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ごまめが歯ぎしりをやめる日

くだらない事をうだうだと書ける今日という日に、心から感謝。

チャレンジ富士五湖から2週間が過ぎた、5月4日。


ゴールデンウィークに大きな予定を入れなかったこともあって、近場で1つ大会に出ようということになり、「春日部大凧マラソン」を走ってきた。



富士五湖の翌日にもちゃんと出社して、普通に仕事もこなしはしたものの、レースの前からどうにも収まりが悪かった左股関節の痛みが太もも、ひざ、ふくらはぎ、足の甲にまで伸びて、歩いていても左脚全体に痺れがくることが多くなった。


春日部はハーフマラソン(21.0975km)なので、無理せずゆっくり、練習のつもりで走ろうというより走るしかない状態で、自己ベストより15分近くも遅いタイムでゴールした。



ウルトラの後のレースというのは、すぐ5分/kmのスピードに切り替えられる能力を私は持っていないので、とにかく最初はゆっくり恐々。沿道からの声援や、給水や警備のボランティアさんにもお礼を言いながら、晴天の下、最後まで楽しく走ることができた。



会場では地元の走友会の人達にも会ったのだが、みんな口を揃えて「あの日は(棄権でも)しょうがないよ」。


長野マラソン、かすみがうらマラソンに赤羽での駅伝など、みんな同じ4月21日、冷たい雨に打たれながら走ったのだから、富士五湖はなおさらキツイよねと言ってもらえた。




100kmの部・男子の完走率は51%。



寒さ対策、雨の対策をちゃんと考えていればなんとかなったかもしれないと思うと、悔しさが全くないわけではないが、70kmまでたどり着いて、あの状況なりの達成感、やりきった感をしっかり味わって帰ってこれたのが、初めての途中棄権でもガックリこなかった理由だと思う。







あの日、朝7時過ぎの山中湖。



激しく冷たい雨に打たれながら、ふと思った。






俺、高いカネ払って、朝からこんなトコで、なにしてんねやろ。。





家に帰り、大会の参加記念Tシャツを開き、

背中に書いてあった言葉に、



「なにしてんねやろ」の答えを見つけたような気がした。






ごまめが歯ぎしりをやめる日-Tシャツ





最後の2行。




「自分を興せ。」 「未知を愛せ。」





これこそが 「挑戦」 であり、

私が走る理由、走ることを通して挑戦する理由なのだろう。




1年、いや、半年も経てばダメージも癒え、「来年こそは」という気持ちに満ちることだろう。




負けた試合からは多くのことを得られる。


それを生かせば、きっと来年は富士北麓に帰って来れる。



だから、一敗地にまみれるのも悪くない。






春日部大凧マラソンのゴール前。




挑戦者たれ。と書かれた赤いTシャツを着て走る私に、沿道から



『富士五湖ランナー、がんばれ!』 と声が飛んだ。




嬉しかった。この大会に出て良かった。





あいよ、と手を挙げて声に応え、最後少しだけピッチを上げてゴールに飛び込んだ。




天候がだいぶ回復して、雨の心配がなくなった。



野鳥の森公園を抜けた後は下り基調で、いくぶん走りやすくなる。



青木ヶ原樹海を見下ろしながらの陸橋、精進湖の風景、本栖湖手前の地下道・・・これらを見ず、走らずして帰るのはきっとモヤモヤが残る。



本栖湖の関門・エイドに預けてある着替えの荷物をピックアップしておかないと、トラックがスタート会場に戻るまで待たねばならなくなる。





・・・など、いろんな理由はあれど、今の自分にできるのは本栖湖まで走り抜くこと。



足取りの重さは最たる段階まできていたが、ゆっくりでも目指すべき場所まで進もう。ようやく集中して走れるようになったのが、ここからだった。



瀬々波大橋、青木ヶ原大橋、赤池大橋・・・眼下に広がる青木ヶ原樹海には目もくれず、下り勾配に身を任せて駆け下りる。



精進湖は今年も長く、厳しい道だった。

道路脇の表示版に記された気温は5℃。身体が温まらない中、走っては歩き、また走りの繰り返し。



そして、本栖湖へとつながる国道139号。往路最後の一本道。


折り返してきたランナーとの交差が絶えない歩道。

ここまできたらもう歩かずに本栖湖まで。

気合いを入れ直して、先の視界が開けるまでひたすら我慢した。



見えてきたのは、本栖の交差点。

地下道の階段をゆっくりと降り、ゆっくりと登る。



最後の直線。遠くに見える本栖湖。

良かった。ここまで来れた。

自分なりにこの日の達成感を味わえる場所まで、意地でたどり着いた。



もう悔いはない。やりきった。


最後だけでもと、周りにいるランナーをすり抜けるようにしっかりと走った。







69.8km。本栖湖県営駐車場。




関門の前に、係員がいた。











「タイムオーバーです。ナンバーカードを外して下さい。お疲れ様でした。」







関門閉鎖時刻は、14:30。

目の前の時計は、14:34を指していた。





脚を止め、ストップウォッチを止める。


今年のチャレンジは、本栖湖で終わった。




(つづく)


ちょうどフルマラソンの距離を走った場所にある、河口湖のエイド。



去年より、いや普段よりも人が少なく、閑散としていた。

合流する72kmのランナーもあまり見かけない。


走るペースとしては去年とほぼ変わらないが、

寒さのためか、トイレに立ち寄る回数がここまで4回。

このロスが大きく、走行中の順位としてはかなり後ろに

なってしまったようだ。



エイドで冷たい水やスポーツドリンクを飲む気になれず、温かい飲み物(コーヒー、ココア、味噌汁)があれば並んででも補給した。お湯だけもらって腕や指先にかけたりもした。


それでも身体の芯がすっかり冷えてしまっては、気休めにしかならない。



やがて雨が小降りとなり、空はだいぶ明るくなったものの、厚い雲が低く垂れ込める天候は変わらず、霊峰富士がある方角に目を向けても、ただ暗いねずみ色の風景が広がるだけ。気分的にも本当に苦しいレースだ。



ビニールのポンチョを捨て、ようやく本来のフォームで走れるようになったのは43km過ぎから。


持ち直せるかどうか。体力を少しでも戻して、苦しい終盤までの余裕を作れるかどうか。

ここからが完走の可否に大きく関係する時間になると思い、とにかく「軽く走ろう」と言い聞かせながら、河口湖、そして西湖へと向かっていった。




しかし、思うように動かない。


ピッチの幅は狭く、すり足のような走りしかできない。

息は苦しくないのに、前に進んでくれない。。。




早々に 「脚が終わった」 ことを、ここで自覚した。




両肩は冷えで筋肉が固まり、首まで鈍い痛みがきていた。

前を追い抜いていかねばならない区間で、逆に多くのランナーに抜かれていく。。



持ち直す余地もないまま、自分の思いとして「絶対に歩いてはいけない」と決めている西浜小・中学校の関門を前にした上り坂で、とうとう歩いてしまった。




関門にはリミットの15分ほど前に着いたものの、低体温症の身体はかなりの熱と糖分を求めていたようだ。


エイドでホットのブラックコーヒーを何度もおかわりし、お徳用のチョコレート(アルファベットチョコレート)を・・・10個近くむさぼった。



去年のイメージで例えれば、90km走ったぐらいの疲労感に襲われている。

とにかく先に進まねばという思いだけで、西湖へ。




折り返しの本栖湖まで、あと22km。


満足に走れない身体で遠い遠いゴールを目指すことの、なんと辛いことか。

西湖はもはや、最後の力を振り絞るぐらいの気持ちになっていた。



寒い中でも応援してくれる沿道の人達に励まされ、やっとのことで野鳥の森公園まで。


待っていてくれた嫁にも満足な返事すらできず、エイドの吉田うどんを食べる気力だけはなんとか残っていたものの、イスに座ってうなだれたまま、こんな調子でこれ以上行けるのかどうかも分からないまま、10分近く時間が過ぎた。




「いつやめてもいいんだよ」と、嫁は言った。



決断の時が来ていた。




(つづく)


去年は雨も風もなく、わずかに富士山も拝めた山中湖。



今年は強い雨に厳しい寒さ。視界も悪く、向こう側が見えない。

この上なく冷酷な歓迎ぶりだった。



まだ20kmも走っていないのに、脚が重くなる。

筋肉の冷えは確実に進んで、走る以外の動作がだんだんと

できなくなってくる。



腕が上がらない。時計を見ることもできない。

サプリメントを摂ろうにも、手がかじかんで

パンツのファスナーが開けられない。



あきらめて、エネルギーゼリーを補給しようと

後ろポケットに手を伸ばそうとしたのだが・・・


身体を少しひねっただけなのに、わき腹に激痛が走った。

軽く肉離れを起こしたっぽい。何でこんな簡単なことまで

できなくなるのか。。。



道路情報の温度表示は「0℃」

雨に叩きつけられるだけでなく、横を通っていく車が

水たまりを踏んで、大量の水ハネをランナーに飛ばしてくる。



ダメージの蓄積が、今日はとんでもなく早い。

ネガティブなことばかりを考えながら、

それでもようやく湖の東端までたどり着く。



折り返して、再び西へ。少し空が明るくなってきた。

湖面には湯気が立っている。



ママの森を抜けて、エイドへ。

冷たい水を飲める状況ではなかった。



イスに座り、毛布に包まれて憔悴しているランナーが数人いた。

スタッフが携帯で救助を求めている。





ここに温かい飲み物はなく、トイレへ。




長い列・・・5分ほど待たされ、用を足して再び走り出す。


それからすぐのことだった。




全身に震えがきた。止まらない。


肩も、指も、歯も脚も、意思と関係なくガタガタと震え始めた。







つい、口走っていた。




「死んでたまるか・・・山梨のこんな田舎道で(失礼)・・・」








すぐさま両腕両足を思い切り動かして、ピッチを上げた。

トボトボ走っていても、体温は下がっていく一方になる。


とにかく無理してでも動いて、震えを止めなければ。

死にたくなかったから、必死に走った。。。




2分ほどで震えは止まったが、

今思えば、とても怖い時間だった。




ピンチこそ脱したといっても、

手はかじかみ、顔の筋肉も固まったまま。

脚はもう寒いを通り越して、感覚がない一歩手前まできていた。




27.6kmにある最初の関門を、約20分の貯金で通過する。


関門を過ぎたエイドのテントには、たくさんのランナーがいた。

雨宿りという感じではない。毛布に包まっている人もいる。

どうやら皆、収容のバスを待っていたようだ。



まだ動けるなら、山中湖だけで帰るわけにはいかない。


でも、完走を考えられるような状況でもない。

明らかに去年よりペースは遅く、余力も少ない。



自分にできるのは、ベストを尽くした上で

無茶をせず、生きて帰ること。


これはレースだが、趣味の範囲は決して超えない。

趣味である限り、生きている限り、チャンスは何度でもある。




100kmという距離の先にあるゴールを考えず、

自分が納得できる場所まで行くことを目指そう。





・・・修羅場と化した山中湖を抜け、

再び忍野八海を通って富士吉田へ。



向かうは40km、そして河口湖。

雨はまだ止まない。



(つづく)


「第23回チャレンジ富士五湖」レース前日。




午後3時ごろから降り始めた雨は、暗くなるとすっかり本降りとなり、

気温が下がるとみぞれに変わっていった河口湖畔。



雨のイメージは、去年の経験そのままでいいだろうと思っていた。

この時点で「山をナメんな。自然をナメんな」だったのかもしれない。




4月21日。レース当日。



朝は2時半起床。


準備を済ませ、早すぎる朝食を流し込み、3時半にホテルを出る。



外は雨。しかも寒い。




ただの雨でありますように。


スタート地点に向かうバスの中で、

昨年に続いての100km完走、そして今日の無事を祈った。




・・・ふと外を見ると、予想外の光景。




雪。はっきりとした積雪。



ひと晩で随分と降ったらしい。

路面は大方、雨が溶かしたとはいえ、アスファルト以外の地表は真っ白。



後で聞けば、今年の開催の可否はかなり微妙だったらしい。

悪天候のピークがちょうど、早朝の時間帯にぶち当たったようだ。



ギリギリまで体育館に篭り、5分前にスタートエリアへ向かう。

みんな同じことを考えるようで大混雑となり、競技場のトラックに入ったのはスタート30秒前だった。




午前5時、スタート。



正直、嫌な予感しかしなかった。



そして、さっそく的中した。




強い雨脚、雪溶け水と合わさって、大きな水たまりの連続。

シューズは1kmも走らず水没し、ウエアも冷たい雨に首から濡れていく。



全身レインコートの完全装備、までは大げさだろうと思っていた私。

しかし「それが正解」だったことを悔いてもしょうがない。


両腕が冷えて、5kmも経たずに肩から痺れがきた。

ビニール袋で作ったポンチョの中に両腕を引っ込め、

窮屈なフォームで走りつつ、雨が止むのを待つしかない。




一路、山中湖を目指して忍野八海へと入る。

状況はさらに悪くなっていた。



民家の屋根には、はっきりと雪が積もっている。

この辺りも昨晩、相当降ったようだ。



大きいだけでなく「深く、冷たい」水たまりが続く。


最初は慎重に歩を進めていた周りのランナーも

そんなの無駄なことだと分かりはじめたようで、

みんな勢いよくバシャバシャと飛び込んでいくようになった。



道路にもまるで川のように水が流れ、

大粒の雨もまた、容赦なく降り続く。



山中湖の手前にして歩き始めるランナーもいた。

途中、どのトイレにも長い列。異常なレースにも程がある。




富士五湖最初の湖、山中湖が見えてきた。




本降りの雨なのに、降り積もった雪が溶けていない。

雨の冷たさが尋常でないことが分かる。



気温は0℃。

ちょうど雨のピークを迎える時間帯。



自分の身体が徐々に冷えていくのを感じながら、

山中湖1周の地獄行脚に身を投げた。



(つづく)