ニューヨークは人種の坩堝、と言われますが、そのために日本に住んでいたら考え付かないような災難、犯罪、嫌なことも起こりますし、信じられないほど「Politically Correct」であることに神経も使わなくてはいけません。
でも、すごく小さいうちからこんな感じなので、「異」なるものを受け入れる器はどんどん大きくなります。
たとえば、
土曜日の日本語補習校から、娘とその友達のちーちゃんとあっちゃんをピックアップしてタクシーに乗ったときのことです。
ちなみに、ちーちゃんとあっちゃんは、大阪出身、今でも日本語はバリバリの大阪弁。
だから彼女たちが英語でしゃべった事も、なんだか気分は大阪弁。
(だからここでも大阪弁に訳して書かせていただきます)
でも、わたしの大阪弁変だったら、ジェニ
さん(とてもサービス精神旺盛で文章が本当にお上手な方です)、どうぞご指導ください。
タクシーの中でも、全然人見知りしないちーちゃん、いつもこんな感じ。
「おっちゃん、どこから来てん」
「ロシアさ。で君たちは」
「大阪や。知ってる? ジャパンやで」
「知ってるさ。なんだか楽しそうだなぁ。これからどこに行くんだい」
「日本語の学校が終わったから、これからプレイデートすんねん」
「ほう、いいなぁ、君たちいくつなんだ」
「わたしは10歳で、この子(恥ずかしそうにしているうちの娘)は9歳、で、これは私の妹で6歳。で、おっちゃんは、いくつ?」
「251歳」
「ぎゃ~~~~」
と大うけ。
うちのビルのハンディマンのイズマットは、雪が降れば一緒に大きな雪だるまを作ってくれるし、時間があるとキャッチボールの相手までしてくれるからビル中の子供たちはみ~んな彼が大すき。
昼間うちのビルで働きながら大学に通っているみたいです。
その彼が先日、こんなこと言っていました。
「今、兄貴、モンテネグロに行ってるんです」
「わぁ、旅行?」
「僕の両親はモンテネグロ出身だから、親の要請でモンテネグロの女性とお見合いをするために帰ったんです」
「へぇ、モンテネグロでもそんな習慣があるのね」
また、アイルランド出身の,うちのビルのドアマンであるマットは、上の息子さんが、名門公立校、ブロンクス・サイエンスに合格したとき、本当にうれしそうに報告してくれました。
移民としてこの国に来たものの、きっと本国にいたらもっともっと高い能力を要求される職業につけたはずの彼と奥様が、いかに教育熱心かは簡単に想像がつくし、決して裕福ではないことも知っているだけに、彼らの達成にわたしまでものすごくうれしかったものです。
公共機関のストライキの日は、わざわざブルックリンから3時間かけて歩いてわたしたちのビルまで来てくれました。本当に頭が下がります。
また、昼間はしゃきっとした制服に身を包み、取り澄ましてるパークアベニューのドアマンたちも、制服を脱ぐと大体がその辺にいる労働者風のおにいちゃんかおっちゃん。その落差の激しさがおかしい、おかしい。
他所のビルのドアマンばかりではなく、車を磨いてるお抱え運転手たちも、みんな気持ちのいい笑顔で挨拶をしてくれる、気のいいおじさんばかり。
先日のタクシーの運転手は、20年前にカンボジアからタイに亡命し、国連の難民キャンプに収容され、そこからインドネシアを経てアメリカに来たという43歳の男性でした。
両親が亡くなった後、叔母さんに当たる人が国を出ることを誘ってくれたんだそうです。
「本当に彼女には感謝してるよ。やっぱりアメリカは一番だよ。ボートピープルの僕たちも平等に、こうして受け入れてくれたんだもんな、ホント、おれなんかボートピープルだからな」
また、このNY、研究者もはまる街としても有名。
何を隠そう、ちーちゃんのママ、知代さんは世界的な癌研究の権威、「Sloan Kettering Cancer Center」で確か脳腫瘍の副作用に関する研究をしてらっしゃるはずです。
ご主人の研修について日本からいらしたのですが、たまたま得た現在の仕事が面白くて辞められなくなり、肺がんの権威である外科医のご主人だけが日本に戻り、彼女は二人の抜群に出来のいい、天真爛漫なお嬢さん2人とこちらに残ることにし、普段は女手ひとつで子育てをしながら、研究に打ち込んでらっしゃいます。
ちなみに日本のお父さんは、毎日、Eメールで算数の宿題を送ってくれるそうです。
ここで、ひとつ断っておきたいこと。
アメリカの研究者って実は、
「え~~、これっぽっちしかもらえないの?」
と驚くほど年収は低いんです。
あれだけ重要な、尊い職業に就きながら、あのお給料はないんじゃないっていうほど。
それでも、知代さんはじめ、一旦ここに来ちゃった研究者の多くが帰りたくなくなってしまう理由はなんなのでしょう。
知代さんいわく、
「日本では、女であるというだけで閉ざされている世界も、こちらではオープン。実力さえあって、いい研究さえすればどんどん認められるの。それに、世界的に言ってもトップレベルの研究者がその辺にわんさかいるから、本当にコミュニケーションが面白くってね」
NYは1976年に市が破産寸前の危機に追い込まれました。
そしてその数年後には3日間の大停電。街はすさみに荒み、一時はセントラルパークは昼間でも怖くて一人ではとても歩けないほどだったそう。
けれど、このときNYに資本を投入したのが英国だったようです。多くのビルが二束三文でイギリスの会社に買われ、不動産価格はすぐに上向きに。
わたしがNYに来た頃も株式市場が暴落して数年後だったので、今ならおしゃれなユニオン・スクエアやワシントン広場もドラッグディーラーの溜まり場、アルファベットシティなどは、半分崩れたビル、火事で焼けたままのビル、落書きだらけの道の前には、タイヤがない車が放置されていました。
1992年までは不動産価格は下げ止らず、人口流出も続きました。
それでも90年代後半は、アメリカだけが世界で一人勝ちと言われるほどに目覚しい回復を遂げました。
そして2001年には同時多発テロ、
それでも多くの人はこのニューヨークに残ることを選択しました。
これこそが雑多なパワー、混沌としたエネルギーの成せるワザなのでしょうか。
「異」を受け入れる懐の深さは、包容力の大きさでもありますよね。
日本もそろそろ精神的な鎖国を解き放ってもよい頃ではないでしょうか。
今回は特別コメンテーターとして、ちーちゃんのママ、優秀な研究者である知代さんがご訪問くださる予定です。
知代さ~ん、聞こえる???
研究者にとって、またNYで子育てするよさって何だと思いますか?