけど、決定的な証拠もないので。。

某ドラマの名前は史実ではなく、全くの創作です。

実母は式部が幼い時に亡くなり、そのあと父は後妻を迎えたようですが。。彼女との間?ほかの側室との間の子供かわかりませんが異母兄弟(惟通など)は数人いたようですね。

幼い時から漢詩が得意で父親からは「其方が男であったならな」とよく言われたようでした。兄弟の惟規は式部と違って漢詩は苦手だったようで💦でも文章生にはなってたからそれなりに賢かったと思います。

 

まあそれはともかく、父為時は若い時は文章生→播磨国の権少掾、式部大丞、六位蔵人迄出世したけど、花山天皇の出家事件のせいで式部大丞は解任され、一時は無官となってしまった。貧乏ではあったが、位階はそのままだったし、領地からの収入もそれなりにあったので、何とか生活はできてました。それでも10年どこにも任官されずにいました。

でも10年後やっと運が向いてきたのか、いつものように、任官のお願いをする申し文のほかに、一条天皇に漢詩を献上したらいたく気に入られ、越前の守となって赴任が決まったのです。式部も最初の2年間は父についていき越前で暮らしました。

 

式部もそのせいかなかなか旦那となる人に巡り合えず20代半ばまで独身でした。当時は10代後半までが結婚適齢期でしたから。そして↑でも書きました通り、かねてからの父の親戚筋にあたる山城守、藤原宣孝の妻となり娘が産まれてもその結婚生活は夫の死去で数年で終わってしまったのでした。

式部は夫の死を嘆いてたけど、やがてこのころから源氏物語を執筆するようになり、その評判を聞いた藤原道長は式部をスカウトして、当時一条天皇の女御(妃)となった藤原彰子の家庭教師兼女房(侍女)として仕えてみてはどうかと話を持ってきました。まあ時の関白の命令というか要請には逆らえるはずもなく、断る理由もなかったので、彼女は出仕したのです。

やがて彰子の家庭教師となり学問や和歌などいろんなことを彼女に教えてたのです。そのあとは道長の愛人の一人になったともいわれてるけど、これも真相は定かではないのです。享年40歳前後??これも諸説あって解らないところです。

 

最近の説では藤原宣孝より前にも結婚歴があったといわれてるようですね。相手は土佐日記の作者紀貫之の息子時文でかなりの年の差婚(40歳くらい?)でした。彼との結婚生活も多分長くなかったと思います。時文も結婚後しばらくして亡くなったと思ったので。

 

やがて一条天皇も崩御され暫くは彰子に仕えますが、やがて侍女も家庭教師もやめ御所を退出し、実家に帰りそこで死去したといわれてますが。本当の所は解りません。ただ源氏物語を頑張って10年で書き上げたともいわれてますし、その後は娘の大弐三位が引き継いで続編の宇治十帖を書いたとも言われてますが、真相はわかりません。

 

まあ源氏物語以外にも紫式部日記があり、そこには一条天皇皇后定子の侍女だった清少納言の悪口や、同僚だった和泉式部や、赤染衛門などの人物評価もそれなりにしてたようですね。