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run1236さんのブログ

久しぶりも5年ぶり。
私も年をとり、色んなことがおきました。
そんな色んなことをしたためたいと思います。

今年は、何だかお別れが多い年。


年末近くになると、喪中ハガキが届く

そして、初めて知ることになる。

年賀状のご挨拶、基本年一回。

常日頃コンタクトを取っているわけでもないのだから。


そんななか、知り合いの方から、LINEをもらった。以前職場でお世話になったことがある方が、早々に旅立ってしまったとのこと。連絡を下さったその方は亡くなった方と、それは仲がよかった方。きっと大きなショックに違いない。私よりもまだ若い方だった。若さゆえに進行も早かったよう。


告別式に行かせて頂き、ご家族のご挨拶を頂いた時に、我慢していた思いが堰をきってしまった。

涙が止まらない。

でも、私は母の旅立ちの際、ここまで涙したのか?その思いがここで出てしまったのか。よく自分の思いはわからなかった。


若すぎる旅立ち。


今、七七日までは長い旅路が続く。

無事に辿り着いて欲しい。天国に。

そしてゆっくり癒されてほしい。


友人の親御さんも、私の両親も、ブーにゃんや茶トラ、黒柴も、そして、もっと前から私に関わってくれた子たち。


今はゆっくり過ごせていますか?

兄や叔母に連絡を入れた。でも、信憑性が感じられなかったのか、兄に至ってはホントにきびしいと感じたら連絡してと言われた。私一人で母の側にいるよりも、母にとっても間に合わせてあげたいから、少しでも早く来てくれたほうがいいのに

私の伝え方が悪かったのだろうか。


身内が到着したのは、母を看取ってから1時間後のことだった。


ずっとモニターの音を耳にしながら、数値を見ながら、母に呼び掛け、体をさすり、ひとりぼっちじゃないよ、ということを伝えたつもりだった。

母に伝わったかは今となってはわからないけれど、私は最後まで側にいれたので、まだ亡くなったことを納得できた。


でも、母の呼吸が止まってしまったかも、と思った時に、呆然としつつ、母に呼び掛けた。看護師さんが入って来た時の第一声、止まりましたね、と。はい?止まるの待っていたの?だから、酸素量おとしたの?と感じてしまう自分がいた。


私も、止まりました、と。答えていました。


ただ、もう苦しまなくていいよね。

お母さん。もう楽になったよ。


そう思うことにした。


痩せこけて、食べられなくて、治療もできないなら、もう回復が困難なら、すこしでも楽なほうがいい、そう思うようにした。


母は呼吸が止まる少し前に、何か声を発したように聞こえた。マスクを付けながら、声は途切れて、言葉にならず、きっと何か言いたかったのかもしれない。


モニターの音ばかりが大きくて、ごめんなさい。聞いてあげられなくて。


お母さん、本当にお疲れ様でした。

よく、よく頑張ってくれて。

ありがとうございました。


それから、病室に鳴り響くモニターの音が、私は嫌いになりました。

休日が終わり、翌日通常どおり出勤した。


母が落ち着いてくれていると思いながら。


そして、ほどなく、最初の電話は気がつかなかったけれど、病院からだった。


直ぐにかけ直した。

母が嘔吐したとのことだった。

あまり食べれていないはず。出るものなんてあったのだろうか?


兄にも連絡が行っており、兄は叔母と病院に向かうと言っていた。


私が到着したのは午後になってから。


母は酸素マスクをしていた。

これを凄い力で外そうとするらしかった。

看護師さんたちから、外さないようにしてほしいと言われたとのこと。


酸素量の値は結構高いと、叔母は言っていた。


母は目をあけず、マスクを外そうとしながらも、呼び掛けには反応しなかった。


目をあけてくれないかな、返事してくれないかな。そう思いながら、ただ見守っていた。


夕方になって、叔母と兄は帰宅することになった。私は、母の側を離れなかった。

夜になり、私は今晩も泊まろう、そう思っていた。母は酸素マスクの力を借りて呼吸を繰り返している。


モニターを見ながら、心拍数が下がると、母の体や足をさすった。母とモニターから、目を離せなくなった。呼びかけと、足をさすることをただ続けた。


看護師さんが、酸素量を下げると言った。

長時間高い酸素量を続けると、二酸化炭素を吐き出せなくなり、かえって危うくなるからと。


それでよいのか、私にはわからなかった。


暫くして看護師さんから、


会わせたいご家族がいたら、呼んだほうがよいと。

それが夜9時頃のことだった。