翌日、少し早めに家を出て千代の家に行った。

「今日も少し熱があるようなのでもう1日休ませるわ」

千代のお母さんはエプロン姿で出てきた。着物でなかった。

「わかりました。戸田先生にそのように伝えます」

「これ昨日お約束した古い足袋。お役に立ちそうかしら」

片手に持っていた紙袋を省三に渡した。白い足袋が2足と黒の足袋が1足入っていた。

「ありがとうございます」省三はぴょこんと頭を下げてお礼をいて玄関を出ようとした時

「使えそうになかったら適当に捨ててくださいね」千代のお母さんは省三にやさしく言った。

「ありがとうございます」省三は今度は丁寧に頭を下げてお礼を言った。


放課後黒い足袋をはいて校庭を1周走ってみた。サイズは何とか合って履けたが底が頼りなくすぐにでも穴が開きそうだった。足首ももう少し短いほうがいいようだった。

足袋を紙袋にしまって今までの運動靴で校庭を走りながら省三の頭の中は足袋の改良のことが駆け巡っていた。

帰宅してすぐにキュウちゃんに鋏と針と糸を借りた。

まず足袋の足首の長い部分をくるぶしの下あたりでばっさり切り落とした。入り口は広くなってすぐ足が入って履きやすくなったがすぐ抜け落ちそうだった。アキレス腱あたりを指で摘んで絞ってみると入り口も締まってくるのがわかった。足袋の後ろの開口部をゴム紐で絞ってみようとキュウちゃんにゴム紐がないか相談に行った。


キュウちゃんはくるぶしあたりでばっさり切られた黒い足袋を見てびっくりしていたが省三のマラソン用のシューズの説明を聞いて大分納得できたようだった。

「ゴム紐はないけど隼人さんのお部屋に手袋用の革紐があるはずよ。先日お掃除のとき革紐が箒に巻きついて苦労したんだから」

「革紐か、それはいいかもしれない。隼人兄ちゃんの部屋を探してみる」省三が2階の隼人の部屋へ行こうとした時「隼人さんが帰るまで待ったほうがいいわよ。あと1時間くらいで帰ってくるから」とキュウちゃんが止めた。


~第31話に続く~

小学6年生になった省三は西宮球場の近くの小学校に転校した。菜の花やレンゲ草の咲いている野道を近所の子供たち十数人くらいが連れ立って学校へ通った。6年生の省三と同じクラスの稲垣道夫が1年生や2年生の面倒を見ながら50分くらいかかって学校へ行った。


西宮球場はすでにナイターの設備が出来ており試合のある日は小学校の校庭はナイターの照明で夜でも明るかった。省三は放課後は毎日校庭の周りを1人で走った。毎日10周するのを日課と決めて走った。近所の下級生は稲垣がつれて帰った。省三は帰りは一人でランドセルを揺らしながらランニングで帰った。


1学期末のテストが終わって夏休みが近ずいたある朝、いつもの集合場所に2年生の鈴木千代がなかなか来ないので省三は駆け足で千代の家まで迎えに行った。玄関の呼び鈴を押すと着物姿のお母さんが出てきた。

「千代ちゃんがなかなか来ないので迎えに来ました」省三は珍しい着物姿に圧倒され目をこすりながら言った。

「あらごめんなさい。昨夜から熱を出して今日は休ませてもらいますと亜紀ちゃんにことずけたんですけど」

「わかりました。亜紀ちゃんもまだ来てなかったんで連絡が遅れたんでしょう。僕から先生に伝えておきます」

「あらわるいわね。先生は戸田先生です。よろしくお願いいたします」

「戸田先生はよく知っています。必ず伝えます。おばさん踊りの先生ですか」

「先生というほどでもないんですけど日本舞踊をすこしーーー」

「あの、捨てるような古い足袋があったらいただけませんか」

「捨てようと思っていた足袋が2、3足ほどありますけど何に使うの?」

「毎日放課後校庭を走っているんですが今の運動靴は底が生ゴムで硬いし重いんで足袋なら軽いし、いいんじゃないかと前から思っていたんです」

「わかったわ、今日中に探しておきますから明日の朝もう一度来てくださる?」女性の着物姿を近くに見て省三は少し得したような気がした。


~第30話に続く~

「みんなに見せたいものがあるんだ」照れ隠しに省三は部屋の隅においてあった紙包みをほどいた。まずスポーツ新聞を広げた。

「これ4日前の日曜日の巨人阪神戦の新聞」

「うん知ってるよ。1ゼロで巨人が勝ったゲームやろ」忠義が新聞を覗きながら言った。


「ジャーン!」省三は大きな声でかけ声をかけて新聞紙の上にサインの入った十数枚の色紙を丁寧に並べていった。

「これ別所さんのサイン、これ川上さん、これ青田さん、この色紙全部ジャイアンツの選手のサインだよ」選手の名前にさんをつけて呼ぶと一層親しい友人のように感じた。

「すごい。すごい。お兄ちゃんこのサイン自分でもらったの」勇が息を弾ませて言った。

「そう、お父さんの甲子園の家の近くに巨人軍の定宿があってその前が公園で朝早くみんなでトレーニングしているんだ。最初僕一人で5時に起きて公園に行ったんだけど後から隼人兄ちゃんが色紙とサインペンを持って来てくれたんだ」


「だけどこんな有名な選手たちがよくサインしてくれたね」忠義はすき焼きを食べるのを中止して色紙を1枚1枚手にとって見ていた。

「選手たちみんなやさしいよ。気持ちよくサインしてくれた」

「お兄ちゃん直接選手達に会ったの」勇がうらやましそうに言った。

「そう、直接選手にサインお願いしますといって色紙とサインペンを渡して書いてもらったんだ。ありがとうございました。といって頭下げたら別所さんなんか僕の頭なぜてくれたんだよ」

「うわーいいな。お父さん今度僕も甲子園のおうち連れてって」勇は父に甘えるように言った。


「ジャイアンツの選手に会うのはよほど運がよくないと会えないよ。何しろ甲子園にジャイアンツが遠征に来たときだけその旅館に泊まるんだからな。今年はあと1回来るか来ないかだろう。省三は本当に運がよかったんだ」秀雄は勇を慰めるように言った。


「試合は見られたの」忠義が聞いた。

「隼人兄さんと市電に乗って朝9時頃甲子園球場に行ったんだけど市電の中からすでに超満員で切符売り場も長蛇の列だったので野球見物はあきらめて阪神パークへ行ったんだ」

「阪神パークって何があるの」勇が目をきらきら輝かせて聞いた。

「甲子園球場の隣にあってメリーゴーランドやジェットコースターなどいろんな乗り物や動物園もある。乗り物はやっぱり人が並んでいて30分以上は並ばないと乗れないので動物園だけ見て帰ったんだ。僕はやっぱり動物園が一番好きだ。動物の目を見ているとなんともいえない優しい目で動物たちが僕を見るんだ」

「省ちゃんは優しいから動物たちもわかるのよ」姉の美里が納得という表情で首を上下に振りながら言った。


「そうかなー、動物たちに目を見ただけで優しさがわかるんかな」忠雄は不思議そうに言った。

「わかるさ。お父さんだって省三兄ちゃんの優しさに揺り動かされたんだもん」勇が言ったとたん秀雄は口に含んだビールをプッと吐き出してわっはははと大声で笑った。釣られてみんなも大声で笑った。母の美奈子は笑いながら涙をそっとぬぐっていた。


第29話に続く