先日の関ヶ原訪問では残念ながら
今日は関ヶ原から伊勢の国桑名向かう道、伊勢西街道を歩きます。
大きなくくりでの「伊勢街道」は関ヶ原を出て途中で養老山系の東側を回り三重県に向かう伊勢東街道と、西側を回る伊勢西街道に分かれます。
伊勢東街道は[養老道を歩く]と銘打って2021年に歩いた南宮大社から桑名に歩いた道と近いルートです。
今回の伊勢西街道、三重県側から見る濃州道、巡見道と呼ぶ街道とも重なりますが、
(みえの歴史街道ウォーキングマップ参照)
タイトルは岐阜県側から見た「伊勢西街道」に統一していくことにしておきます。
朝の関ヶ原駅、今日は先日とはうってかわって青空!
駅の地図に旧伊勢街道表記が。
中山道も北国街道も書かれていないのに何で?と思いましたが、島津の退き口ルートだからなのでしょう。
現在は国道21号線にトレースされている中山道からひっそりと別れるこの道が伊勢西街道。
ここに昔、立派な道標が建っていたはずです。
歩き出したすぐにお稲荷さんがあったので朝イチの参拝。
お稲荷さんですが道中安全をお願いします!
次に現れる石標と案内板は、本多忠勝陣地五間とあります。
関ヶ原の戦いの旧跡です、入って行ってみます。
公民館と民家の軒先の狭い間を抜けていきます、ちょっと入っていいのか心配になりますが「本」の字の幟が見えてるから大丈夫だろ・・・。
狭いスペースに常夜灯とお堂がありました。
中には馬頭観音さま。
関ヶ原古戦場めぐりもまだかじった程度にしかやっていないのでいつかやらねば。
茶畑に花が咲いています、へー、お茶の花ってこんな花なのか~。
調べてみるとチャノキはツバキの仲間で秋から冬が花期らしい。
街道歩きはいろいろ勉強になります。
左の道から歩いてきました。
右の道と合わさる地点にお地蔵さまのお堂と道標があります。
左 旧道
ここまで歩いてきた道は旧道で、右が新道という意味です。
現在は歩いてきたとおり「旧道」の先に関ヶ原駅がありますが、
鉄道開業当時は現駅の東、新道の先に駅があったようです。
九里半街道という案内看板が。
この九里半街道は琵琶湖と濃州三湊を陸路で結ぶ水運と水運間を繋ぐ物流の道で途中まで伊勢街道と重複しています。
・・・ん、後ろになんか石標があります!
まったく・・・読めない。
裏の明治という文字だけかろうじて読み取れました。
残念、なんだかわかりませんでした。
島津の退き口でよく名前を聞く烏頭坂。
かなりの坂ですがどう見ても盛大に切通しになってますよね。
昔はまだこのあたりは尾根上だった地形に見えます。
高速道路をくぐってもまだ尾根が続いているようです、上に祠があるし。
切通しを越えてからすぐ、島津家の紋の入った幟が建っているのも尾根上。
島津豊久墓という石柱がありますがどうやらお墓ではないみたいです。
お墓ではなく、おそらくここは激戦地だったという伝承の石碑のようですね。
薩摩ベンチ、岐阜県と鹿児島県は姉妹県だそうです。
薩摩藩には宝暦治水でお世話になっている濃尾平野民としては頭が上がりません。
目の前の昭和建設さん太陽光の発電スペース、車での史跡訪問者に駐車場を提供してくれています。
理解ある会社だなぁ、社長が歴史好きとかかも?ありがとうございます。
烏頭坂の激戦地を過ぎてのお地蔵さまのお堂、鞘堂に守られていました。
まるでお城の城壁?
門前の集落に入る上り坂。
坂の途中に古い石仏と五輪塔、真ん中の大きいのは享保二年の庚申塔。
坂を上りきると、城壁は木曾神社でした。
木曽義仲公を祭神とする木曽神社、他では見たことありません。
珍しいですよね。
門前の集落を通ります。
秋葉さんの常夜灯前に門松、もうすぐお正月だなぁ。
てか、常夜灯にこんな立派な門松用意するのですね。
振り返り、伊吹山が白く光っています。
元はどんなお店だったのだろう。
ストビューのいちばん古い景色でももう営業していない様でした。
麦房神社、参道脇の水路からは背後の南宮山の美味しい水?が豊富に流れてました。
麦房神社の高速道路をくぐる参道、ちょっと見てきます。
獣害フェンスを開けて。
高速道路建設時より前からこんな石垣だったのかな、高台に登ります。
登れば景色が見えると思ったら高速道路の、防音壁でなんも見えない・・・。
街道に戻ります。
道がゆっくり右にカーブする場所に長い塀といかにも昔の公共の建物っぽい建築が見えてきました。
このあたりの中心的な町だった牧田宿(パンフ表・裏)に着きました。
(参考はこの後歩く地域のパンフレット、大垣市HP、上石津地域の魅力のページ)
瓦に〒マーク、郵便局です。
旧郵便局と五井家の屋敷。
大垣市景観遺産に指定されていますがちょっと荒れてきているように感じられました。
夜間電報電話受付、今では何なのかわかりませんね。
駒つなぎ石、つなぎやすそうには見えませんが笑。
向かいの建物の壁にはレトロ看板が生き残っています!
「鋼鉄製・全廻転部防水式 山口の自轉車」
轉が旧字。
Wikipediaで少ない情報のある昭和38年まであったメーカーでしょう。
ここからもうしばらくは九里半街道と重複区間です。
宿場的雰囲気はこの周辺だけですが長く残ってほしい景色です、続きます。