上矢印

昨日のブログに書きましたように、

 

わたしが認めてもらえる(評価してもらえる)には、「頑張らなければならない。」と思っています。

 

これは、わたしが認識できているので、表側のわたしです。

 

 

 

今、過去の体験を思い出してみても、「いつも頑張っていたな。」と思います。

 

何をするにも、全力でやるんです。

 

いい加減と言う、加減がわたしにはわからないんです。

 

 

 

自分が、納得できる状態までやり切ります。

 

だから、いつも言われていました。

 

「何でもできるね。」って。

 

そりゃそうなんです。何でもやりましたから。

 

 

 

そうやって、頑張っていると、部長になるための研修を受けないかとか、主任にならないか?とか言われるんですが、

 

これが面白いんですが、わたしは断るんです。

 

 

 

こういう時、裏側にいる、認識できていないわたしが発動します。

 

 

 

表側のわたしは、頑張ろうって思っています。

 

でも、わたしの深い意識まで辿り着いた思い込みは、

 

「頑張っても、認めてもらえない。」 です。

 

 

 

表側のわたしは、精一杯頑張っています。

 

だのに、役職などに就いたら、もっと頑張らなければなりません。

 

「頑張っても、認めてもらえない。」のにです。

 

 

 

役職が就くというのは、評価された。認めてもらえたことなのに、わたしは評価されることを望んでいるのに、「断る」を選択してきました。

 

無意識に、防御するんでしょうね。

 

「もうこれ以上、頑張らせないでくれ。」みたいに。

 

 

 

 

 

「あぁ~、みかんが食べたいなぁ~」

 

くらいの、食べても、食べなくてもいいような願いというのは、ほぼ「ゼロ」に近い状態で、どちらにも偏っていないので、そう思っていたら、近所の人が、「みかん狩りに行ってきたから、おすそわけ。」みたいに簡単に願いが叶ってしまうことがありますが、

 

何度も何度もやったけれど、上手くいかなかったという体験は、意識の深い部分まで落とし込んでいるので、

 

表側のわたしと、裏側のわたしは、

 

 

 

 

綱引きをしているように、

 

望むことがあるのに、望む方向へは行かせない。みたいに、とてもしんどいことを、無意識にしてしまっています。

 

どちらかが、手を離せば、途端に願いは叶ってしまいます。

 

 

どちらも意地を張っている状態が、自我発動の状態です。

 

 

 

 

自我のことを知ってる、知っていないに関わらず、

 

例えば、表側のわたしが、

 

「な~んだ。わたし一人で頑張らなくても、みんなに助けてもらったらいいのかぁ~」と、何かの出来事で気づくことができると、綱引きの綱を手放すことになるので、裏側のわたしも、綱引きを止めてしまうので、とても楽になっていきます。

 

 

 

苦しい時とか、辛い時など、とにかくしんどい時というのは、

 

表側のわたしと、裏側のわたしが綱引きをしています。

 

 

 

裏側のわたしに気づけばいいのですが、わたしがわたしの背中が見えないように、裏側のわたしは、観る事ができなくなっています。

 

その裏側を観せてくれるのが、

 

わたし以外の全て、外に観える世界です。

 

これが、『鏡の法則』です。