いにしえの川底は田んぼになってました。
旧佐屋川の川床を越えて右岸堤防は、削られたのか、左岸より傾斜はゆるいな。
ただこの後は街道が消えてる区間が多いのです。
しかも下調べで見つけてた立石の道標というのを見つけられませんでした。
なので何となくテンションは上がりません。
写真も少なくなってきます。
八開郵便局辺りの裏からようやく旧道が。
これはようやく、らしい景色。
さらに突き当りにお地蔵さまと道標~。
ややテンションアップ。
左、指さし、京 高須 今尾 道。
やっと高須の名前が出てきました。
右指さしは名古屋津島道。
慶應4年は幕末戊辰戦争の頃。
幕末の道標の多さはそれだけこの時代に人の往来が多かった証拠ですね。
神社の後ろに木曽川の堤防が見えてきました。
レンコン畑にレンコンがほかってある。
神明社、何てオープンな神社。
昭和には東海大橋より上流にあったのですが、
江戸時代から明治まではこのあたりに渡しがあったそうです。
そして堤防の上に。
はい鉄橋どーん。
今度の木曽三川(てか今回は木曽長良の二川ですが)渡りは東海大橋です!
一見一つの橋に見えますが実は二つの橋の連続になってます。
二つ合わせて1228メートル、昭和44年完成の橋です。
その前に愛知県側の橋詰の川上側にある謎の巨塔を見に行きます。
車で通るときいつも気になってたのです、が、昔の地元の議員さんの顕彰碑らしいですが見てもなんもわかりません。
昭和の給父の渡し跡。
さ、見るとこ見たのでまたまた川渡ですよ。
まずは東海木曽川橋。
歩道は広いけど、昭和44年の技術でもやっぱり車が通るとふわっと揺れるのね・・・。
木曽川、このあたりが愛知岐阜県境。
なんとこれが真冬の伊吹山、この時期としては信じられないくらい雪がない、全く白くないわー。
橋はいったん途切れて・・・。
次は東海長良川橋。
長良川。
でも長良川のこの区間は明治時代に木曽川合流してた区間を分流して一から作った部分。
明治まではこの場所には村があったのだそうです。
今昔マップon the webでこのあたりの現代と明治の地図を比較するとホント明治の大規模河川工事には驚きます。
・・・渡り終えました。
東海大橋も揺れはするけど尾張大橋や伊勢大橋よりは歩道の幅が倍くらいあるのでへーきへーき。
下の川の水面が見えた本橋と歩道の隙間もしっかり隠してあるし。
ちなみに誰一人すれ違いませんでした。
しばらくはまあ古い道をたどれます。
さざんかの生垣が満開、たった一輪だけ白花がある!
なぜ一輪だけ真っ白な花が?
八重咲だし。
マンホール。
輪中の家ぽい石垣。
集落を抜けてからがまたキツイ農地整理済みの消えた街道で泣。
ひたすら何もない、延々先が見通せる道はツライー!
さらにそのあと県道歩き。
時間も押してきて高須の城下町の散策は後日になりそうです。
このへんもう競歩のように歩きます、写真はたまに写してもこのざま。
じつは上の写真は後日の撮影。
高須城下はもう近いのですが・・・時間切れです。
この橋を渡ってから海津市役所方面に街道離脱、バスの時間迫る~!
4分前に海津市役所バス停到着でした、やれやれです。
一路岐阜羽島駅までバス旅でした。
高須街道の99パーセント歩き終わりましたが、残りの1パーセントが城下町なので見逃すわけにはいきません。
後日、車で訪問してのグランドフィナーレです。
続きます、ラストは高須城下町攻め編です。