ご無沙汰してます、という前置き無しで始めたいのに、

つい間隔が開いてしまいますね。

 

ネットにアクセスはしてるんですけど

時間が細切れでブログを書くまでは至らず

まとまった時間を持って腰据えて書きたいんですよ。

 

前のように「アメーバなう」があれば

ちょこちょこっと書き込むんだけど

ブログはもうちょっとちゃんと書きたいので

時間を取りたいんですよ。

 

書きたい内容を頭でまとめる速度がとても遅いから

どうしても時間がかかる、

だからある程度の時間を確保してからブログを書きたいんです。

 

でも時間は限られてるんだから、

まとめる速度を速くする訓練をしていかないといけないですね。

 

さて、

春分の日の昨日は全国で雪が降った地域が多かったらしいですが、

こちら昨日は穏やかな気候でした。

その代わり今日は雨のちだんだん雪交じりになってきて

まだまだ春は足踏みしてます。

 

20180310 児童公園の雪 01

さて、上の画像は、とある児童公園なんですが

見ての通り、雪で覆われてます。

3月10日撮影です。

フェンス内は樹木が並んでますが、その間、というか、中は全て雪です。

電信柱やフェンスでその高さを推測してほしいのですが、

なんでこんな事になっているのか、解説しますね。

 

これは積もった雪ではなく、積もった雪ではありますが、それだけでなく

近隣住宅の道路に積もった雪を除雪用ブルドーザーが除雪して

その除雪した雪をこの児童公園にどんどん排雪して

公園内に積み上げていった結果、これだけ溜まりました。

雪が地層のように横に筋ができてますね。

2月のピーク時はもっと溜まってました。

画像手前の道路は除雪してるのでアスファルトが見えてますが、

道路端っこもまだこんなに雪が寄せられてます。

 

例年だと、公園内に溜まった雪は最低1回はダンプトラックに詰め替えて

別の、もっと大規模な雪捨て場に持って行って

何度も何度も繰り返してどんどん減らすんですけど、

この冬は豪雪過ぎて公園内の雪を減らす予算も当てられなかったようで

未だにこんなに残ってます。

たいてい新学期が始まる頃には地面が見え始めるんですが

今年はこの調子でいくと、5月の連休過ぎても残っていそうな気がします。

 

でも子供はたくましくて、2月のわずかな晴れた日に

こんな雪の中でも公園内に入って、そり滑りをして遊んでました。

 

3月過ぎると雪は固く氷のように締まって遊ぶことはできなくなります。

それに雪は固まってると融けにくいんですよ。

「雪割り」といって、スコップなどで雪の塊を崩してほぐして

太陽にあたる部分を増やさないとなかなか解けないんです。

でも、この公園くらい雪があると、スコップなんか当然歯が立たず

重機を入れないとダメなレベルですから

いったいいつになったら地面が見えるくらい解けるのか

見当がつきません。

 

軒先や庭先はだいぶ雪解けが進んできて、

ようやくふきのとうが芽を出してきました。

 

新芽の吹き出しと、残雪とがしばらく共存しそうです。

 

 

わたしが小学5年6年と2年間担任だったN先生の話の続きです。

その1、その2を書いてから、その3がまとまらず、
言葉を繋ぐのにだいぶ苦労しました。
その間雪も激しかったこともあり、ブログにまでなかなか手が回らず
当時の記憶はちゃんとしてはいるんですが、
結構社会的なことも絡んでるな、と
思うようになりまして
文章もまとまらず、記事を仕上げるまで時間がかかってしまいました。


まずはその当時、どんな出来事があったのか少し振り返ってみますね。

1976年の出来事

ロッキード事件
アントニオ猪木、モハメド・アリの対決
オリンピック・モントリオール大会
ピンク・レディー デビュー
およげ!たいやきくん大ヒット
周恩来、毛沢東 死去
などなど

ここから本文です。

まずはN先生のおさらいから。

N先生は男性。恐らく40代後半くらいかな。中肉中背。
恐らく結婚していたと思います。やや後頭部の髪が後退していました。


型破りな点を箇条書きします。

1、常に下はジャージ、裸足にサンダル、上は、夏は下着っぽい
2、朝礼から1日中教室にいて、職員室にめったに戻らない
3、国語は漢字の読み書きだけ。読解は市販のテストで学ばせる
4、算数はXとYを使った連立方程式を教える
5、社会の授業はNHKの教育テレビ
6、体育は男子に相撲があり、素っ裸にまわしをつけさせ、自身もつける
7、竹刀を持ち歩く
8、禅のように目を閉じてじっとさせ、動くと竹刀で叩かれる
9、宿題など忘れ物をすると竹刀で叩かれる
10、成績が悪いと竹刀で叩かれる
11、静かにしないなど、注意される時竹刀で叩かれる
12、酔って夜、いきなり生徒の家に行く
13、将棋を教え、休み時間は総当たりリーグ戦
14、性教育を女子も一緒に自ら黒板に図解でそのまま教える
15、成績は市販のテスト用紙フル活用、採点は休み時間に教室で
16、テスト結果を偏差値に作り直して実名で全員分貼り出す
17、生徒の秘密をバラす
18、度が過ぎる生徒のイタズラに、校長室に呼び出される
19、共産主義と民主主義、どちらが良いか生徒に問う


前回は16まで解説しました。
17からですが、次の18は飛ばして最後にします。
思い付きで並べたので、後で考えると17と19をまとめた方がよいようなので。



17、生徒の秘密をバラす

わたしのクラスには
なぜかとんでもない生徒が多く集まってしまったようで、
特に学年1の悪ガキがクラスメイトでした。
子分をとっかえひっかえ引き連れて
悪さをしたりいじめられっ子をいじめたり、
時には子分もターゲットになり
子分がいつの間にかいじめられっ子になり、また子分に戻らせたり。

男子のみならずたまにわたし含む女子も、幾度となく
彼らには嫌な思いをさせられました。
いつも騒がしいし、落ち着きがないし、
彼らが騒ぎ出すといつもうんざりでした。
そんなちょっと問題ありだな、と思われる生徒がしかも何人か
一気にわたしのクラスに集まった感じでした。

でもそんな悪ガキどもでも、N先生が叱ると一時的に静かになる、
まあ、この手の悪ガキどもはいつの世も一定の割合で発生するタイプの
しょうもない器の小さい連中です。

で、
学活の時間かな、どのタイミングで聞いたかは失念しましたが
また授業もせずに、なぜN先生がこの話をしだしたのか。
いきなり、いえ、話の流れや前後はすっかり忘れた(聞いてない)ので
もしかしていきなりでなかったかもしれませんが
クラスメイトの悪ガキの子分の一人について、仮にK君とします。
K君のことを、多分彼は秘密にしたかったことを話し出したのです。
K君はやや小柄かな、少しやせ形で、顔はややスネ夫似。

N先生は
「Kは日本人ではない、韓国人だ」
と、クラスのみんなの前で言いました。

当時わたしは、自分の住む地域に外国人が住んでいるなんて、
全く想像できませんでした。
地域性もあると思いますが、東北は
当時から定住している外国人は、本当に少なかったと思います。
ましてや、日本人と顔が似ている韓国人を、
外国人と見た目で認識する事もできませんでした。今でも難しいですが。
K君の苗字は、ごく一般的な苗字ですし。
今ではこの話の前後を全く覚えてません。
なぜこんな話をしたのか、K君の家庭環境はどうなのかなど。
ただ、N先生は
K君は日本人じゃないけど、同じクラスメイトなんだから
今まで通りクラスメイトとして付き合いなさい、
というような事を言った気がします。

わたしは、何をいまさら、話し方だって普通に日本語、というか米沢弁だし
K君の口から朝鮮語を聞いたこともないし
それまでだって、「なんかK君ておかしくね?」なんて
思った事もなかったですから。

ただ、やはりクラスメイトに外国人がいる、というのは特殊なことなんだなと
受け止めました。
その後は
なぜそれを話したんだろう、という違和感で
いつまでも記憶に残っています。

クラスメイトも、N先生にそういわれた後も
ほとんどK君への接し方は特に変化なく、
相変わらず悪ガキいじめっ子の子分をさせられてました。

子どもの受け止め方はそんなものなのでしょうが、
恐らく、クラスメイト達は家に帰って親に報告したことでしょう。
わたしは特に伝えるほどの話題とは思わなかったので話しませんでしたが。
今にして思えは、もしかしてですが、
そのクラスメイトの親達の間で何らかの動きがあったのかもしれません。
「何らか」とは、のちのちN先生の言動をPTAにかけるとか、
そういう事です。

それと、K君は韓国人といっても、
南の大韓民国か、北の朝鮮民主主義人民共和国か、全くわかりません。
当時は大韓民国も民主国家ではなく、朴正煕による軍事政権でした。
でももちろん、当時のわたしはそんな知識持ち合わせてません。
で、それもなんとなく踏まえて、次の一つ飛ばした19の項に行きます。


19、共産主義と民主主義、どちらが良いか生徒に問う

これもね、こんな、小学生に突拍子もないことばかり話す先生だったから、
授業内容よりインパクトがあって、いつまでも記憶に残るんですよ。

この冒頭に、1976年の出来事を紹介しましたが、
当時小学6年生の時代には
近隣諸国の出来事と日本を結びつけて考える能力なんて全くなかったけど
今こうしてみると、
当時は中国の周恩来主席や、毛沢東の死という出来事があったんですね。
つまり、中国の文化大革命の崩壊の序章でもあったわけです。
ソビエト連邦といい、中国といい、北朝鮮といい、
まだまだ日本の周りは共産主義国家が幅を利かせてた背景があります。
それもあってか、N先生は授業のような授業でないような、教科を超えた時間に
わたしたちに共産主義とは何か、民主主義とは何かを話しました。

共産主義の見本としては、中国を例に話してくれました。

当時の中国はステレオタイプでの見方だったと思いますが
みな同じ人民服を着て、同じような行動をして
今の中国人のイメージとだいぶ違います。

当時の共産主義の意識を、N先生はわたしたちに言いました。
今現在の中国と比べず、当時の認識で見てください。
曰く(要旨)
いいか、共産主義だと決められた仕事さえこなせば、生活に困らないんだ。
家も、着るものも、食べるものも国から与えられる。
あくせく働いて金を貯めなくても生活できる。貧乏人はいない。
資本主義は働かなければ生活できない。食えなくなる。
但し金を持てば何でも出来る。
どっちがいい?
と。

こんな風に共産主義と資本主義のどちらが良いかと、
選択を迫った先生は、高校生までの先生の中で
N先生だけです。

どっちがいいか、と聞かれても、
あくせく働かなくても食に困らないんだったら
共産主義の方がいいのかなあ?
でも
(当時の)中国人みたいに同じ服しか着れないのは
つまんないなあ
大好きな漫画も見れないかもしれないし。

N先生曰く(要旨)
お前たちはこのまま民主主義がいいのか、それとも共産主義がいいのか、
決めていくんだぞ
と。

今から思うと、なぜN先生はこんな事言ったのか。
恐らくですが、当時の社会情勢を踏まえて考えると
社会主義、共産主義を主張する教職員組合が台頭してきて、
わたしの小学校の教師たちにも共産主義を是とする教師が
結構いたのかもしれません。
教職員組合の勢いが増してきたように思いますし
それとN先生は一線を画していたのかもしれません。
N先生なりに、それとは抵抗したかったのかも、と
今なら思います。


18、度が過ぎる生徒のイタズラに、校長室に呼び出される

さて、最後に持ってきたこの項目。
このわたしのクラスは偶然とはいえ、N先生という、とんでもない先生と
いじめっ子やら悪ガキやら、とんでもない生徒が多いという
稀にみるとんでもないクラスだったのは間違いないです。
悪い部分は重なるものです。

そんな中、K先生は、
生徒を竹刀で叩くなど、多少行き過ぎた指導はありましたが
それでも休み時間は総じて生徒は思い思いにのびのび遊んでいたし、
将棋もみな反対もせずに楽しんで取り組んでいたし、
たとえ先生が教室にいたとしても、それが当たり前で
自由に過ごしてました。いつも怖がってばかりではありませんでした。

こんな先生だから、やはり今振り返れば
父兄や他の先生からの抗議がなかったとは考えられません。
当時はわたしも子どもだったし、教師に物言う父兄なんているものか、
そんなことすら想像できませんでしたけど。
で、
当時のわたしの小学校は4年の時に古い木造校舎から建て替えが始まり
メイン校舎は鉄筋コンクリートの4階建てになりました。
6年になると、教室はその4階に移りました。
その6年の時の出来事です。
なぜ男子がこんな行動をしたのか覚えてませんが、
その日の昼休みに、男子は4階の教室の窓から中庭に向かって
紙飛行機飛ばしをしてました。
誰が始めたか、いじめっ子も、そうでない子も、多くの男子が
面白がって飛ばしていたかも。
当時は4階建てなんて珍しいし、高い場所から下を眺めるのも
それまでほとんどの生徒があまり経験のないことでした。
誰が滞空時間を長く保てるか、紙飛行機に多くは夢中でした。
そのうち誰かが、も少し重さのあるものを飛ばし始めたようです。
見てなかったので何を飛ばしたか分からないのですが、
紙でないものでも、どれだけ遠くに飛ばせるか
競い始めたようで。
飛ばす、というか、投げ始めたといった方がいいのかも。
でも、そこは中庭。下に誰かいたら危ないよなあ・・
と、またバカをやってる、と、チラッと考えてました。
もうすぐ昼休みも終わりを告げる、5分前の予鈴が鳴り、
それでも男子は飛ばすのをやめず・ ・ ・ ・
間もなく、教室のスピーカーから
「6年5組のN先生、N先生、校長先生性がお呼びです。
至急校長室へお越し下さい」
と放送が。
N先生はいつものように左端のマイ教壇にいました。
校内放送が聞こえたことで男子たちもふと我に返り、
物を飛ばすのを止めました。

教室にいるのに、生徒を注意しない先生・ ・ ・ ・
「全くお前たちのせいで・ ・ ・」
こんなセリフを吐きながら、N先生は苦笑いを浮かべ、
教室を出ました。
その表情、後ろ姿は何ともいえない哀愁を帯びているように感じ
この時初めて事の重大さに気が付きました。
自分たちのせいで先生が注意を受ける・ ・ ・ ・

こんなことは初めてだったのでかなり衝撃を受けて
記憶に刻まれました。

さあ、昼休み開けの教室は、N先生がなかなか帰ってこないので
学級委員長を中心に学活に変更です。
今はHRと言うのかな。
学級会議が始まりました。
明らかに自分たちのせいで先生が呼び出しを食らった。
さあ、先生が戻ってきたらどうするか?
取りあえず、謝ろうと話はまとまって・ ・ ・ ・


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N先生の型破りな話はここまでです。
エピローグとして。
ここからは、当時の認識を現代の認識と同等に語れない話をします。
差別的表現になってしまいますが、当時はそういった認識がなく
社会通念上普通だったこととして読んでください。

その後のN先生は、聞くところによると、
わたしたちが卒業すると同時に同小学校から移動になりました。
移動先は、障害児の特殊学校、今でいう特別支援校に移動です。
これは、当時としては全くの異例で特殊学校勤務の教師は
特殊学校間での移動はあっても、普通学校から移動されることは
ほとんどありませんでした。
これは何を意味するか、
言葉はものすごく悪いのですが、左遷のようなものです。
N先生は、二度と普通学校(こう言う風に分けて表現するのも
問題あるとは思いますが)に戻らなかったと伝え聞きます。

なぜそうなったかは、やはり
今回紹介した最後の3つのエピソードが
N先生を前々からよくは思わない教職員組合やら
PTAやらに、かなり影響を与えてしまった事は間違いないでしょう。

当時生徒だったわたしからすると
こんな先生、こんなクラスは最悪としか考えられず
嫌な思い出ばかりが大半を占めていたのですが
年を重ねて行くにつれ、段々と
色々とおかしな点は多かった先生ではありましたが
折に触れ社会生活観点から思い返すたび
学校では学べない、実に多くの事を体験した
貴重な2年間だったと思えるようになりました。





関連過去記事:
型破りな先生 その1

型破りな先生 その2