わたし達には、選択の自由があります。

 

たとえ、誰かに指示命令をされて選択をしたとしても、その選択を選んだのは、わたしです。

 

 

 


上矢印

昨日のブログに書きましたが、

 

コインの裏と表のように、必ず表側のわたしと裏側のわたしがいます。

 

顔では笑って、心の中では憎んでいる。というような、裏表ではなく、

 

表側のわたしが望むことの裏側には、鏡に映ったように真逆の意識を持ったわたしがいます。

 

 

「トイレに行きたい。」と表側のわたしが望んでいる裏側には、

 

「漏らしてはいけない。」という裏側のわたしがいます。

 

 

 

生まれてから今までの体験の中で、トイレに行くことに対し、何のトラブルも体験したことがなければ、「トイレに行きたいなぁ」と思えば、トイレを探して用を終えて終わる。だけのことです。

 

ところが、赤ちゃんではなく、物心がついたころに、「トイレに行きたい」と思っていたのに、行くタイミングを逃したり、お腹をこわしたりしていたことで、間に合わなかったとします。

 

すると、その時に味わった、恥ずかしさや苦痛ということが、トイレと思うだけで、くっついてきます。

 

何もトラブルを味わったことがない人より、「漏らしてはいけない。」というフォーカスが強くなります。

 

ですから、本人は、無意識レベルで、お腹の調子を気にしていたり、食べ物に気をつけていたり、旅行に行くにもトイレがあることや、トイレ休憩ができるかどうかに意識が向いていたりします。

 

結局、体調が悪くなって、旅行に行けなくなったりします。

 

 

 

 

小さい頃に、たまたま、お漏らしをしたという体験をしただけで、二度と起こらないことかもしれないのに、

 

「わたしは、胃腸が弱いんだ。」と思い込んでしまうことさえあります。

 

 

 

選択は自由で、色んな中から選んでいるように思っていても、

 

実は、自分の思い込みという制限の中から選択している可能性が高いのです。

 

 

 

 

 

こういうトラブルという体験だけでなく、自分の中の常識や、社会の常識に縛られているときも、同じように自分自身に制限をかけてしまいます。

 

 

 

本当は、Aを選択したいけれど、「周りの人がどういうだろうか」とか、「世間の常識では・・・」と、自分の本当の気持ちを無視してしまうことさえあります。

 

 

表側のわたしが、本当のわたしだとは言い切れません。

 

裏側に、本当のわたしが隠れていることもあります。

 

 

 

いずれにしても、表側のわたしと、裏側のわたし、両方の存在を知ることは、

 

自我を手放していくことになり、

 

無意識にしてしまっている、自分への制限を解放することにも繋がって行きます。