学生の時、記憶力のいい人は、得だなぁと思いました。
歴史などのテスト勉強で、暗記をしようと思ってもなかなか覚えられなかった。
記憶をするのは、勉強のことだけではありません。
日常生活で体験したことも覚えています。
体験に感情がくっつくと、いつまでも忘れることができません。
特に、不安や恐怖、傷ついたことなど、二度と体験したくないような記憶ほど、覚えているように思います。
100の楽しかったことがあったのに、たった1つのイヤな思いをしたことで、その楽しかった100が全て消えてしまうほど、人はイヤな思いをすることを、とても嫌がっているように思います。
昨日のブログで少し触れましたが、
今、わたしが誰かと関わることで、不快に思ったりすることは、記憶に影響されているのではないかと思うようになりました。
梅干しを見ただけで、「酸っぱい」と思うのは、梅干しを食べた記憶があるからです。
わたしは、「くさや」を食べたことがないので、「くさや」と言われても、味も臭いも何も蘇ってはきません。
ですが、「アジの干物」と言われれば、食べてもいないのに、鼻の奥では臭いを思い出し、口の中では味の干物を食べた時の味や食感が蘇ってきます。
梅干しを見れば、どうしたって「酸っぱい」となり、ケーキみたいに甘い食べ物とはならない。
脳のはたらきである記憶は、食べ物であろうが、わたしが辛い体験をしたことであろうが、区別なく記憶しているんだと思うようになりました。
人間意識で考えれば、梅干しの酸っぱさと、わたしが息子を亡くした記憶が同じレベルのものだと思いたくありませんが、脳が記憶の区別をしているというよりは、
わたしが、その体験にどれだけの感情をくっつけたかで、同じ体験をしたり、同じような境遇の人を観ると、その体験の記憶が蘇ってくるように思います。
わたし自身、他の方のブログを拝見する時、「息子を亡くした」方のブログは、開いてみようと思いますが、「娘さんを亡くした」方のブログには、ほぼ反応しません。
性別が違うだけで、同じ子どものことなのにです。
わたしは、自分の悩みが、自分の過去に体験した記憶に関係しているのかもしれないと気づいたことで、ネガティブな感情が反応したとき、記憶を辿るようになりました。
その記憶を辿る時に、胸に感じる感覚を遣いました。頭(思考)ではありません。
今、感じたネガティブな感情が、どんな感覚かを、胸の位置に意識をもっていき、確かめるようにしました。
「上から目線で言われる。」
「説教されている。」
胸に感じる感覚は、重たく、「バカにされている。」と思った時と同じ感覚でした。
この記憶を幼少期に辿ると、兄との比較でした。
兄は、成績優秀で、いつも学年で1位、2位を争っていました。
わたしは、ごく普通です。
兄のように成績優秀になりたいと、兄の真似をして勉強スケジュールを作ったり、机に向かう時間を長くしたりしたのですが、一向に成績は上がりません。
今思えば、当然なんです。
だって、勉強していることが、全くチグハグだったのですから。
今のように塾とかなかった時代でしたから、学校で習ったことを復習したり予習したりするのですが、そもそも、何を復習して何を予習すればいいのか、さっぱりわからないのですから。
結局、この体験に、わたしがくっつけた想いは、
「頑張っても、望む結果にはならない。」
梅干し = 酸っぱい
のように、
頑張る = 評価してもらえない
でした。