昨日

『Otonami』から参加させて頂いた、曹洞宗の本部での、坐禅と精進料理と写経の体験。


帰る時、ご住職さんが「皆様気をつけて帰ってくださいね」っと、社交辞令の挨拶ではなく真顔で仰るには、

「今日の2時間半の体験で、皆様身も心も、思っている以上にほぐれて弛んでいらっしゃいますから、ここは安全ですけれども、一歩外へ出たら危険がいっぱい、段差とか、人に話しかけられたり騙されたり、交差点とか、思いがけず急に何かが外部から飛び込んでくるようなことに、フワッとしていて拘らないとオープンになり過ぎて構えないので、危ないのです。2時間くらいは、自分は弛んでいるんだな、っと意識しておいてください。」


弛みをやめて締めろ、緊張を呼び起こして元に戻れ、ではなく、弛んだままで構わないから、弛んでいることに気付いていてね、っというのが、いいね!っと思いました。👍️


昔、ヨガだか瞑想だかの名手みたいな人が、善き心持ちについて、こんなことを仰いました。


「感じてはいけない感情というのは無いのです。


怒ってしまいなさい、

但し、気付いていなさい。


悲しんでしまいなさい、

但し、気付いていなさい(自分が今悲しんでいるんだということに)。


憎んでしまいなさい、

但し、気付いていなさい。」


すごく、この姿勢、好きで、感心しましたし、感動しましたし、印象的で、折に触れ思い出して、自分の感情を見つめてみることをするようになっています。


我を忘れて、瞬間湯沸かし器のようにムカッ腹を立てながらも、ふと一歩引いたところでもう一人の自分が、怒っている自分を他人事のように静かに眺めて「あぁ~私今怒ってるわぁ」と思っている、みたいな。


悲しい目に遭って落ち込んだり泣いたりしても「ふぅん悲しいんだね…」と、別に慰めたり立ち直らせようとしたりとか操作や手出しをせず、ただそばにいて眺めて、その感情を持っていることに気付いていてあげる。これは、自分自身に対しても、人様に対しても、同じで、そういうふうに接されると、なんか感情さん自身の気が済んで、ふぅーっと感情が収まっていくような そんなかんじになる気がします。


ちょっと話が逸れましたが


昨日そんなふんわりした落ち着きを体験しての今日、まだその余韻があるみたいで、何をしても、今までと少し違うかんじがしています。


テレビを見ていても、一昨日までは必ず何かしながらでした。だってジーッとテレビだけ見ていたら時間がもったいないもの。洗濯物畳みながらとか、対面キッチンなのでお皿洗いながらとか、何か手仕事とか書き物とかしながら見て(音を聴いてて、ん!っと思った時だけ画面を見る、みたいな)いました。


でも今日は、なんだか珍しくゆ~ったり。

時間の長さもやるべきことの量も、い一昨日とは変わっていないはずなのに、ただ気持ちが焦らないのです。ゆ~ったり。


ちょこんとゆるっとぽてっと、リビングのテーブルの席に座って、ぽわんと、でも集中して、見るテレビ番組の、なんと興味深く面白いこと。逆に番組がつまらないことにも気付き、そんな時は、だらだらと流しっぱなしにしないで、チャンネルをちゃんと変えられるし。ぼぉーっと見ていたときは、それが面白いのかどうかさえ曖昧に流していました。いろいろ勿体ないですね。


別に、そんなに固く構えずに、目の前のことに集中できます。「目の前のことに集中する」っというと、何か目力が入るような、きぃーっとぎぃーっと力が要るように一瞬聞こえますが、集中するというのはそうではなく、夢中になる、夢中になるというのは好きでたまらないみたいなことですから、好きのパーセンテージが高ければ自然と副交感神経優位の弛みモードなわけです。


こういうかんじの今、特に何もしていませんけども、なにか充実感があるというか、大地に根付いていられるというか、落ち着いた気分で、何となく何かが不安ということもなく、生きてる意味がわからない、なんて小さくでも思うこともなく、なんだかイイ感じです。


調子が良くないときは、何か根拠なく不安だったり、落ち着かなく手持無沙汰で、自分に何の価値があるのかなとか、何のために生まれて何のために生きているんだろうというのをマイナスな気分で考えてしまったり(プラスな、積極的な気分でそれを考えてみるのは良いことだと思うけれど)そんなふうになるけれど、


坐禅、つまり、姿勢を意識して調えて、呼吸を意識して深く丁寧に、息をよおく深く吐ききって、空にして、新しい新鮮な外気を鼻から丁寧に吸い込んで全身の毛細血管に酸素を行き渡らせる感覚を意識してみたりして、そうすると手の指先にまで血流をチリチリ感じて、細胞が喜んでいるのを感じ取れた気がしたりなんかして、ああ…いいなぁ…私って生きてるんだなぁ…なんて、ともすれば有形山です…とまで思ったりなんかする。


日常の中の、禅。


おお、今気付いた。禅って字、示偏(しめすへん)に、単純の単って書くのね。単。ひとえ。シングル。シンプル。


物事は単純なんですよ、っと、示す。


静けさ、という意味でもあるそうです(辞書で禅を引くと書いてあった)。


急いでがんばらなきゃならなきゃならない時もあるし、活、動、熱、急、👊✨💪みたいなことを楽しむ時ももちろんアリだけど、そればかりを良しとして推進し続けるのは違いますよね、いつかヒートして壊れちゃう。


たまには止まって、静かに、ゆったり、ゆっくり、冷却、静寂、も バランスとして必要ですよね。それを、何か、いけないこと、さぼり、ヘタレ、スランプ、みたいに、言わないでほしい。


禅。


(…禅の反対語って何だろう?)


(ああ、こういうこと思うのを、I.A.先生は「興味の振動波」だと言って「不調和だ、進化の邪魔になる」みたいなことを言っておられたのかな。でも、何がアカンの?自然にそう浮かんじゃうんだからしょうがないじゃんか。)


(今日は、禅な時間もあったけど、主には、I.A.先生やK研のことを引き摺ってつい考えちゃってたな。)


(でも、なんか、ちょっとわかる気がしてきたな。こうこうこうです、っと気付いたら、ああそうなんだな、でいいのに、素直に受け取っておけばそれでいいのに、すぐそれに続けて「へーそうなんだ、じゃあこれはこういうこと?じゃあこれはどういうこと?」っと

興味でほじくって変な方へ持っていく…それは不調和なんだよ、っというのは、なんとなくわかる気もします。)


余談が過ぎましたm(_ _)m 



禅 オススメです ( ^ω^)