本日の作戦・・・・
臨機応変が足りなく無残な結果に・・・
(遂行者君、このブログみたら反省せい)

おみくじで言ったら凶ってとこっすかね><

$Daddy

まあ、凶は凶で得るものもあったし、いっか^^;
さぁ、次じゃ~~^^



バイクの乗ってどこかに行きたい~~☆

$Daddy

もっとも、この時期バイクで遠出すると足が寒さで固まるからなー・・・
過去にも旧道の三国峠をバイクで越え。。。

信号で停まると、出したはずの足が出てなくてw
バタンって倒れるww


書いてるヒマが・・・
なーーーーーーーーーーーいww

長文のブログ書いてる人、尊敬っす^^;

$Daddy

日常は書くとやばいネタしかないしなー・・・



211年、劉備が益州に進出。これを怒った孫権は、劉備に嫁がせていた夫人を引き上げさせた。
(夫人は、日本では孫尚香として有名だが、これは京劇で使われる名称。)
孫夫人は養育していた劉禅を、そのまま呉に連れて行こうとするが、
趙雲は、張飛とともに追い、孫夫人の旧臣である周善を斬り捨て、劉禅を救出した。

228年の北伐の際には、馬謖の失策により、おとりとして箕谷に進出していた趙雲と鄧芝も撤退。
趙雲は殿軍として、兵をよくまとめ、軍需物資を殆ど捨てずに退却に成功したため、
孔明は恩賞を出そうとしたが、敗軍であったため道理に外れると趙雲は辞退。
逆に孔明に「十月を待って冬の支度品として兵に下賜されては」と進言。
孔明は深い感銘を受け、兵の士気もあがった。


常山郡真定に生まれた趙雲子龍。Zhao-Yun
身長は184~194センチ、優れた風貌に恵まれていたそうだ^^

192年、劉備は公孫瓚の元に身を寄せていて、公孫瓚から命じられ袁紹にあたった時の
騎兵隊長が趙雲だった。その後、趙雲は公孫瓚のもとを離れる。
劉備と趙雲の再開は200年。空白の8年間は、今もって謎のままである。

208年、劉備が曹操に大敗したとき、乱軍の中から後の劉禅と劉備の夫人を救出している。
演義では、曹操軍の大将など五十余人を斬り捨て、乱軍の中から脱出するシーンは
趙雲の活躍をものの見事に脚色していて素晴らしい。

217年以降の漢中の戦いの一戦では、偵察隊として出た趙雲たちが
曹操軍本隊に囲まれてしまい、戦いながら見事に退いた。
その際、仲間の張著が負傷し曹操軍の重囲に陥ったが、趙雲はとって返して彼を救出し帰陣した。

帰陣した趙雲は、張翼が陣営の門を閉めようとするのをやめさせ、
門を大きく開かせ、旗を全て伏せ、物音を断った。
曹操軍は、そのまま大軍で押し寄せたが、陣の奇妙な状態に伏兵を警戒し、兵を引こうとした。
まさにそのとき、趙雲は陣太鼓を轟かせ、弩を一斉に射込み、曹操軍を打ち破った。
翌日、劉備は「子龍は一身これ胆なり」と絶賛。軍中では虎威将軍と呼ばれた。
演義では孔明の空城計として出てくるが、事実ではないらしい。
空城計は趙雲が本家本元だった。