自我は、本当に、しつこい。
いつもまとわりついてくる。
離れようと、すればするほど、くっついて離れない。
そのうち、あまりにも日常になり過ぎて、自我がくっついていることに違和感がなくなってきたりする。
ここ最近私は、自分の中に
「めんどくさい」
が生まれたら、逆に絶対に、その「めんどくさい」を行動に移すようにしています。
その理由は、
「めんどくさい」
と思って、そのままやらないでおくと、どんどん自我の方向へ引っ張られてしまうからです。
母が、うちの家に住むようになって、もう1年が経過しました。
母が実家にいたころから、私は買いものに一緒に行ったり、病院受診に付き添ったり、実家の電球が切れていたら取り替えたりと、とにかく、母ができないことを代わりにしてきました。
それは、うちの家に来てからもそうでした。
「これをあっちにやって。」
「もっと、こうして。」
「薬局へ行って。」
「服を買いたいから連れて行って。」
もちろん母は、90歳で、背も小さいし、握力もなくなってきて、自分一人ではできないことも増えてきました。
どこに行くのでも、車がないと行くことはできません。
私は運転できますから、自分が思う時に思う所へ行けます。
でも、母はそれができません。
だから、仕方のないことなんです。
と、自分に言い聞かせているのに、
ムカッとする。
自分の思うように、私を使っている。
と、同居して半年くらいは、そんなイライラと葛藤していました。
そんな時、『自我』と言う言葉に出会い、『自我』とは一体どういうモノなんだ?と模索し続けていくうちに、自我は、自分を守るために生まれたことがわかったり、陰陽は陰と陽が一対そろって初めて一つになるんだと言うことを教えてくれました。
そして昨年の暮れごろから、意識の自分を意識するようになって、意識の自分の願いを叶えようとし始めました。
これをやろうと閃いたのに、「めんどくさい」が発動しても、絶対にやる。
だから、母が私に何かを頼んできて、「めんどくさいな」と一瞬でも思ったら、逆に直ぐに頼まれたことをやるようにしました。
そのうち、
意識の自分の願いを叶えようとするとき、「めんどくさい」が発動しないことに気づきました。
そのまま意識の自分に意識を向け続けていくことで、『満足感』を得られるようになりました。
そして気づいたら、母が私に頼むことが少なくなってきた・・・
と言うよりは、
私が先に、「そこへ行かなくていいの?」とか「他に行くところはないの?」 と、聞くようになっていたんです。
おまけに何か頼まれても、前のようにイライラすることが無くなってしまいました。
今日、Kさんと、お話しをしました。
Kさんのお母さんは92歳。
Kさんも同じように、お母さんのお供をしています。
Kさんが言いました。
「私は、あほやで何もわからん。」
と、お母さんが言ってくると、無性に腹が立って、
何でそんなこと言うんやろ。
褒めて欲しいってことが手に取るようにわかる と。
だから、絶対に褒めたくないと。
Kさんが、そう言ってくれたことで、繋がりました
誰かに対して、腹が立つというのは、私の自我を見せられているからです。
相手が、褒めて欲しいと思っていることがわかると、よけいに褒めたくない。
『褒める』と言うことは、『認めている』ということにもなります。
相手に与えたくないのは、私がそのことに対して枯渇しているからです。
優しくされていないと、優しくしたくない。
愛されていないと、愛したくない。
枯渇していると、あげたくない。
でもこれは、人間関係のことではなく、
私が私に優しくしていない。
私が私を愛していない。
ことに繋がります。
ということは、
『褒めたくない』は、私自身を『認めていない』 と言うことです。
要するに、
満足していない状態です。
自我は、本当に隙間を狙って入り込んできます。
質の悪いのが、すっ~と違和感なく入ってくるので、なかなか気づけない。
霊性進化するためのヒントは、いつも
話したくない
聴きたくない
観たくない
ところにあります。
「褒めて欲しがっているのがわかるから、絶対に褒めたくない。」
こう私が思った時、これは意識の私と、肉体の私の関係。
自分のことを認めていることができているかどうか、自分ではわかりません。
でも、こうやって鏡となって教えてくれる。
じゃあ、この自我を、どうやって乗り越えるのか。
どうなったら、乗り越えたと言えるのか。
今の私の立ち位置での答えになりますが、
この時の私が、母にしたように、母が満足感を感じるように行動する。
これは、私が誰かに認められたいからというのではなく、私が私を認めるために行動する。
そして、母だけでなく、誰かと話すときに、聴きたくないと思った時は、そこを意図的に聴く。
相手が望むことを、してあげたくないと思ったら、意図的にしてあげる。
今日、Kさんとのお話しが終わったあと、母と話しをしていて気づいたことがあります。
「また、そんなこと言うとるわ」
と、思わなくなっている自分がいました。
母の話しの内容に、ジャッジしていないんです。
母が、「そう思った」と言ったら、
「そう思ったんやぁ~」
と、何の違和感もなく聴くことができましたし、そう思えました。
それは、とても楽で、心地良い。
これが、自分を赦すと言うことなんでしょうか?
相手が
して欲しいこと、
聴いて欲しいこと、
言って欲しいことがわかるのに、
それをしたくないと思う時、自我が発動している。
だから、意図的に、
して欲しいことをする。
聴いて欲しいことを聴く。
言って欲しいことを言う。
自我を超えるためには、自我を乗り越えるのではなく、自我を満足させてあげることなのかもしれない。
自我の観察方法の一つに加えたいと思います。
いや・・・それは、怖いって